【はじめに】
本記事は、今回の一連の出来事についての謝罪、及びそうなるに至った経緯を説明させていただきたいという思いをここに書き記し、残すものです。
【一連の出来事の「概要」】
まず、今回の一連の出来事は、私個人によるツイートとそれに連なるツリーツイート(※)、アンケートが元になったものです。
※ 画像1つ目のツイートの後、「自身の感じる生きづらさがどういったものか」「あるいは、それをどういったときに感じるか」という話を当該ツイートにツリーで繋げて語っていたものですが、長くなるため、後述します。
主に上記画像2つのツイートが広く拡散され、議論の的となり、皆様のTLを騒がせてしまいました。何よりもまずはこちらについて、お詫びを申し上げます。
今回の出来事の原因は、自分でもうまく言語化できていないことを言語化できないままに発信したことで、誤解や混乱を招いたことだと考えております。誠に申し開きのしようもありません。
また、当出来事を受けてたくさんの貴重なご意見をいただきました。
内容は概ね下記の3点です。こちらについても弁解の余地はなく、私の落ち度だったと反省しております。
- そもそも、固定の人間はリバの人間から「なぜリバが読めないのか」と聞かれることが多く、こういった質問・やり取り自体に辟易している。
- 固定・リバは決して相容れない嗜好であり、相互不可侵を保つことがその最適解、というのがすでに浸透したルール・マナーである。
- こういった騒動は過去に幾度も発生しているものなのだから、周囲に聞く前に、インターネットで検索をすればよかったのではないか。
今回の出来事で、これまでにも再三質問され続け、聞き飽きた話題をまたも目にする羽目になってしまった方々はもちろん、この話題が広がることでTLの雰囲気を壊されたと感じる方々もいらっしゃるかと存じます。
またご自身の立場や所感にかかわらず、周囲の方の言動や感情に共感して同様の感情を得てしまった方など、さまざまな方に不快なお気持ちを抱かせる結果となってしまったことにつきまして、深くお詫び申し上げます。
加えて、不適切な発言があったことについてもお詫び申し上げます。
寄せられたさまざまな意見の中には、一部ではありますが暴言とも取れるものが存在しました。そういった文言に多少の反発心が芽生えたこと、冷静ではいられなくなってしまったことが原因の一端ではありますが、私が不適切な発言を申し上げたことは事実であり、自身の浅慮が招いた結果であると重く受け止めております。
このたびは皆様の心の平穏とTLをお騒がせしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
【私の感じる「生きづらさ」とは】
こんな見出しを書くと、「謝罪の意味がない」「やはり被害者ぶりたいだけではないか」と思われてしまうかもしれませんが……
一点、どうしても誤解してほしくないことがあります。それは、
私のいう「生きづらさ」とは、決して「自分の書いた作品(リバや左右不定のもの)を読んでもらえないこと」ではない
ということです。
私が発信した一連のツリーツイートについて、こういった理解をしている方が多く見受けられたように感じています。
私の言葉が足りず、そのように読ませてしまったこと自体は自身の不徳と受け止めたうえで、改めて言わせてください。
それだけは、断じて違います。
決して「リバや逆カプが読めないことを狭量だと責めている」わけではないし、「どうにかして自身の作品を読んでもらおうとすり寄っている」わけでもありません。
私はこれまで、リバ(あるいは雑食)と呼ばれる分野を嗜好する中で、ある種の生きづらさを感じてきました。
ある種の、というのはこれがどうにもうまく言語化できるものではなく、自分でもそれがなんであるのかが理解できていなかったからなのですが……
今回、寄せられた意見や友人とのやり取りを経て、ようやくそれを言語化するに至りました。
固定。逆カプ。リバ。雑食。つい、そういった括り・名称で考えていたことがそもそもの間違いでした。
私の感じる「生きづらさ」とは、「リバ派であること」ではなく、
「『基本的にカップリングは受け攻め固定』という、『一般的な概念そのもの』に馴染めていないこと」だったのです。
同時に、私が常日頃から考え、今回の出来事のきっかけにもなった、
- なぜ固定派の人はリバが読めないのか
- 固定派の人はどういったものなら読めるのか
という疑問も、つまりは、
- なぜ自分はほかの人と違うのか
- どうしたらほかの人と同じになれるのか(あるいは、一般的な概念に馴染めるのか)
という、自分に対する問いだったのです。
勝手なことを言っている、と思われるかもしれません。それは承知しています。
けれど、初めて言語化できました。自身の感情を明確化することができました。
(これは完全に余談ですが、確かに私はこの感情に似たものを以前にも経験した覚えがあります。大人になってから初めてADHDという言葉を知り、それまで漠然と感じていたモヤモヤに名前がつくことで得た、「まるで世界が開けたかのような感覚」を、今ひとたび体験しました)
私は何も、リバ派になろうと思ってなったわけではありません。ただ、自分の心の導くままに「それ」を好きになっただけです。
けれどもそうして好きになったものが、たまたま一般的な概念の枠外のものであったために、「自分は人とは違う」という感覚を得ていました。
それでも社会の中で生きている以上、そこに存在する「基本的にカップリングは左右固定」という一般的な概念自体は頭に入っていますし、そういった概念が存在すること自体を疑問視することもありませんでした。
だからこそ、この感情の形が自分でも言語化できず、それを「なんともいえない生きづらさ」として感じていたのだと思います。
【「それ」を理解したうえで】
一連の出来事のきっかけのツイートにもあった「生きづらさ」という文言について、その本来の意図と、それを発言するに至った理由を説明させていただきました。
そのうえで、これまで「なぜリバを読まないのか」と問われることで辛い思いをしてきた方々へ、改めて謝罪を申し上げます。
