人間の自然認識の歴史

ここでは哲学史から自然観と科学の問題を考えていきたいと思います。

最初にゼノンの逆説を取り上げます。
この逆説はじつは世界は数で出来ているとするピタゴラス学派との議論から出てきました。
世界は「一」であると主張するパルメニデスの弟子であるゼノンは世界が数で出来ていて最小単位が有るとしたら、その最小単位の半分があることを「競技場の逆説」で示します。
ピタゴラス学派は数には大きさがないと主張します。
ゼノンは数に大きさがないとして、その数で世界が出来ているのならばアキレスは亀を追い抜けないし、(アキレスと亀の逆説)目的地には到達することも出来ないし(二分の一の逆説)、何よりも運動することが出来ない(飛ぶ矢の逆説)と示したわけです。
つまりこの世界つまり自然は数では出来てはいないのです。
光速度一定の法則は自然が無矛盾であることを示していますが、人間はその自然を数で理解しなければなりません。
ゼノンは自然が数では出来ていないことを論証したわけですが、このことは数で理解できないことを意味しないのです。

自然の一部である人間が自然を認識するというのは自己言及の側面をもつのですが、運動変化する自然を人間は静的に認識しなければなりません。
人間が運動変化する自然を認識する場合、認識は静的ですから運動を直接理解できないため量として認識するしかありません。
ヘーゲルは「ここ」と指示すると「ここ」は飛び去り、「今」と指示すると「今」は飛び去ると「精神の現象学」の序文で述べています。
だから座標原点、つまりどこにも存在しない運動していない点を仮に設定して運動を運動量にして理解するわけなのです。

自然の運動は次元で理解されますが、次元が実在するわけではないのです。
ゼロ次元には大きさが<無い>。
一次元には幅が<無い>。
二次元には厚みが<無い>。
三次元には運動が<無い>。
四次元は時間なのですが、時間そのものはやはり大きさの<無い>点の集まりです。
(存在するものだけが存在し、存在しないものが存在しないとしたら、現実には「今」しかありません。そしてその今は運動を静的に認識したものなのです。なぜなら自然は運動変化する存在でそれ以外には何も無いからです。)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック