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  また改稿
No.5334   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/19(Tue) 07:46
次元は認識に現象下自然の抽象なんですね
これを含めないと

静止は存在しませんが現象するわけです

  自然を理解したい
No.5333   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/19(Tue) 07:42
415 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2022/04/19(火) 07:39:54.86 0
科学の枠は判りたい
自然は無矛盾で理解可能だという前提です

人間は自然の一部ですから、自然理解は自己言及です
自己を他者として認識理解することが基本です
規定は否定
フォイエルバッハの認識論で、観念的な自己分裂・・・
対象ー認識ー表現
〈わたし〉は客体と主体が同一です

これらを光速度一定の原理は示しているのだと


  規定は否定
No.5332   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/19(Tue) 05:19
鍵です

  規定は否定
No.5331   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/17(Sun) 11:29
408 考える名無しさん [sage] 2022/04/17(日) 08:46:46.07 ID:
>>407訂正

> 有を無で規定します
> 存在する運動を存在しない静止で規定します
> 今とは認識に対象化された有であり、無として規定されます

認識に現象する自然をその抽象で規定する
自然そのままではないし、また規定は自然には存在しないわけです
理論も理解も認識も自然には存在しない

規定は本質として否定で、無です
今という理解もまた存在を無で規定しているということです
時間は自然存在ではありません

有を無で規定しますから、本質として決定不能ということです
むろん自然は無矛盾で理解可能であるが故に決定不能なのです

  投稿
No.5330   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/13(Wed) 15:51
19 132人目の素数さん [sage] 2022/04/13(水) 05:42:12.70 ID:sHY/2dn0
認識に現象するから自然に存在するかというと違うわけです
静止は運動の均衡状態ですし、絶対座標の存在は否定されています
また認識できないから存在していないとは言えない事象があります
光速度一定の原理は座標原点、静止の存在を否定します
ならば自然は運動するエネルギーの濃淡です
真空はディラックの海がありますから、エネルギーの基底状態、つまり無は認識には現象しますが存在しないと理解するのが妥当でしょう
光速度一定の原理が示す運動の普遍を前提に有と無という否定関係は成立しないということです
さて、数は認識に現象しますが存在するのでしょうか
座標原点、つまり〈ここ〉からが存在しなければ〈ここ〉までも存在しないのではないのでしょうか

数で理解することは否定していませんが、自然に存在することは科学は否定しているのではないかと

20 132人目の素数さん [sage] 2022/04/13(水) 05:54:20.11 ID:sHY/2dn0
ゼロ次元は大きさがありませんし、また存在を否定されています
一次元は幅が無く、二次元は厚みが無く、三次元は運動しません
何よりも存在しないゼロ次元の無限集合です
四次元は静止、つまり運動しない三次元の無限集合です

次元は認識に現象する物理状態の抽象であり存在しないのでは無いのでしょうか
自然の存在形態は運動です
それを認識を媒介にして現象する自然を理解、規定する
次元はあくまでも自然という対象の理解の媒介であり自体として存在するわけではないのでは?
出発点も無い、一次元も二次元も三次元も四次元も自然という対象から切り離して存在するわけではないのでは?
それらはあくまでも自然という対象の抽象でしかないのでは?

21 132人目の素数さん [sage] 2022/04/13(水) 06:06:01.84 ID:sHY/2dn0
規定は否定とはスピノザの理解です
運動は静止で規定されます
有は無で、ということです
ならば〇に限りなく近いが〇では無いという数学の不思議な定義は理解できます
また不確定性原理は認識は本質として近似値であり、決して=ではありえないということも
観測問題も〈ここ〉から〈ここ〉までが存在しない、つまり濃淡ならば粒子は存在しないから渦の状態を粒子として認識には現象するだけではないかという無矛盾な理解が可能です

地動説は静止で認識するが静止は存在しないという光速度一定の原理の静止の存在の否定ということを暗示する自然理解なのでは?