私は普段(というか、自身が概念の枠外にいるのだと意識的・無意識的問わずに気付いた瞬間)から、「なぜ自分は人と違うのか」と自問してきました。それを考えることが当然でした。
しかしその問いの答えが自分の中になかったからこそ、外に向けて「なぜ」を発信し続けてきてしまいました。
これはひとえに「自分が大きな枠組みの外にいる」ことを明確に理解できていなかった(あるいは、言語化できていなかった)私が、本来であれば「枠組みというもの自体に向けて発するべき『なぜ』を、枠組みの中にいる『人』に向けて発してしまっていた」ために発生してきた問題なのだと思います。
少なくとも、私はそのように認識しました。
これがいわゆる「リバが嫌われる理由」なのでしょうし、確かにわざわざ考える必要もないことについて、再三「なぜ」と問われることは苦痛でしょう。
(これも勝手な言い分ですが、私も今回の騒動で「なぜ『なぜ』と聞くのですか」と問われ続けたことでそれを実感しました)
「なぜ人と違うのか」を考えることが当然の人間と、考えないことが当然の人間では、話が噛み合わないのも当然です。
枠組みの中にいる人に直接的な責任はない、と私は思います。
その大きな枠組み自体、だれかが作ろうと思って作ったものではないでしょうし、その中にいた方も、私が気づいたらその外にいたのと同じように、気づいたらその中にいただけだと思います。
なぜそこにいるのかと問われたところで言語化などしようがないし、する必要もないのは当然です。
私は、ただそこにいただけの個人に向けて、このような質問を発するべきではありませんでした。今回の出来事を通して、ようやくそれに気づくことができました。
自身の感情を言語化することができずにいた。ただそれだけの理由で、質問の矛先を違え、皆様にまで辛い思いをさせてしまっていた。
そのことに気づけた今は、自身のこれまでの行いを深く反省しています。
謝って済むことでもありませんが、改めて言わせてください。
本当に申し訳ありませんでした。
【最後に】
ここまでお読みくださりありがとうございます。
また、一連の出来事から本記事の投稿まで時間が空いてしまったことについても、こちらで謝罪させてください。
今回の一連の出来事について、当然ではありますが、皆様に謝罪を申し上げることが最優先事項、と理解はしておりました。
しかし、それでも誤解してほしくないことや、勝手な意見ではありますが私なりの見解もありました。
それを述べずに謝罪だけすることのほうが不誠実であるとの結論に至り、時間はかかってでもこのような記事を作成することといたしました。
前々項でいうところの「生きづらさ」をこれまでの人生で一度も感じたことがなく、それゆえに私が何を言っているのかわからない、という方もいらっしゃることと思います。
それを否定する気はなく、責めるつもりも、無理に理解させるつもりもありません(し、それは思想の強要です。そもそもしていいことではありません)。
むしろ、そういった方にとって理解の難しい心情を延々と述べたにもかかわらず、ここまで読んでくださったのでしたら、私はその行為と、払ってくれた労力にこそ、最大級の感謝の念を抱き、それを申し上げる次第です。
さらには本記事を読むことで、何がしかの考えに行きついたり、ご自身の心に何か引っかかるものを見つけたり……そんな出来事があったのでしたら、それ以上に喜ばしいことはありません。
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。
また、本記事、あるいは初めのツイートに対し、共感を覚えてくださった方々へ。
たくさんの共感や励ましのお言葉、本当にありがとうございます。個別にお返事ができず申し訳ありません。
私と似たような「生きづらさ」を覚えている方にとって、この記事がなんらかの救い、あるいは気づきに繋がるものとなりましたら幸いです。
ただ一点、お伝えしたいのは、
本記事は今回の出来事についての謝罪、及び私個人の感じてきた生きづらさへの名づけと言語化を目的とした記事であり、これが万人に共通するものとは考えていない、という点です。
また、私と同じような生きづらさを感じる人が私以外にいらっしゃったとして、その人たちこそが「正しい」と言っているわけでもありません。
時代や環境、その時々の場所で視点を変えて見れば、枠の外と内などというものは簡単に入れ替わるものであり、一定ではありません。
自分が運よく枠の内にいるときには、その外にこそ同種の生きづらさを抱えている人たちがいる、ということも大いにあります。
どうかそのことを心にお留め置きのうえ、本記事の内容は、一個人の考えとしてご理解いただくまでにとどめてくださいますよう、お願い申し上げます。
【余談】
うまいこと本文内に差し込めなかったので、こちらで。
本記事において、私は幾度となく、私の抱える生きづらさが「一般的な概念の枠外にいる」ことによるものだと語りました。
けれどそういった、私と同種の生きづらさを抱えている方の中にも、うまく自身の感情と一般的な概念をすり合わせ、その中で生きているという方がいらっしゃるかと思います。
実際、私の「こんなにも生きづらいのなら、いっそ『私はリバです』という主張を表に出さず、どちらかの固定派の振りをして生きたほうが楽なのではないか」という考えに対しても、「普通はみんなそうしているのに、なぜそれができないのですか」といった意見が、固定派に限らず幅広い層から寄せられました。
ですが、それは結局のところ「一般的な概念の枠外で主張をしながら生きるよりも、ひっそりと枠の中に収まっていたほうが生きやすいことが多く、それを選択して生きる人も同様に多い」ということではないでしょうか。
だからこそ、逆に「それを問題にされては生きづらい」と感じる人が増え、上記のような意見に繋がったのだろうと考えます。
この問題については、私が書く以前に偉大な先達たちが言語化してくださった記事が数多くありますので(本当にいろいろありました。事前調査って大事ですね……)、ほか参考文献も含め、下記にリンクをまとめました。どうかそちらをお読みください。