数学について

数学というのは未だにその基礎には様々な議論がある学問です。
1=0.999・・・はおかしい、と言う人は未だに絶えませんし(野矢茂樹氏「無限論の教室」参照)虚数なんてどこにあるのだ!と言う人もいます。
とくに1=0.999・・・というのは野矢茂樹氏の著書でその証明法が出ているのですが、あるところで数学科の方がこの証明方法だと1=0も証明できてしまうとその証明を示していました。
S(0.999・・・)-1/2S(0.499・・・)=0.5
1/2S=0.5だからS=1ということですが、値の定まらない数から値の定まらない数を引くと値が定まってしまうことになるわけです。
しかしもともと値が定まらない数の存在ということ自体が厳密に考えるとおかしいわけです。
それ以前に時間と空間が最小単位でできていると考えると、ゼノンが述べるようにさまざまな奇態な事態に陥ることになるわけです。

(参考に野矢茂樹氏のアキレスと亀の数学的理解に対する疑問を抜粋します。

アキレスが亀に一分後に追いつくと前提して。
最後の自然数は奇数か偶数かは答えようがない。
いくら作業時間の総和が1に収束しようとも、そのことはアキレスが自然数を数えつくせることの証明にはならない。

・・・「ですから、ゼノンのパラドクスは、時間を無限に足し算しなければならないがゆえにアキレスは亀を追い越すのに無限の時間がかかる、なんて言っているんじゃないんです。もしそう言っているなら、無限に足し算しても有限の値になると教えてあげることにポイントがあるでしょう。しかし、いくら無限級数が収束しようとも、です。自然数は数えきることができない。だからアキレスは亀に追いつくことができない。なぜなら、そこにはさっき問題にした超作業法が含まれているからです。」)

わたしは数学の基本は認識の方法だと理解しています。
認識は静的だということは何回か言いました。
「わたしが生まれた」と言っても、物理的には何も生まれたわけでもないし、たんに物理的運動変化がもたらした状態の質的変化を指しているだけですし、その指示自体も厳密ではなくおおまかであり、相対的でしかありません。

つまり認識は静的であるがゆえに相対的なのです。
数に大きさが無い、というのは存在する自然を理解するうえでの必然的な要請です。
つまり運動量ゼロ=静止ということなのです。

ゼノンがその反論で示したように、数は実在しません。
逆にだからこそ、値の定まらない数とか、虚数、πとかを数の概念に取り込めるわけです。
数学もそれで理解できればどんな数の概念でも受け容れるのだと理解しています。

数が実在するとしたらこういった数は理解不能なのです。

次は人間がどう認識してきたかを述べることにしましょう。

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