いずれにしても認識に現象しても存在しない、また現象しなくても存在する事象があるということです
何よりも自然は無矛盾で理解可能だという前提は守られなければならない

22 132人目の素数さん [sage] 2022/04/13(水) 06:25:46.41 ID:sHY/2dn0
現代科学の在り方にはハイゼンベルク、武谷三男氏らが半世紀ほど前に疑義を呈しています
九〇年代初頭にも洋の東西に現代科学には新しい観方が必要だとする科学者たちが出ています
立花隆氏が日本人の物理学者がノーベル賞受賞の際にテレビ番組で量子力学分野では新しい理論が求められていると語りました
また同時期にネットで量子力学研究の最前線では全くの混乱状態で解決の光が見えないと研究者らしき方が投稿していました

現在の学を絶対化して考えると危ういのではと横目で見る立場からは見えます
数学もまた例外でないのでは?

23 132人目の素数さん [sage] 2022/04/13(水) 06:40:53.79 ID:sHY/2dn0
自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発の過程で様々な物理状態を生成するのではないかと
紐から成るのでは無い、紐に成るのだという理解です
全てはそうではないかと

パルメニデスの自然は一であるという理解を光速度一定の原理は裏付け、そこからヘラクレイトスの自然観は正しいことを導けるのではないでしょうか

数学は認識の理論ではないでしょうか
それは自然存在ではなく、認識を媒介に現象する自然の抽象なのではと思えてきます


て素人の藪睨みの理解を書き捨てて逃げます

  存在
No.5329   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/13(Wed) 09:55
認識に現象しても存在しない
認識に現象しなくても存在する

  Re[5324]: 夢色飛行機
No.5328   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/13(Wed) 07:30
声が合っている気がします
とても印象に残っています
そういや高畑充希さんが歌う星巡りの歌は合唱やクラシック歌手が歌うそれより好きです
技術的には劣るのでしょうが
ある詩人が、最初に聴いた演奏が最後まで付きまとうとか言っていました
人間の感覚なんてそんなもので絶対じゃないみたいです
二十世紀前半の録音聴いているとやはり感覚に合わないし、近年のも違和感があったりしますから
ただそれを乗り越えた演奏もあるわけです
数世紀単位、数千年単位だとわかりませんが
古楽器だと絶対音感の持ち主には気持ち悪いと聴いたことがあります
この辺りもまた面白い問題ではあります

> ねぇ夢色ヒコーキ ねぇ夢色ヒコーキ 
> さぁさぁ飛んでゆけ あなたの胸の中
>
> 名前も知らない 恋人なんて おかしいですか 
> そんな呼び方は ひとりあこがれて 芽ばえた恋を 
> あなたはあなたは 気がつくでしょうか
>
>
> 昨日もグランドで ボール蹴っていましたね 
> そんな黄昏 好きなんです
>
> ねぇ夢色ヒコーキ ねぇ夢色ヒコーキ 
> さぁさぁ飛んでゆけ あなたの胸の中
>
> ねぇ夢色ヒコーキ ねぇ夢色ヒコーキ 
> さぁさぁ飛んでゆけ あなたの胸の中
>
> 名前も知らない 恋人なのに おかしいですね 
> 手紙書くなんて いつもあこがれて 迷い子の言葉 
> あなたはあなたは 知らないでしょうね
>
> ひとり坂道を 今朝も馳けていましたね 
> そんな朝焼け 好きなんです
> ねぇ夢色ヒコーキ ねぇ夢色ヒコーキ 
> さぁさぁ飛んでゆけ あなたの胸の中

  和歌、俳句、詩
No.5327   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/13(Wed) 07:18
あまり読まないのですが
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
栗木京子さんの和歌で、最近知りました
その世界では有名な現代和歌のようで知りませんでした

