過去ログ[0018] |
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根元的な理解です
いやはやわからなかった
読んでいたら要するに生成概念に収斂するってことですね
基本はトップダウンではなくボトムアップです
なかなか面白い本です
284 名無しSUN [sage] 2022/02/21(月) 05:12:40.47 ID:XcHROjgr
地球を中心に諸天体は運動しているという理解はそう<見える>という視覚の範囲では真理
同様に平面説も狭い範囲で有効な理解を獲られる
球体説は認識に現象するってことでは正しい
ただしあくまでも認識に現象するという範囲で
認識を外したらどっちも誤り
球体説もまたそれが自然だという理解は違う
自然は<一>で<ここ>から<ここ>迄は座標原点の否定で存在しない
球体説は認識を媒介にしたら正しい
285 名無しSUN [sage] 2022/02/21(月) 05:17:00.60 ID:XcHROjgr
光速度一定の原理は理解不能
しかし座標原点、静止の存在が否定され自然の存在形態は運動であり無矛盾、つまり理解可能だと示す
理解不能であるこの原理が至って理解可能であることを保証する
逆説そのもの
286 名無しSUN [sage] 2022/02/21(月) 05:24:03.92 ID:XcHROjgr
科学は自然<認識>
認識した自然は=自然ではない
物理学の自然はたわめられた自然
朝永博士の言葉です
その通りで球体説もまた
287 名無しSUN [sage] 2022/02/21(月) 05:30:11.87 ID:XcHROjgr
自然は運動するエネルギーの濃淡
認識の在り方を媒介に理解するのが科学
認識することそのものを認識する必要がある
球体説もまた認識を媒介にした自然理解で=自然という理解は誤りです
289 名無しSUN [sage] 2022/02/21(月) 05:40:46.78 ID:XcHROjgr
科学は自然が無矛盾でないと成立しない
認識自体が矛盾をもたらす
認識を否定して無矛盾であると<認識>することになる
逆説そのものです
結局認識が宿痾ってことです
決定不能はそういうことかと
徹底的適用で一元論完成の道が拓けるかな
99 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 06:19:27.98 ID:MC7oMp1j0
ある条件で粒子に、ある条件で波として現象するってことだけ
粒子は波が渦の状態、つまり一形態として現象する
静止は運動の一形態ということと同じ
100 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 06:26:17.24 ID:MC7oMp1j0
物理学の自然はたわんだ自然 by 朝永博士
地動説が指摘する一番大切なことは認識に現象する自然は認識の在り方に媒介されていて、そのままではないってこと
101 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 06:31:28.16 ID:MC7oMp1j0
聾唖なら音波は音として現象しない
視覚、味覚なども同じ
これはある物理条件にこう生成するというだけ
自然は全てこれです
103 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 06:39:58.19 ID:MC7oMp1j0
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定、つまり自然の存在形態は運動であり無矛盾だと示す
運動を前提に否定関係は存在しない
真空はディラックの海で判るようにエネルギーの一形態
認識には現象しないが存在する
認識に全ての自然が現象するわけじゃない
自然は運動するエネルギーの濃淡、つまり海であり全てはその濃淡の関係の親和反発の生成過程
万物は流転するってことです
104 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 06:46:10.99 ID:MC7oMp1j0
ある物理状態がある物理条件にある物理状態に生成され、認識の在り方に従い現象するということです
波はある物理条件に渦として生成し、認識には粒子として現象するってことです
105 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 06:49:13.75 ID:MC7oMp1j0
わたしたちが認識する自然はそういうことです
認識に現象する自然は認識器官という物理条件に生成、現象する自然です
108 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 07:01:08.41 ID:MC7oMp1j0
対象である自然現象は同じですが認識器官という自然が生成する物理状態に生成される自然は個々の認識器官の条件、つまり状態に従い現象します
あなたとわたしに現象する自然は同一ですが認識器官の差異に従い現象します
109 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 07:01:42.09 ID:MC7oMp1j0
わたしたちが認識する自然は認識器官の在り方に現象する自然
自然は光速度一定の原理が示すように海です
対象が有と無、つまり否定関係が存在したら科学は自然を理解できない
110 チオスリックス(光) [JP] [sae] 2022/02/13(日) 07:02:06.77 ID:MC7oMp1j0
存在という前提が無効ですから否定関係が<存在>するってこと自体が・・・
わたしたち生物は自然が生成
自然という対象は同じだがそれぞれの認識器官の在り方に従い自然の像は生成される
また認識する場で平面、球体として現象する
同一の自然をミクロ、マクロと違う形に認識は対象を生成する
自然自体は濃淡の海
<ここ>からも<ここ>迄もない
対象は同じ
その認識器官の在り方、認識する場で像は生成される
平面に見える ある範囲で正解
球体に見える ある範囲で正解
認識にそう現象するってことです
まだまだ為されていなかった
道は遠い
自身の認識範囲を拡げる
これもまた像を生成するってことです
まだカッカソウヨウですが、とりあえず
ここにカント的な観念論に陥る罠がってことですか
物理対象を物理である認識器官が像をその態様でさまざまに生成する
自然過程説を認識の在り方自身に適用する
自己言及です
つまり物理状態である自身もまた生成過程です
見たものがそのままの自然ではないということ
ハッブル膨張、エントロピー学説理解は天動説です
光速度一定の原理に反している
個別科学理論自体は天動説なんだってことを意識しないと地動説に成れない
現代科学はまだ天動説を完全に脱却していない
自然から生成される諸生物、諸器官の差違に生成現象する自然
面白いです
> 諸生物、個々の差違の認識器官の在り方に生成される自然
>
> 物理条件下に生成する物理状態と同じですね
> 同一対象ですが物理状態の差違で現象する自然は違うわけです
能力の生成
生成はかなり重要ですね
いろいろ出てきます
道は遠く終了は有り得なさそう
発見は楽しいですが
諸生物、個々の差違の認識器官の在り方に生成される自然
物理条件下に生成する物理状態と同じですね
同一対象ですが物理状態の差違で現象する自然は違うわけです
今また校訂しています。
最終版でありますように。w
地球平面論フラットアース 信じる人がアメリカ ヨーロッパ中心に増加
わたしは球体説もまた違うって説です
認識に現象する自然
全面改稿です
やれやれ
> ピタゴラス→天動説 最小単位 観測問題
> パルメニデス→地動説
> クレタ人→規定 (スピノザ カント ヘーゲル 数学 決定不能 不確定性 ウイルス 次元 自己言及)
>
> 規定 天動説
>
> ヘラクレイトス 光速度一定の原理
>
> 光速度一定の原理 全て
>
> とりあえず
ピタゴラス→天動説 最小単位 観測問題
パルメニデス→地動説
クレタ人→規定 (スピノザ カント ヘーゲル 数学 決定不能 不確定性 ウイルス 次元 自己言及)
規定 天動説
ヘラクレイトス 光速度一定の原理
光速度一定の原理 全て
とりあえず
楽しいです、学問は
自分の理解が一助になればなお
・・・それが地獄への、いや、なんでもありません
規定は否定
→光速度一定の原理
違う物理状態に生成
ウイルスという規定
生死
不完全性定理
不確定性原理
0に限りなく近いが0ではない
いろいろ繋がりました
さてと・・・
感情なんですね
科学は自然を理解したい
生きんが為の理性
こっちが適切かな
> わたしは正しい←真
> わたし自身が物理として他者
> 観念が自身
>
> であって、ではない→本質として決定不能?
