数について

ピタゴラス学派の主張である世界は数でできているという主張はゼノンの逆説というか反論で否定されました。
では数は様々な分野で活躍しているのですが、この数とは何なのでしょうか?

数学での定義では数には大きさがありません。
ゼノンとその師であるパルメニデスが主張するように大きさが無いものがいくら集まったとしても大きさが生じるわけでは在りません。
たしかに視覚としては鉛筆が一本、りんごが一つと数えられるのですが、どう感覚するのかということは当てにはなりませんから論理を先導としてこの自然を理解してみたいと思います。

わたしたちは高さ、幅、奥行きで机の大きさを知りますが、机自体は高さ、幅、奥行きで出来ているわけではありません。
あくまでもこれらのいわゆる次元はたんに机の大きさを知る頭の中のものでしかないわけです。
鉛筆が、あなたがこれを見ているパソコンが高さ、幅、奥行きで出来ているわけではなく、次元で物理的存在を理解しているだけなのです。
ここから、次元は物理的存在を抽象したいわゆる観念的存在なのではないかという理解が出てきます。
では三次元は自然に存在しないのかという疑問も出てくるでしょう。
これは当然の疑問ですが、三次元は運動しないのです。
あなたの目の前の物理的存在はすべて運動していますし、あなた自身も地球と共に運動しているのです。
つまり三次元もまた運動していないのですから、やはり自然の抽象だと言って良いのです。

では四次元、つまり時間は自然に存在することを否定するのか?と問われることでしょう。
ここでわたしは認識、ひいては論理は静的であると主張していることを思い出してください。

時間もまた次元です。
自然の運動を抽象したのが時間であり、時間で理解するのでありそのものでは決して自然に存在するわけではないのです。。
物理的存在の運動量が時間と理解されています。
運動を人間は静的に認識しています。
<今>というのは運動を静的に認識した言葉です。
<今>には幅、大きさがありません。
どんなに小さく区切ってもゼノンの「競技場の逆説」が示すようにその半分が示せますし、何よりも量があればその中には未来も今も過去も含まれてしまいますから、<今>には幅が無いのです。
つまり<今>は運動してはおらず運動量としてはゼロなのです。
(認識は静的であるという特徴はここでも貫かれます。)

つまり時間は実在せず、次元はこの自然から抽象され、自然を理解するための観念的な存在なのです。
そして数は基本的には自然を理解するための観念的な存在なのです。
(ここでは現代科学の未だ決定的な証拠が無い宇宙論などは考慮せず、あくまでも論理として展開していますのでご了承ください。)

自然を理解する場合にはその道具の性格によって違います。
このことは諸動植物の認識媒体とその能力で説明したところです。

わたしたちはその道具の性格を理解すべきなのです。
認識の性格は静的であり、このことが様々な問題と誤解を引き起こします。

ここでかんたんに特殊相対性理論の前提になった光速度一定の法則を考えてみましょう。
特殊相対性理論はここから絶対座標は自然に存在しても認識できないとしています。
しかし科学は無矛盾であることを要求しますから、絶対座標は自然に存在(わたしは実在と表現します)することはできません。
絶対座標とは運動の否定、つまり静止ですから、これが実在しないとすると、自然はすべて運動することになるわけです。
(わたしは、光速度一定の法則で科学は自然はすべて運動するという自然観を獲得したと理解しています。)

自然は運動するのですが、その自然の一部である人間が自然を認識する場合には静的なのです。

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