あの夏の数限りなくそしてまたたった一つの表情をせよ
虹自身時間はありと思いけり

大岡信さんの折々の歌で知りました
永瀬清子さんは吉本隆明さんの試行で知りました
短章集の数冊は今でも大事にとってあります

こういうのは有能な案内人に任せています
考えてみると案内人は重要ですね
理数系の論理が理解できず諦めました
それて文芸逃げたのですが、高校時代苦手だった文法が言語論からとても面白く読めるようになりました
三浦つとむさんの影響を受けた板倉さんから勉強と学問の違いを知りまた現代の学を絶対化する愚を知りました

  「少し遠出をしてみませんか」浦部雅美 (1977年)
No.5326   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/12(Tue) 08:33
全然知りませんでした
この時代の感覚なんでしょうか、個人的には悪くない
やまがたすみこ チューインガム、久保田育子とか
まりむれい・・・
フォークソングなのかな
ジョンバエズ、ジャニスイアン?ピーターポールアンドマリーとか考えるとらやはり向こうがベースなのでしょうか

  音楽
No.5325   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/12(Tue) 07:42
個人的に音楽の好みが生成されたのは六十年代が基本でしょうか
ただ好みが変わる面もまたあるわけで
クラシックに熱中するとは思いませんでしたが、どこかで漱石の「わたしの個人主義」の明治知識人揶揄が心のどこかにっかかります
またいろいろ歴史を繙くと音楽を理解するということそのものが判らなくなり、もう好みだけが基準になります
意味は違いますが行蔵?は我に存す、毀誉褒貶は、という勝海舟の言葉を思い出します
モーツァルトの音楽も妙なる音楽と評されたギリシャ古代音楽同様の運命かもしれないという言葉が否定できなかったりします
若い時には???という音楽が受け付けられるようになったりもしますし
ショパンも?だったりしたりしましたが、演奏家次第なんだなと思ったりしますし
バルトークのピアノ協奏曲をポリーニで聴いた時の衝撃とか

結局自分の感覚も変わるわけで
音楽のこういう現象は何を意味するのでしょうか
意外と単純なのでしょう

自然が単純そのものなように

  夢色飛行機
No.5324   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/12(Tue) 07:21
ねぇ夢色ヒコーキ ねぇ夢色ヒコーキ 
さぁさぁ飛んでゆけ あなたの胸の中

名前も知らない 恋人なんて おかしいですか 
そんな呼び方は ひとりあこがれて 芽ばえた恋を 
あなたはあなたは 気がつくでしょうか


昨日もグランドで ボール蹴っていましたね 
そんな黄昏 好きなんです

ねぇ夢色ヒコーキ ねぇ夢色ヒコーキ 
さぁさぁ飛んでゆけ あなたの胸の中

ねぇ夢色ヒコーキ ねぇ夢色ヒコーキ 
さぁさぁ飛んでゆけ あなたの胸の中

名前も知らない 恋人なのに おかしいですね 
手紙書くなんて いつもあこがれて 迷い子の言葉 
あなたはあなたは 知らないでしょうね

ひとり坂道を 今朝も馳けていましたね 
そんな朝焼け 好きなんです
ねぇ夢色ヒコーキ ねぇ夢色ヒコーキ 
さぁさぁ飛んでゆけ あなたの胸の中

  概略
No.5323   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/11(Mon) 13:14
347 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 09:34:54.28 ID:
光速度一定の原理は科学が自然が無矛盾ということを示したと理解しています
そして絶対座標が否定されるということは、存在しない静止で運動を規定するのだと考えます
ゼノン、パルメニデス、ヘラクレイトスは正しいのだと
二律背反、ヘーゲルの運動規定が解決する
スビノザの規定の理解は正しいのです
クレタ人の逆説は対象をその否定で規定すると決定不能になることを示します
光速度一定の原理は運動を静止、つまり対象を否定で規定していることを示します
不完全性定理は必然です
また観測問題は粒子は波が渦の状態とする古代ギリシャ、近年の英国科学者、現代のブリゴジン学派の理解を裏付けます
不確定性原理は有を無で規定しますから、近似値が必至だということです
自然は運動するエネルギーの濃淡で親和反発で生成する過程であり、わたしたちもまたそうです
つまり進化論しかありえません