わたしは間違っている←真
わたし自身が物理として他者
観念が自身
であって、ではない→本質として決定不能?
大谷翔平の動画見ました
狂喜する子供たちの顔がなんとも
学問は絶望を
なんとも、です
生きんがために生きよ
それで良いのだ
連続を非連続で
規定の連続
であって、ではない←規定
380 キジトラ(東京都) [US] [sage] 2022/01/06(木) 14:53:13.05 ID:w4HsOuES0
>>1
神のようなものが存在する可能性はあるけどさあ、科学者がそういうことを言うのは一番最後にしてほしい
今わかっていることだけで結論を出すなよ
手品のタネがわからないからって「これは魔法だ」と言っているようなもんだぞ
375 ハイイロネコ(神奈川県) [US] [sage] 2022/01/06(木) 10:28:32.88 ID:1vMDebgk0
光速度一定の原理って理解し難い自然現象だけど、それがいたって自然が無矛盾、つまり理解可能だと示すのは逆説的で面白い
> 117 ディオネ(千葉県) [CN] [sage] 2021/12/13(月) 06:54:46.31 ID:IozHxL7v0
> ビックバンで膨張している範囲の先の無の
> 空間でもビックバンが起きたりしないのかな?
かなり有力な否定の根拠になるかも
認識と科学の理論
~自然過程説の展開~
無矛盾な自然観への一試論
1 はじめに
二十世紀末にオカルトや疑科学を面白おかしく批判した団体が出現しました。これに対して一部の科学者たちは新たな考え方が必要になっている現在、受験科目のように○×で否定するのはおかしいと例を挙げて批判しました。
今世紀に入りその団体の元会長は、時間は存在しないのではないかという主張にトンデモというレッテルを貼りましたが、十年代に入り時間は存在しないと主張する科学者たちが出現し、テレビ番組で紹介されたり科学雑誌で特集されたりしました。またそのテレビ番組では重力の存在にも否定的な科学者が紹介されました。
実は時間が存在しない可能性は九十年代にドイツの科学者が示唆しています。
時間、重力などは現在でもまだよくわかっていないのですから、いろいろな考えがあっても良いとわたしなどは思えます。
日本のある科学者はその著書でイギリスはさまざまな経験をしているので、一見突飛でも論理として筋が通っていれば主流学説と違うというだけで無視はしない傾向があると語っています。
森鴎外は脚気治療で海軍の実験結果を西洋の学説には無いと無視した結果、陸軍は戦死者より脚気による死者が多いということになりました。
この後ビタミンの発見で海軍の正しさがわかりました。
日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に科学ジャーナリストとしても知られる立花隆氏が量子力学は新たな理論を求められているとテレビで語り、同時期のインターネット巨大掲示板には研究者らしき人が今のところは出口が見つからないという内容の投稿ていました。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説に決まりだというのが主流ですが、宇宙背景放射と解釈している現象は違う理解が可能だとする天文学者がいます。
元記事では19世紀に火星を観測して<運河を発見>したアメリカの天文学者と同じ間違いの可能性があるということです。
宇宙背景放射観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
ある科学者はビッグバン仮説で何もかも上手く説明ができるとしましたが宇宙の大構造生成には宇宙年齢の数倍時間が必要だそうで、現在も未解決です。
また量子力学の観測問題は未だに解決していないのです。
天動説を典型に科学者は観測、発見した対象の理解に失敗することは珍しくないようです。
いずれにしても現代の科学は大きく変わる可能性は否定できないようです。
できればわたしの生きている間に科学革命があれば良いのですがそれは難しいかも知れません。
ならば自分なりに新たな自然観を模索して楽しんでみようとしたのがこの小論です。
地動説を提唱したコペルニクスは従来の自然観では説明困難な諸天体の運動を納得出来る理解を求めそれを古代ギリシャに発見しましたが、古代ギリシャ文化は豊かで他にも進化論、集合論、またフロイトの学説などが古代ギリシャに雛型が在るというのを読んだことがあります。
日本では九十四年に科学史家板倉聖宣氏が「新哲学入門」で論理は静的だと指摘して、九十六年に山川偉也氏が「ゼノン4つの逆理」で古代ギリシャ哲学者パルメニデスの自然観を紹介解説しました。
わたしはこの二人の著作を導きの糸として科学の基本法則から新たな自然観を構築して量子力学、宇宙論、認識論などの未解決問題を考えてみることにします。
わたしなりに納得できる形でこれらを解決しましたので、ここに上梓しまます。
2 科学革命の特徴
最初に人間の自然観を変えた科学革命の特徴を考えてみましょう。
地動説は地球が諸天体と変わらないことを示し、自然に存在する静止は運動の一形態だと理解する萌芽になりました。
進化論は人間が諸動物と変わらないことを論じましたが、以降の科学は諸生物が遺伝子の差異の産物であり、自然の展開過程に応じて遺伝子は変容展開して諸生物として誕生したその一つがヒトだということを示しました。
この二つの科学革命の特徴は観測する側が実は観測対象である自然の一部であり否定関係ではない、つまり自己言及というのことなのです。
