わたしの立場

科学という学問でも数学という学問でも無矛盾であることが肝要であるようですので(吉永良正著「ゲーデル・不完全性定理」、板倉聖宣「新哲学入門」参照)、わたしはこのことに従います。
(千九百五十年代に出版されたある哲学者の書物には、エネルギー保存則は一見否定されるような現象が発見され、その後やはり否定されるようなものではなかったことがわかる、ということの繰り返しだという叙述がありました。
ここではエネルギー保存則は否定されないという立場です。
超心理学という学問では、一見説明できないような不可思議な現象も実験方法が工夫されるとその現象は説明できるようになるのですが、新たな実験方法でも説明できない現象は残るのですが、さらに工夫された実験方法だと幾つかが説明できるが、まだ説明できない現象は残り・・・、ということの繰り返しだそうです。)

しかし、何が無矛盾であるのかという問題が残ります。
人間は自然を認識するわけですが、この認識は静的、つまり自然そのままを認識できるわけではないのです。
自然を認識するにはある基準を設定しますが、その基準が静的であるがゆえにその認識の有効範囲に限りが出てきます。
有名な例ではウィルスは生物と非生物という区別が難しい存在だそうです。
その他では両性具有、つまり女性か男性かわからない人間が存在します。
しかしそれらはただそのように物理的状態として存在するだけで、人間が区別しようとするからこそこのような区別しがたい存在が出てくるだけです。

八十年代に人間の生死の基準の問題で論争がありましたが、厳密に生死が区別できないのはこのような認識の性格があるとわたしは理解しています。

つまり無矛盾であるのは科学ではその対象である自然であり、人間の認識ではないと主張します。
それではその裏づけとなる物理法則を示しましょう。

人間の自然認識の歴史
特殊相対性理論が前提とする光速度一定の法則は自然が全て運動することを意味しています。
光速度一定の法則では自然が無矛盾である、つまり理解できるのなら絶対座標(静止している点)は実在しないことを意味します。
すべて運動するということは、そのことを前提にしたら自然はすべて物理的存在であることになるわけです。
エーテルというのは光の速度を左右する物理的存在ですが、光の速度を左右する物理的存在は存在しないのだがなんらかの物理的存在は存在するとわたしは仮定します。
このようなことになるのは、認識が基本的に静的であり、自然をそのままでは認識できないからなのだとわたしは理解しています。

自然は無矛盾であるがゆえに、理解はできるのですがそのままでは理解できず認識には限界があるということなのです。
この仮定がどのようなことになるのかをこれから考えてみたいと思います。

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