否定関係は自然には存在しないのです
つまり無矛盾です

いろいろ読んでいるうちに解らないことばかりになり混乱したのですが、光速度一定の原理はそれらを解決する導きの糸だとわたしは理解しています

348 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 09:35:38.56 ID:
理系に抵抗があるのはビッグバン仮説が否定されること
次元の存在が否定されることなどです

ビッグバン仮説は宇宙背景放射には天文学者が疑義を呈した論文をだし、スムート博士は否定できないとコメントしました
つまり証拠は無いのです
この仮説は対象に宇宙、非宇宙という否定関係が存在することを仮定しています
またエネルギー保存則、絶対座標の存在を主張するわけで科学の否定です

生死は物理としては存在しません
生まれる 物理状態の変化です
死ぬことも同様です
というか静止であることはなく常に運動変化していて同一であることは無いのです

また無限を有限で理解しています

わたしの光速度一定の原理の理解が否定されたら、この理解もまた否定されます

349 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 09:53:40.33 ID:
「ビッグバンはなかった」でアルヴェーンはビッグバン仮説を追いかけている科学者たちに注意喚起することははなはだ困難で行きつくところまで行かないと難しいというようなことを書いています

近年科学革命が必要な段階と考えている科学者は散見します
ハイゼンベルク、武谷三男氏らは半世紀ほど前に現代科学の傾向に疑問を呈しています
時間は存在しないとする科学者たちは出てきていますが前世紀末にドイツの科学者がその可能性を示唆しているのがわたしが知る一番古いものです
科学啓蒙番組、科学雑誌でも特集されたりしています
また重力も否定している科学者が出演しています

科学革命はあるのだとわたしは考えています

自然は一であり、それを多で理解するから様々な問題が出てくるわけです
理解すること自身が問題を出現させるのだと

光速度一定の原理は座標原点で対象を理解してその存在を否定する
この原理は自然とそれを理解することの根源を示しているという理解です

350 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 09:56:08.26 ID:
その理解を数学的に法則性を証明できないのがおしい。

351 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 09:59:32.10 ID:
>>349
「ビッグバンはなかった」はラーナーが書いています

「ビッグパン危うし」はボスロウ

近藤さんも講談社で否定的な本を出しています
またあることで信じていたビッグバン仮説に疑問をもち調べたら 否定的になったという理系の方がいました

352 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 10:03:30.76 ID:
ですから法則の数学的証明の前提ということです

353 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 10:08:58.94 ID:
次元は認識に現象する物理状態の抽象です
時間もまたその抽象ですから自然には存在しません
静止で理解しますが、自然には存在しません

自然はただただ運動変化しているだけです

354 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 10:20:26.99 ID:
0に限りなく近いが0ではないという数学の奇妙な規定も、有を無で規定するという観点からは理解可能です
因みにこの指摘はわたしが規定は否定ということを示す過程である方が指摘されて、自分が解決の鍵を持っているのに先を越され臍を噛みました

355 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 12:04:38.86 ID:
所論を訂正します
光速度一定の原理がわたしの理解の前提ですから、数式で示されています
数式は座標原点が前提でありその存在を否定しています


356 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 12:15:10.93 ID:
地球平面説とその否定の球体説を読んでいたら
次元は認識に現象する自然の抽象であるということに気が付きました
一歩深める理解ができました

やはりいろいろ触発されないと進展しないです
かなり前に解決したと考えていたことが浅かったことがわかったりします

自然は一で、規定は多でありその否定です
一が多となり、多が一となり、という中国?の思想家の言葉を思い出します

いずれにしても若い時からの未解決問題は基本的に納得できる形で解決しました

夕べに死すとも可なりの心境です

357 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 12:30:56.45 ID:
科学は自然〈認識〉です
認識の在り方に現象する自然ということです
静止は存在しませんが認識には現象します