<わたし>という表現は自己言及です。
三浦つとむという言語学者は、観念の中では空から町や地球、銀河系さえ描くことが可能で古今東西に行き来したり、小説やテレビドラマの登場人物にも成れると論じました。
言語表現の<わたし>は観念の中のわたしが物理のわたしを他者として認識してまた自己に戻り<わたし>と表現します。
洋服を着て鏡に映し、これは似合う、似合わないと言ったりしますが、この場合は鏡の中のわたしが主体で対象である物理のわたしを眺めているわけです。三浦氏はこれを「観念的な自己分裂」と名付けました。
地動説は地球、進化論はヒトという観測認識する立場の自己言及と言えます。
この特徴を備えたものに光速度一定の原理が挙げられます。
この原理は絶対座標が存在しないことを示します。
わたしたちは運動の否定としての静止で運動を理解しますが、静止自体は自然には存在しません。
地動説は地球が静止した形で認識に現象しますが現実には運動しているとしました。
自然の存在形態は運動であり無矛盾であることになります。運動を前提に否定関係は存在しませんから、この原理は自然は運動するエネルギーの濃淡という量子力学の自然観を裏付けます。
認識に現象する自然の静止は運動の一形態であり、生物、金属、真空、銀河系、自然の全てはエネルギーの形態です。
ディラックの海は真空はエネルギーの基底状態ということを示します。
ある物理状態は物理条件が変われば変容しますし、物理条件も多少なりとも変容します。立場が変われば物理条件は物理状態で物理状態は物理条件であり否定関係ではありません。
光速度一定の原理は自然には物理しか存在しないことを示すのであり、自然理解の導きの糸になります。
この原理は科学が自然の一部である人間の自己言及であり、また運動を静止で規定するという規定の自己言及でもあります。
自然は<一>、つまり無矛盾です。
科学革命で判ることを挙げていきます。
静止は認識しても存在しませんが、このことは座標原点が存在しないことを意味します。
認識に現象する物理状態の<ここ>からは自然には境目は存在しません。
(窓も無い白い部屋に一人でいると時間に個人差はあっても全員幻覚を体験するという実験結果が報告されています。
個人はもちろん集団にも幻覚は訪れると精神科医は語ります。
認識器官が暴走して、存在しない対象を生成する例です。)
この逆で認識出来なくても存在する例があります。
認識は自然をそのまま反映しません。
空気中の諸物質とか、真空はディラックの海を考えるとエネルギーの基底状態ですがわたしたちは裸眼では認識できません。
認識に現象する自然は認識器官の在り方に媒介されその能力の範囲で対象の像を生成します。
赤ん坊は誕生した時は見えないわけではなく、舞台に上がるとしばらくして個々の観客を判別できるようになることと同じだということです。
諸感覚もまた生成していく過程として
あります。
ワサビは日本人なら大人に成れば大抵受容されます。
(野菜が美味しくなるというのは感覚が鈍化するからと読んだことがありますが真偽は確認していません。)
フレドリック・ブラウンは小説の中で耳が聞こえなかったら音は存在するのかと書きましたが、認識器官の不全で生成できないのであり、音波自体は存在しますから聴覚が機能すれば生成認識されます。
認識器官の物理状態の差異、つまり物理条件で音を生成認識したりしなかったりするということです。
認識する自然を生物は対応する器官の能力の範囲で像を生成します。
3 規定の在り方
ここでは物理規定の在り方を考えてみます。
他に対して<わたし>はあなた、植物、金属ではないとわたしたちは否定関係で規定しますが物理としてみた場合は濃淡、つまり差異ですが否定関係ではありません。
つまり物理としての同一を非同一で規定します。
自己に対して、つまり<わたし>は生まれてから現在に至るまで大きく変化していますし、この今も絶えず運動変化していますから同一であることはありませんが同一の<わたし>と規定します。物理としての非同一を同一で規定します。
ウイルスは生物、非生物と分類困難ですが物理として生物非生物は差異であり否定関係ではありません。
生死の判別は困難ですが生も死も物理状態の変化としては同一であり、エネルギー保存則は何も生まれない無くならないということですから物理として生死は存在しません。
誕生は違う物理状態からある物理状態に生成することであり、死は違う物理状態に生成することです。
物理が同一の状態で在ることはありませんからこの意味では常に生死が同居していると言っても良いわけです。
この意味では<わたし>は<わたし>であって<わたし>ではありません。
物理の附随現象は他の物理の附随現象とは否定で規定しますが差異であり否定関係ではありません。
或る附随現象は差異として他の附随現象に生成して行きます。
光速度一定の原理は座標原点、つまり<ここ>からの存在を否定します。
よって<ここ>までも存在しません。
つまり自然は無限です。
有限は存在しませんが認識に現象する自然には<ここ>から<ここ>までが存在します。
(<ここから>は=<ここまで>です。終点は出発点です。矛盾しています。存在したら、ですが。)
有限は認識に現象する無限、つまり無限の一形態です。
自然が生成した人間が自然を理解するのが科学ですから科学は自然の自己言及です。
光速度一定の原理は運動する自然を静止で規定してその静止の自然存在を否定して無矛盾な自然観を得ます。
つまり理解すること自体が問題なのです。
この原理は自然と認識の在り方の自己言及です。
4 次元
0次元は大きさ、1次元は幅、2次元は厚み、3次元は運動がそれぞれ存在しません。4次元が存在するならそれは静止した3次元の無限集合です。
静止は光速度一定の原理がその存在を否定します。
静止を示す座標原点、0次元は自然に存在しません。
つまり次元一般は存在しません。
次元は最初から最後まで無です。
四次元、時間は頭の上に在る太陽が次に頭の上に来るまでを1日としますが、それは太陽という物理の定期的運動の抽象です。
過去は過ぎ去り未来は未だ来たらざるで現在しか存在しません。
この現在は幅がありません。
数学は0に限りなくなく近いが0ではないと規定しますが、これは有を無で規定するからです。
<今>とは運動の異称、別名です。
有を無で規定しますから直接の運動ではなく運動量で理解するしかありません。
不確定性原理は有を無で規定するからであり測定が近似値になるのは必然です。
次元は認識に現象した自然の抽象であり、光速度一定の原理は物理と認識の自己言及であり次元の存在を否定します。
5 光速度一定の原理
この原理は自然と認識の自己言及です。
自己言及がどういう事態になるかを簡単に考察します。
クレタ人の逆説は「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というものです。
クレタ人が嘘つきならクレタ人は自身を嘘つきだと<正直>に言いません。
クレタ人が正直ならクレタ人は嘘つきだという<嘘>は言いません。
この言明は決定不能になります。
これは対象をその否定で規定するからです。
対象である運動をその否定である静止で規定しますから決定不能になります。
光速度一定の原理は運動の否定である静止の存在を否定して無矛盾であることを証明しますが、否定で規定しますから運動は決定不能になります。
規定こそが決定不能の原因です。
Aである、つまり人間、金属、宇宙という規定が意味するのは同一で在るということですが物理状態は運動変化して同一であることはありません。
そしてAでありAではないということ自体は変わりません。
それは運動を意味し非同一ですが、非同一であること自体は不変、つまり同一だからです。
わたしはこの原理は自然は無限でありその運動により様々な新たな物理状態が生成され、それを理解するために座標原点の新たな設定が必要になり、それ故に最終方程式は存在しないと予想します。
6  学問上の諸問題
ゼノンは競技場の逆説で時空に最小単位が存在しないことを、また数に大きさが無いなら目的地に達することもアキレスは亀に追いつくことが無いことを証明します。また数が自然に存在したら飛ぶ矢は飛んでいないことを証明します。
ゼノンは師パルメニデスの自然は<一>であるという主張を対立否定するピタゴラス学派の<多>とする理解を逆説で論駁し擁護しました。
カントは時空に終始が在り、また無いことも証明しました。
これは自然は無限で永遠ですが規定は有限で、ということです。
また運動はその否定の静止で規定しますから存在すると同時に存在しないというヘーゲルの定義になります。
朝永博士は物理学の自然はたわめられた自然と理解しました。
つまり認識に対象化された自然は直接の自然ではありません。
数学では不完全性定理がありますが有限を無限で規定しますから決定不能になります。
ゼノンの逆説でわかるように自然は数で理解しますが数では出来ていません。
自然は無矛盾で理解可能ですが否定で規定しますから決定不能となる、つまり規定自体が決定不能の原因です。
規定は対象の否定ですから当然対象には存在しません。
○パルメニデスと光速度一定の原理
自然に於ける<多>の存在は光速度一定の原理、パルメニデス哲学、双方ともに否定します。
自然は<一>、つまり濃淡は在りますが海ということです。
粒子は波が渦の状態ということです。
粒子は認識に現象する波の在り方です。
重力は加速で、その他の諸力はその物理状態に生成するのに必要なエネルギー量で力一般は存在しません。
自然は運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で新たな物理状態に生成していきます。
意識は薬で変容する、つまり物理条件に対応して変容したりしますから物理存在の附随現象です。
ケーキの物理状態が変容して違う物理状態に生成変容することと同様です。
あくまでも物理状態に伴います。
自然には物理しか存在しません。
わたしも貴方も脳が意識を担えなくなる物理状態に生成されると意識も同じ運命を辿ります。
五感や認識も物理条件に対応して生成発展していきます。
○ビッグバン仮説は物理の基本法則を否定する
エネルギー保存則は物理としての増減を否定します。
そして生も死も存在しないことを示します。
物理としては生=死であり附随現象の差異です。
光速度一定の原理は次元の存在を否定して自然が永遠で無限であることを示します。
この仮説は対象が自然、非自然という否定関係の存在を前提にします。
この仮説はエネルギー保存則、光速度一定の原理という物理の基本法則を否定しているわけです。
この仮説は物理学としては有り得ない仮説です。
キリスト教はキリスト教徒が
数学は数学者が
マルクス主義はマルクス主義者が
何となくですが人間の幻想は科学者がって気がします
117 ディオネ(千葉県) [CN] [sage] 2021/12/13(月) 06:54:46.31 ID:IozHxL7v0
ビックバンで膨張している範囲の先の無の
空間でもビックバンが起きたりしないのかな?