つまり認識の在り方に媒介されて自然を理解するわけです
自然認識を展開する過程で、認識が否定されるわけです

認識論は必須です

358 考える名無しさん [sage] 2022/04/11(月) 12:40:56.11 ID:
わたしは科学の枠組みを理解設定したかった

具体的には「進化は万能である」の著者の理解がいろいろ参考になりそうです
またタレブの諸著作も刺激的です

お薦めします

わたしの立論は三浦つとむの認識論、「新哲学入門」の板倉さん、「ゼノン4つの逆理」の山川さんを参照しました
唯物論者ですが、マルキストではありません

人生は不可解と藤村保は自殺しましたが、わたしは不可解と可解しましたので多分自殺はしません w

  遺伝子組み換え
No.5322   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/05(Tue) 19:31
リドレー「繁栄」では強力な根拠で擁護しています。
リドレー、新しい視点がかなり面白いです。


  目的
No.5321   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/02(Sat) 12:40
人間とは何かを知りたいだけです
それは自然、学問の理解を前提として考えたい
学問のための学問というのは好みではありません
導きの糸として学問を前提にする

個人的には科学はその素材を提供していると理解しています
挑発的に言えば、科学者は哲学を軽視しているからそのことに気がついていないと思えてなりません

  Re[5318]: 原理の模索
No.5320   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/01(Fri) 10:16
タレブ、リドレーはビッグバン仮説を疑わない
ここに気がついたら一瀉千里かと

  科学
No.5319   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/04/01(Fri) 10:13
自然科学は有を無で規定するということです
無は認識を媒介にした物理状態の抽象です
全く関係ないってことはないわけですが存在はしません

  原理の模索
No.5318   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/26(Sat) 09:02

やはり西洋が得意なんでしょうか
日本は輸入洗練が得意なんでしょうか
正否は判りませんがそんな諸作を読むとまた後塵を拝するのかなと不安になります
でもパルメニデスには気がついてはいない
互いに文化の縛りはありますから
でも気がつくのは時間の問題かと

こういうのは意外と素人の出番のような気がします
僭越ながら 笑

ファイアアーベントは専門家の過ちを屡々素人が正すことは良くあることだと書いているそうです

  進化は万能である
No.5317   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/24(Thu) 12:53
面白い視点です
前にも書きましたがパルメニデス、ヘラクレイトスに収斂するかと

繰り返し読むに値するかも

  荒らして来ました
No.5316   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/21(Mon) 07:42
560 名無しSUN [sage] 2022/03/21(月) 04:58:09.42 ID:Khi1eQs0
<わたし>という表現は自己言及
人間は自然の一部
つまり科学は自然の自己言及
地動説は観測する立場である地球の自己言及
地球も天体の一部、仲間
進化論は人間が生物の一部という人間の自己言及
諸生物とはDNAの差異であり否定関係ではない
光速度一定の原理は認識する立場と自然の自己言及
座標原点は自然のどこにも存在しない→静止はどこにも存在しない、つまり自然の存在形態は運動ということ
認識する立場は自然には存在しない
静止は自然に存在しないという認識の立場の自己言及
運動するエネルギーの濃淡は認識には形として現象する
次元は認識に現象する自然の在り方の抽象
次元で認識するが次元は存在しない
地球は球体で認識するのは正当だが座標原点の存在は否定されるから自然に形は存在しない
地球球体説は認識の立場の存在が自然に存在するという天動説