認識と科学の理論
~自然過程説の展開~
無矛盾な自然観への一試論
1 はじめに
二十世紀末にオカルトや疑科学を面白おかしく批判した団体が出現しました。これに対して一部の科学者たちは新たな考え方が必要になっている現在、受験科目のように○×で否定するのはおかしいと例を挙げて批判しました。
今世紀に入りその団体の元会長は、時間は存在しないのではないかという主張にトンデモというレッテルを貼りましたが、十年代に入り時間は存在しないと主張する科学者たちが出現し、テレビ番組で紹介されたり科学雑誌で特集されたりしました。またそのテレビ番組では重力の存在にも否定的な科学者が紹介されたりしました。
実は時間が存在しない可能性は九十年代にドイツの科学者が示唆をしています。
時間、重力などは現在でもまだよくわかっていないのですから、いろいろな考えがあっても良いとわたしなどは思います。
ある科学者はイギリスはさまざまな経験をしているので、一見突飛でも論理として筋が通っていれば主流学説と違うというだけで無視はしない傾向があると語っています。
森鴎外は脚気治療では海軍の実験結果を西洋の学説には無いと無視した結果、陸軍は戦死者より脚気の死者が多いという惨状をもたらしました。
この後ビタミンの発見で海軍の正しさがわかりました。
日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に科学ジャーナリストとしても知られる立花隆氏が量子力学は新たな理論を求められているとテレビで語り、同時期のインターネット巨大掲示板には研究者らしき人が今のところは出口が見つからないという内容の投稿がありました。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだというのが主流ですが、宇宙背景放射と解釈している現象は違う理解が可能だとする天文学者がいます。
元記事では19世紀に火星を観測して<運河を発見>したアメリカの天文学者と同じ間違いの可能性があるということです。
宇宙背景放射観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
ある科学者はビッグバン仮説で何もかも上手く説明ができるとしましたが宇宙の大構造生成には宇宙年齢の数倍時間が必要だそうで、現在も未解決です。
また量子力学の観測問題は未だに解決していないのです。
天動説を典型に科学者は観測、発見した対象の理解に失敗することは珍しくないようです。
いずれにしても現代の科学は大きく変わる可能性は否定できないようです。
できればわたしの生きている間に科学革命があれば良いのですがそれは難しいかも知れません。
ならば自分なりに新たな自然観を模索して楽しんでみようとしたのがこの小論です。
地動説を提唱したコペルニクスは従来の自然観では説明困難な諸天体の運動を納得出来る理解を求めそれを古代ギリシャに発見しましたが、古代ギリシャ文化はなかなか豊かで他にも進化論、集合論、またフロイトの学説などが古代ギリシャに雛型が在るというのを読んだことがあります。
日本では九十四年に科学史家板倉聖宣氏は「新哲学入門」で論理は静的だと指摘して、九十六年に山川偉也氏は「ゼノン4つの逆理」でパルメニデスの自然観を紹介しました。
わたしはこの二人の著作を導きの糸として科学の基本法則から新たな自然観を構築して量子力学、宇宙論、認識論などの未解決問題を考えてみることにします。
わたしなりに納得できる形で解決したので、ここに上梓させていただきます。
2 科学革命の特徴
人間の自然観を変えた科学革命の特徴を考えてみることにします。
地動説は地球は諸天体と変わらないことを示し、自然に存在する静止は運動の一形態だと理解する萌芽になりました。
進化論は人間は諸動物と変わらないと論じましたが、以降の科学は、生物は遺伝子の差異であり自然の展開過程に応じて遺伝子はそれに対応展開して諸生物として誕生したその一つがヒトだということを示しました。
この二つの科学革命の特徴は観測する側が実は観測対象である自然の一部であり否定関係ではない、つまり自己言及というのことなのです。
<わたし>という表現は自己言及です。
三浦つとむという言語学者は、観念の中では空から町や地球、銀河系さえ描くことが可能で古今東西に行き来したり、小説やテレビドラマの登場人物にも成れると論じました。
言語表現の<わたし>は観念の中のわたしが物理のわたしを他者として認識してまた自己に戻り<わたし>と表現します。
洋服を着て鏡に映し、これは似合う、似合わないと言ったりしますが、この場合は鏡の中のわたしが主体で対象である物理のわたしを眺めているわけです。三浦氏はこれを「観念的な自己分裂」と名付けました。
地動説は地球、進化論はヒトという観測認識する立場の自己言及と言えます。
この特徴を備えたものに光速度一定の原理が挙げられます。
この原理は絶対座標が存在しないことを示します。
わたしたちは運動の否定としての静止で運動を理解しますが、静止自体は自然には存在しません。
自然の存在形態は運動であり無矛盾であることになります。運動を前提に否定関係は存在しませんから、この原理は自然は運動するエネルギーの濃淡という量子力学の自然観を裏付けます。
認識に現象する自然の静止は運動の一形態であり、生物、金属、真空、銀河系、自然の全てはエネルギーの形態です。
ディラックの海は真空はエネルギーの基底状態ということを示します。
ある物理状態は物理条件が変われば変容しますし、物理条件も多少なりとも変容します。立場が変われば物理条件は物理状態で物理状態は物理条件であり否定関係ではありません。
また光速度一定の原理は自然には物理しか存在しないことを示すのであり、自然理解の導きの糸になります。
この原理は科学は自然の一部である人間の自己言及であり、また運動を静止で規定するという規定の自己言及でもあります。
自然は<一>、つまり無矛盾です。
科学革命で判ることを挙げていきます。
静止は認識しても存在しませんが、このことは座標原点が存在しないことを意味します。
認識に現象する物理状態の<ここ>からはエネルギーのグラデーションで境目は存在しません。
(幻覚は個人はもちろん集団にも訪れると精神科医は語ります。
窓も無い白い部屋に一人でいると時間に個人差はあっても全員幻覚を体験するという実験結果が報告されています。
認識器官がいわば故障して、存在しない対象を生成する例です。)
この逆で認識出来なくても存在する例があります。
認識は自然をそのまま反映しません。
空気中の諸物質とか、真空はエネルギーの基底状態ですがわたしたちは裸眼では認識できません。
認識に現象する自然は認識器官の在り方に媒介されその能力の範囲で対象の像を生成します。
赤ん坊は誕生した時は見えないわけではなく、舞台に上がるとしばらくして個々の観客を判別できるようになることと同じだということです。
諸感覚もまた生成していく過程として
あります。
ワサビは日本人なら大人に成れば大抵受容されます。
(野菜が美味しくなるというのは感覚が鈍化するからと読んだことがありますが真偽は確認していません。)
フレドリック・ブラウンは小説の中で耳が聞こえなかったら音は存在するのかと書きましたが、認識器官の不全で生成できないのであり、音波自体は存在しますから聴覚が健全ならば生成認識されます。
認識器官の物理状態の差異、つまり物理条件で音を生成認識したりしなかったりするということです。
認識する自然は認識の在り方に現象した自然でその能力の範囲で像を生成します。
3 規定の在り方
ここでは物理規定の在り方を考えてみます。
<わたし>はあなた、植物、金属ではありませんとわたしたちは規定しますが物理としてみた場合は濃淡、つまり差異であり否定関係ではありません。
つまり物理としての同一を非同一で規定します。
<わたし>は生まれてから現在に至るまで大きく変化していますし、この今も絶えず運動変化していますから同一であることはありませんが同一の<わたし>と規定します。
物理としての非同一を同一で規定します。
ウイルスは生物、非生物と分類困難ですが物理として生物非生物は差異であり否定関係ではありません。
生死の判別は困難ですが生も死も物理状態の変化としては同一であり、エネルギー保存則は何も生まれない無くならないということですから物理として生死は存在しません。
誕生は違う物理状態からある物理状態に生成することであり、死は違う物理状態に生成することです。
物理が同一の状態で在ることはありませんからこの意味では常に生死が同居していると言っも良いわけです。
<わたし>は<わたし>であって<わたし>ではありません。
物理の附随現象は他の物理の附随現象とは否定で規定しますが差異であり否定関係ではありません。
また附随現象は他の附随現象に生成して行きます。
光速度一定の原理は座標原点、つまり<ここ>からの存在を否定します。
よって<ここ>までも存在しません。
つまり自然は無限です。
有限は存在しませんが認識に現象する自然には<ここ>から<ここ>までが存在します。
(<ここから>は=<ここまで>です。終点は出発点です。矛盾しています。存在したら、ですが。)
有限は認識に現象する無限で無限の一形態です。
自然が生成した人間が自然を理解するのが科学ですから科学は自然の自己言及です。
光速度一定の原理は運動する自然を静止で規定してその静止の自然存在を否定して無矛盾な自然観を得ます。
つまり理解すること自体が問題なのです。
この原理は自然と認識の在り方の自己言及です。
4 次元
0次元は大きさ、1次元は幅、2次元は厚み、3次元は運動がそれぞれ存在しません。4次元が存在するならそれは静止した3次元の無限集合です。
静止は光速度一定の原理がその存在を否定します。
静止を示す座標原点、0次元は自然に存在しません。
つまり次元一般は存在しません。
次元は最初から最後まで無です。
四次元、時間は頭の上に在る太陽が次に頭の上に来るまでを1日としますが、それは太陽という物理の定期的運動の抽象です。
過去は過ぎ去り未来は未だ来たらざるで現在しか存在しません。
この現在は幅がありません。
数学は0に限りなくなく近いが0ではないと規定しますが、これは有を無で規定するからです。
<今>とは運動の異称、別名です。
有を無で規定しますから直接の運動ではなく運動量で理解するしかありません。
不確定性原理は有を無で規定するからであり測定が近似値になるのは必然です。
次元は認識に現象した自然の抽象であり、光速度一定の原理は物理と認識の自己言及であり次元の存在を否定します。
5 光速度一定の原理
この原理は自然と認識の自己言及です。
自己言及がどういう事態になるかを簡単に考察します。
クレタ人の逆説は「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というものです。
クレタ人が嘘つきならクレタ人は自身を嘘つきだと<正直>に言いません。
クレタ人が正直ならクレタ人は嘘つきだという<嘘>は言いません。
この言明は決定不能になります。
これは対象をその否定で規定するからです。
わたしたちは運動を静止で規定しますから決定不能になります。
規定は否定です。
光速度一定の原理は運動の否定である静止を否定して無矛盾であることを証明しますが、否定で規定しますから運動は決定不能になります。
規定こそが決定不能の原因です。
Aである、つまり人間、金属、宇宙という規定が意味するのは同一で在るということですが物理状態は運動変化して同一であることはありません。
そしてAでありAではないということ自体は変わりません。
それは運動を意味し非同一ですが、非同一であること自体は不変、つまり同一だからです。
わたしはこの原理は自然は無限でありその運動により様々な新たな物理状態が生成され、それを理解するために座標原点の自由な設定が必要になり、それ故に最終方程式は存在しないと予想します。
6  学問上の諸問題
ゼノンは競技場の逆説で時空に最小単位が存在しないことを、また数に大きさが無いなら目的地に達することもアキレスは亀に追いつくことが無いことを証明します。また数が自然に存在したら飛ぶ矢は飛んでいないことを証明します。
ゼノンは師パルメニデスの自然は<一>であるという主張を対立否定するピタゴラス学派の<多>とする理解を論駁し擁護しました。
カントは時空に終始が在り、また無いことも証明しました。
これは自然は無限で永遠ですが規定は有限で、ということです。
また運動はその否定の静止で規定しますから存在すると同時に存在しないというヘーゲルの定義になります。
朝永博士は物理学の自然はたわめられた自然と理解しました。
つまり認識に対象化された自然は直接の自然ではありません。
数学では不完全性定理がありますが有限を無限で規定しますから決定不能になります。
ゼノンの逆説でわかるように自然は数で理解しますが数では出来ていません。
自然は無矛盾で理解可能ですが否定で規定しますから決定不能となる、つまり規定自体が決定不能の原因です。
○パルメニデスと光速度一定の原理
自然に於ける<多>の存在は光速度一定の原理、パルメニデス哲学、双方ともに否定します。
自然は<一>、つまり濃淡は在りますが海ということです。
粒子は波が渦の状態ということです。
粒子は認識に現象する波の在り方です。
重力は加速で、その他の諸力はその物理状態に生成するのに必要なエネルギー量で力一般は存在しません。
自然は運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で新たな物理状態に生成していきます。
意識は薬で変容する、つまり物理条件に対応して変容したりしますから物理存在の附随現象です。
ケーキの物理状態が変容して違う物理状態に生成変容することと同様です。
あくまでも物理状態に伴います。
自然には物理しか存在しません。
わたしも貴方も脳が意識を担えなくなる物理状態に生成されると意識も同じ運命を辿ります。
五感や認識も物理条件に対応して生成発展していきます。
○ビッグバン仮説は物理の基本法則を否定する
エネルギー保存則は物理としての生死を否定します。
光速度一定の原理は次元の存在を否定して自然が永遠で無限であることを示します。