561 名無しSUN [sage] 2022/03/21(月) 05:14:27.56 ID:Khi1eQs0
自己言及とは?
クレタ人の逆説は対象をその否定で規定するから決定不能になることを示す
規定は否定
<わたし>という表現も他者という立場から自己を認識して<わたし>と表現する
地図は頭の中では空中から町、日本、地球を認識して描く
わたしもまた物理としてのわたしを観念のわたしは他者として認識する
言語学者三浦つとむが解明したこと
規定は否定
対象が無矛盾だから決定不能に
自然は理解可能だから決定不能にということです

562 名無しSUN [sage] 2022/03/21(月) 05:19:43.50 ID:Khi1eQs0
>>560
地球の周りを諸天体は運動するって認識は視覚においては正しいが自然がそうだということにはならない
地球が球体って認識することもまた同じです
認識には正当だが自然がそうだということにはならない

  簡単に
No.5315   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/20(Sun) 16:03
光速度一定の原理が根底だと理解している
静止は否定しているから対象は無矛盾
エネルギー保存則はどこにも行きようがないから成立する
で運動変化するだけだから生成過程として自然は在るから進化論しかあり得ない
運動は静止で理解、つまり否定で規定する
有を無で規定するから不確定性原理や0に限りなく近いが0ではないということになる
最小単位、有限で理解するが存在しない
対象を否定で規定するから不完全性定理
対象が無矛盾だからこその決定不能

球体で理解するのだが自然には形はない

  無矛盾
No.5314   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/19(Sat) 13:19
絶対座標は存在しない。
本当はこれだけです。
ここから全て導けます。

  ラストなら良いんですが
No.5313   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/17(Thu) 13:20
    科学と認識の理論

   ~自然過程説の展開~

      はじめに

 十九世紀末に光速度一定の原理という不可解な現象が観測されました。

二十世紀前半には観測問題、波であると共に粒子、つまり同一対象が物理条件は違いますが否定関係として現象するという理解困難な事象が確認されました。
自然が無矛盾でないと科学は成立しませんから光速度一定の原理とともに科学という知に衝撃を与えた発見となりました。
今日に至るまでこの問題はどう理解したら良いのか解決に至っていません。
 宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだということになりましたが、その後この観測結果は違う理解が可能だとしてある天文学者が論文を発表して、この観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
これを記事にしたマスコミは十九世紀に火星に運河を発見したアメリカの天文学者と同じ過ちかもしれないと書きました。
 科学史を振り返りますと天動説を典型に科学者たちが発見観測した対象を理解しないことは多々あります。
酸素を発見した科学者はそれが自らが信奉するフロギストン学説を否定していると知ることは最期までありませんでした。
これらのことで判るように宇宙論には未だに決定的な理論は無いのです。

1970年代に物理学者ハイゼンベルク、武谷三男氏は現代科学の在り方に疑問を投げかけました。
1990年代にはプラズマ宇宙論者の一人であるラーナーは科学革命が必要な段階だと語り、また二人の日本の科学者が新しい見方が必要だとある本に記しました。
二十一世紀に入り日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に立花隆氏が量子力学には新しい理論が必要だとテレビ番組で語り、またインターネットでは研究関係らしき人が一条の光も見えないと投稿していました。
二千十年代にあるテレビ番組で時間は存在しないと主張する科学者が登場し、科学雑誌でも同様の主張をする科学者たちを特集しました。実は1990年代にドイツの科学者が時間が存在しない可能性について既に触れています。同じ番組で重力を否定する科学者が登場しています。
 これらを踏まえますと科学はまだ発展途上で科学革命が必要な段階だという主張は否定できないようです。

1980年代末にもう少しで最終方程式が手に入ると語ったホーキング博士は観測問題を考えると引き出しの銃に手が伸びると言ったそうです。

いわゆる哲学の分野ではピタゴラス学派と対立するパルメニデス哲学を擁護したゼノンの逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの理解困難な運動定義などが未解決問題としてあります。

 数学では不完全性定理が導いた決定不能という結論で何もかも理解不可能なのだとする人たちがいます。そうだとしても理解不可能ということ自体は理解できるわけで、何もかもということではないのではないと思えます。
この決定不能とはどういうことなのかということは実はまだ判っていないのではとわたしは考えています。