この仮説は対象が自然、非自然という否定関係させ存在を前提にします。
この仮説はエネルギー保存則、光速度一定の原理という物理の基本法則を否定しているわけです。
この仮説は物理学としては有り得ない仮説です。
附随現象も差異であり否定関係ではありませんね。
一つ解決しました。
基本に還れば簡単なのに。
凡才なんだよなあ。
認識と科学の理論
~自然過程説の展開~
無矛盾な自然観への一試論
1 はじめに
二十世紀末にオカルトや疑科学を面白おかしく批判した団体が出現しました。これに対して一部の科学者たちは新たな考え方が必要になっている現在、受験科目のように○×で否定するのはおかしいと例を挙げて批判しました。
今世紀に入りその団体の元会長は、時間は存在しないのではないかという主張にトンデモというレッテルを貼りましたが、十年代に入り時間は存在しないと主張する科学者たちが出現し、テレビ番組で紹介されたり科学雑誌で特集されたりしました。またそのテレビ番組では重力の存在にも否定的な科学者が紹介されたりしました。
実は時間が存在しない可能性は九十年代にドイツの科学者が示唆をしています。
時間、重力などは現在でもまだよくわかっていないのですから、いろいろな考えがあっても良いとわたしなどは思います。
ある科学者はイギリスはさまざまな経験をしているので、一見突飛でも論理として筋が通っていれば主流学説と違うというだけで無視はしない傾向があると語っています。
森鴎外は脚気治療では海軍の実験結果を西洋の学説には無いと無視した結果、陸軍は戦死者より脚気の死者が多いという惨状をもたらしました。
後にビタミンの発見で海軍の正しさがわかりました。
日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に科学ジャーナリストとしても知られる立花隆氏が量子力学は新たな理論を求められているとテレビで語り、同時期のインターネット巨大掲示板には研究者らしき人が今のところは出口が見つからないという内容の投稿がありました。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだというのが主流ですが、宇宙背景放射と解釈している現象は違う理解が可能だとする天文学者がいます。
元記事では19世紀に火星を観測して<運河を発見>したアメリカの天文学者と同じ間違いの可能性があるということです。
宇宙背景放射観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
ある科学者はビッグバン仮説で何もかも上手く説明ができるとしましたが宇宙の大構造生成には宇宙年齢の数倍時間が必要だそうで、現在も未解決です。
また量子力学の観測問題は未だに解決していないのです。
天動説を典型に科学者は観測、発見した対象の理解に失敗することは珍しくないようです。
いずれにしても現代の科学は大きく変わる可能性は否定できないようです。
できればわたしの生きている間に科学革命があれば良いのですがそれは難しいかも知れません。
ならば自分なりに新たな自然観を模索して楽しんでみようとしたのがこの小論です。
地動説を提唱したコペルニクスは従来の自然観では説明困難な諸天体の運動を納得出来る理解を求めそれを古代ギリシャに発見しましたが、古代ギリシャ文化はなかなか豊かで他にも進化論、集合論、またフロイトの学説などが古代ギリシャに雛型が在るというのを読んだことがあります。
日本では九十四年に科学史家板倉聖宣氏は「新哲学入門」で論理は静的だと指摘して、九十六年に山川偉也氏は「ゼノン4つの逆理」でパルメニデスの自然観を紹介しました。
わたしはこの二人の著作を導きの糸として科学の基本法則から新たな自然観を構築して量子力学、宇宙論、認識論などの未解決問題を考えてみることにします。
わたしなりに納得できる形で解決したので、ここに上梓させていただきます。
2 科学革命の特徴
人間の自然観を変えた科学革命の特徴を考えてみることにします。
地動説は地球は諸天体と変わらないことを示し、自然に存在する静止は運動の一形態だと理解する萌芽になりました。
進化論は人間は諸動物と変わらないと論じましたが、以降の科学は、生物は遺伝子の差異であり自然の展開過程に応じて遺伝子はそれに対応展開して諸生物として誕生したその一つがヒトだということを示しました。
この二つの科学革命の特徴は観測する側が実は観測対象である自然の一部であり否定関係ではない、つまり自己言及なのです。
<わたし>という表現は自己言及です。
三浦つとむという言語学者は、観念の中では空から町や地球、銀河系さえ描くことが可能で古今東西に行き来したり、小説やテレビドラマの登場人物にも成れると論じました。
言語表現の<わたし>は観念の中のわたしが物理のわたしを他者として認識してまた自己に戻り<わたし>と表現します。
洋服を着て鏡に映し、これは似合う、似合わないと言ったりしますが、この場合は鏡の中のわたしが主体で対象である物理のわたしを眺めているわけです。三浦氏はこれを「観念的な自己分裂」と名付けました。
地動説は地球、進化論はヒトという観測認識する立場の自己言及と言えます。
この特徴を備えたものに光速度一定の原理が挙げられます。
この原理は絶対座標が存在しないことを示します。
わたしたちは運動の否定としての静止で運動を理解しますが、静止自体は自然には存在しません。
自然の存在形態は運動であり無矛盾であることになります。運動を前提に否定関係は存在しませんから、この原理は自然は運動するエネルギーの濃淡という量子力学の自然観を裏付けます。
認識に現象する自然の静止は運動の一形態であり、生物、金属、真空、銀河系、自然の全てはエネルギーの形態です。
ディラックの海は真空はエネルギーの基底状態ということを示します。
ある物理状態は物理条件が変われば変容しますし、物理条件も多少なりとも変容します。立場が変われば物理条件は物理状態で物理状態は物理条件であり否定関係ではありません。
また光速度一定の原理は自然には物理しか存在しないことを示すのであり、自然理解の導きの糸になります。
この原理は科学は自然の一部である人間の自己言及であり、また運動を静止で規定するという規定の自己言及でもあります。
自然は<一>、つまり無矛盾です。
科学革命で判ることを挙げていきます。
静止は認識しても存在しませんが、このことは座標原点が存在しないことを意味します。
認識に現象する物理状態の<ここ>からはエネルギーのグラデーションで境目は存在しません。
(幻覚は個人はもちろん集団にも訪れると精神科医は語ります。
窓も無い白い部屋に一人でいると時間に個人差はあっても全員幻覚を体験するという実験結果が報告されています。
認識器官がいわば故障して、存在しない対象を生成する例です。)
この逆で認識出来なくても存在する例があります。
認識は自然をそのまま反映しません。
空気中の諸物質とか、真空はエネルギーの基底状態ですがわたしたちは裸眼では認識できません。
認識に現象する自然は認識器官の在り方に媒介されその能力の範囲で対象の像を生成します。
赤ん坊は誕生した時は見えないわけではなく、舞台に上がるとしばらくして個々の観客を判別できるようになることと同じだということです。
諸感覚もまた生成していく過程として
あります。
ワサビは日本人なら大人に成れば大抵受容されます。
(野菜が美味しくなるというのは感覚が鈍化するからと読んだことがありますが真偽は確認していません。)
フレドリック・ブラウンは小説の中で耳が聞こえなかったら音は存在するのかと書きましたが、認識器官の不全で生成できないのであり、音波自体は存在しますから聴覚が健全ならば生成認識されます。
認識器官の物理状態の差異、つまり物理条件で音を生成認識したりしなかったりするということです。
認識する自然は認識の在り方に現象した自然でその能力の範囲で像を生成します。
3 規定の在り方
ここでは物理規定の在り方を考えてみます。
<わたし>はあなた、植物、金属ではありませんとわたしたちは規定しますが物理としてみた場合は濃淡、つまり差異であり否定関係ではありません。
つまり物理としての同一を非同一で規定します。
<わたし>は生まれてから現在に至るまで大きく変化していますし、この今も絶えず運動変化していますから同一であることはありませんが同一の<わたし>と規定します。
物理としての非同一を同一で規定します。
ウイルスは生物、非生物と分類困難ですが物理として生物非生物は差異であり否定関係ではありません。
生死の判別は困難ですが生も死も物理状態の変化としては同一であり、エネルギー保存則は何も生まれない無くならないということですから物理として生死は存在しません。
誕生は違う物理状態からある物理状態に生成することであり、死は違う物理状態に生成することです。
物理が同一の状態で在ることはありませんからこの意味では常に生死が同居していると言っも良いわけです。
<わたし>は<わたし>であって<わたし>ではありません。
光速度一定の原理は座標原点、つまり<ここ>からの存在を否定します。
よって<ここ>までも存在しません。
つまり自然は無限です。
有限は存在しませんが認識に現象する自然には<ここ>から<ここ>までが存在します。
(<ここから>は=<ここまで>です。終点は出発点です。矛盾しています。存在したら、ですが。)
有限は認識に現象する無限で無限の一形態です。
自然が生成した人間が自然を理解するのが科学ですから科学は自然の自己言及です。
光速度一定の原理は運動する自然を静止で規定してその静止の自然存在を否定して無矛盾な自然観を得ます。
つまり理解すること自体が問題なのです。
この原理は自然と認識の在り方の自己言及です。
4 次元
0次元は大きさ、1次元は幅、2次元は厚み、3次元は運動がそれぞれ存在しません。4次元が存在するならそれは静止した3次元の無限集合です。
静止は光速度一定の原理がその存在を否定します。
静止を示す座標原点、0次元は自然に存在しません。
つまり次元一般は存在しません。
次元は最初から最後まで無です。
四次元、時間は頭の上に在る太陽が次に頭の上に来るまでを1日としますが、それは太陽という物理の定期的運動の抽象です。
過去は過ぎ去り未来は未だ来たらざるで現在しか存在しません。
この現在は幅がありません。
数学は0に限りなくなく近いが0ではないと規定しますが、これは有を無で規定するからです。
<今>とは運動の異称、別名です。
有を無で規定しますから直接の運動ではなく運動量で理解するしかありません。
不確定性原理は有を無で規定するからであり測定が近似値になるのは必然です。
次元は認識に現象した自然の抽象であり、光速度一定の原理は物理と認識の自己言及であり次元の存在を否定します。
5 光速度一定の原理
この原理は自然と認識の自己言及です。
自己言及がどういう事態になるかを簡単に考察します。
クレタ人の逆説は「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」というものです。
クレタ人が嘘つきならクレタ人は自身を嘘つきだと<正直>に言いません。
クレタ人が正直ならクレタ人は嘘つきだという嘘は言いません。
この言明は決定不能になります。
これは対象をその否定で規定するからです。
わたしたちは運動を静止で規定しますから決定不能になります。
規定は否定です。
光速度一定の原理は運動の否定である静止を否定して無矛盾であることを証明しますが、否定で規定しますから運動は決定不能になります。
規定こそが決定不能の原因です。
Aである、つまり人間、金属、宇宙という規定が意味するのは同一で在るということですが物理状態は運動変化して同一であることはありません。
そしてAでありAではないということ自体は変わりません。
それは運動を意味し非同一ですが、非同一であること自体は不変、つまり同一だからです。
わたしはこの原理は自然は無限でありその運動により様々な新たな物理状態が生成され、それを理解するために座標原点の自由な設定が必要になり、それ故に最終方程式は存在しないと予想します。
6  学問上の諸問題
ゼノンは競技場の逆説で時空に最小単位が存在しないことを、また数に大きさが無いなら目的地に達することもアキレスは亀に追いつくことが無いことを証明します。また数が自然に存在したら飛ぶ矢は飛んでいないことを証明します。
ゼノンは師パルメニデスの自然は<一>であるという主張を擁護しました。
カントは時空に終始が在り、また無いことも証明しました。
これは自然は無限で永遠ですが規定は有限で、ということです。
また運動はその否定の静止で規定しますから存在すると同時に存在しないというヘーゲルの定義になります。
朝永博士は物理学の自然はたわめられた自然と理解しました。
つまり認識に対象化された自然は直接の自然ではありません。
数学では不完全性定理がありますが有限を無限で規定しますから決定不能になります。
ゼノンの逆説でわかるように自然は数で理解しますが数では出来ていません。
自然は無矛盾で理解可能ですが否定で規定しますから決定不能となる、つまり規定自体が決定不能の原因です。
○パルメニデスと光速度一定の原理
自然に於ける<多>の存在は光速度一定の原理、パルメニデス哲学、双方ともに否定します。
自然は<一>、つまり濃淡は在りますが海ということです。
粒子は波が渦の状態ということです。
粒子は認識に現象する波の在り方です。
重力は加速で、その他の諸力はその物理状態に生成するのに必要なエネルギー量で力一般は存在しません。
自然は運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で新たな物理状態に生成していきます。
意識は薬で変容する、つまり物理条件に対応して変容したりしますから物理存在の附随現象です。
ケーキの物理状態が変容して違う物理状態に生成変容することと同様です。
あくまでも物理状態に伴います。
自然には物理しか存在しません。
わたしも貴方も脳が意識を担えなくなる物理状態に生成されると意識も同じ運命を辿ります。
五感や認識も物理条件に対応して生成発展していきます。