 科学を含め現在の学問は未解決問題が山積しているわけです。
わたしは1994年に論理とは、を扱った「新哲学入門」を著した板倉聖宣氏と1996年に「ゼノン4つの逆理」を著した山川也氏の理解を手掛かりにしてこれらの問題に挑んでみることにします。
以下は試論であり検討して頂ければ幸いです。


    自然過程説の展開

 科学は対象である自然が無矛盾である、つまり理解可能であることが前提です。
この視点から科学の歴史を振り返ってみます。
 地動説は特別だと理解されていた地球もまた天を運動する諸天体と変わらないと示しました。
進化論は人間も諸生物の仲間であることを示します。諸生物の形態の差異はDNAの差異であり否定関係ではありません。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止を否定します。自然の存在形態は運動であり無限です。
なぜなら静止という否定関係は対象には存在しないからです。
また<ここ>からが存在しないということは<ここ>までも存在しないということですから自然は無限であり、理解する対象に自然非自然という否定関係が存在することをこの原理は否定します。
ディラックの海は真空がエネルギーの基底状態であり、自然は運動するエネルギーの濃淡であることを指し示します。
運動は自然の存在形態であり、静止は否定されますから無は存在しないのです。
運動するエネルギーの濃淡の反発親和を経て様々な物理状態が生成して行く過程として自然は有るということです。
ヘラクレイトスは万物は流転すると理解しました。人間も含めて自然はある物理状態からある物理状態に生成して行く過程として存在するというヘラクレイトスの理解を現代科学は裏付けます。

 ここで対象の規定の在り方を考えてみます。
<わたし>はあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては差異であるのですが否定関係ではありません。
物理としては同一ですが、非同一つまり否定関係で規定します。
エネルギーの濃淡としての差違を否定で規定します。
また<わたし>は誕生から現在に至るまで大きく運動変化していますしこの今も物理状態としては同一であることはありません。
物理状態としての<わたし>は対象として非同一として存在しますが同一の<わたし>と規定します。
宇宙は物理状態として同一であることはありませんが同一の<宇宙>と規定します。
(アガサ・クリスティはミス・マープルに「変われば変わるほど変わらない。変わらなければ変わらないほどますます変わる。」と語らせます。規定は否定だからです。)
 わたしたちは運動する対象を座標原点、つまり運動の否定、静止で規定、理解します。
光速度一定の原理が示すように自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
この自然をわたしたちはそのままでは認識できません。
<一>である自然は認識には<多>として現象します。
多として現象する物理状態の抽象として次元はあり自然に次元は存在しません。
自然には<ここ>から<ここ>までは存在しませんから、有限、粒子、最小単位、つまり形は存在しません。
これらは認識の在り方を媒介に現象する自然の像でありイコールの自然ではないのです。
認識器官という物理条件に生成した物理状態の像なのです。
0次元には大きさ、1次元には幅、2次元には厚み、3次元には運動が在りません。4次元は運動しない3次元の無限集合です。
次元は徹頭徹尾無なのです。
過去は過ぎ去り現在には幅が存在せず未来は未だ来ていません。
<現在>の正体は運動であり時間は運動量で理解する認識の在り方が要請する形式、次元であり存在しません。

対象である自然、つまり有をその否定である無で規定します。
運動を静止、つまり有を無で規定しますから0に限りなく近いが0ではないという不思議な規定になるわけです。(のちほど述べますが対象をその否定で規定しますから決定不能ということになります)
<現在>には幅がありませんがこのことも対象の否定で規定することの証左です。
<一>ではあるが差異である自然は認識の在り方から<多>として現象します。だから否定である<多>で規定するわけです。差異ではありますが<一>である自然を<多>という否定関係で規定しますからウイルスという分類困難な対象が出来したりします。
この問題は対象側にはなく規定すること自体の問題です。
生死もまた物理として存在しません。
わたしたちはある物理状態から生成してまた違う物理状態に生成する過程に存在します。
ある生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語りましたが、自然の運動変化の過程に存在し、かつこの今に於いても同一であることはないからです。
それを同一として規定しますがウイルス同様に生死は規定の性格上分類困難なのです。生死という否定関係は物理として存在しないのです。
 ここで光速度一定の原理に戻ります。
この原理は座標原点つまり静止、<ここ>から<ここ>までが存在しないことを示します。
観測問題は海である自然、つまり波が渦の状態を呈しているということになり認識には粒子として現象します。
この理解は古代ギリシャ、近代英国科学者がいますが、現代ではブリゴジン学派がこの予想の下で実験を続けているとラーナーは記しています。
不確定性原理は運動を静止で、つまり有を無で規定するからで、その結果、測定は近似値になるしかありません。エネルギー保存則の破れが言われたりしますが測定は本質として近似ですからイコールということはありえませんし自然以外ないのですからどこにも行けないから物理として生滅はないのです。
自然は無矛盾であり規定することが様々な問題を引き起こすのですが、光速度一定の原理は絶対座標、つまり規定が自然に存在しないことで自然が無矛盾であることを示します。
対象の否定は当然対象には存在しません。
科学は認識に<多>として現象する自然を否定で規定することを明らかにして<一>として収斂して行く過程とも言えます。

 いわゆる数学の不完全性定理をもって自然は理解出来ないとする人たちがいますが、自然は無矛盾、つまり理解可能なのですが、それを否定で規定してその規定自身が対象の否定であると自己言及しますから決定不能になるとわたしは理解します。
このことを考察しましょう。

人間は自然の一部ですから科学は自然の自己言及ということになります。
一番身近な自己言及は<わたし>という表現です。
このことを言語学者である三浦つとむ氏が解明していますので紹介します。
わたしたちは地図を描く場合、頭の中、つまり観念の中で空中から街、日本、地球、銀河系を眺めて描くことが可能です。またミクロの世界も描けます。
古今東西、ドラマ、小説の主人公、また未来にも行ったりできます。
三浦つとむ氏はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました。
<わたし>という表現は観念の中で物理としての自己を他者として認識します。
物理としての自己は観念の中では他者なのです。
<わたし>という表現は他者という否定で規定されているわけです。
では対象をその否定で規定するとどういうことになるのか考えてみます。
このことについて古代ギリシャは「クレタ人の逆説」を提出しています。
この逆説はクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというものです。
クレタ人が嘘つきだとクレタ人が真理を述べています。
つまり対象の否定で規定しています。
対象をその否定で規定して規定自身に自己言及しますから決定不能になります。
これは対象が無矛盾で理解可能であるからです。そして規定は<対象>の否定であるが故に様々な理解困難な問題を出来させるわけです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますがそれはまた静止で規定することを示します。
この原理は自然及び規定の自己言及という性格をもつ原理なのです。
つまり対象の否定で規定して規定の存在を否定することにより自然という対象が無矛盾であることを示します。
規定は否定です。
そして人間は自然の一部ですから自然理解は自己言及です。
 自然は無矛盾、理解可能であるが故に決定不能なのです。

ここでビッグバン仮説について考えてみます。
<はじめに>で述べましたようにこの仮説には決定的証拠はまだありません。
宇宙が膨張しているのならば端が観測されなければなりません。
インフレーション仮説はまだ証明されていません。
端が観測されていなければ無限だと理解しても良いわけです。
インターネットでは「ビッグバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビッグバンが起きているのか?」という投稿がありました。ボスロウはビッグバンは宇宙の片隅で起きたことかもしれないと「ビッグバン危うし」に記しました。
わたしはビッグバン仮説は科学の前提や法則に反していると考えています。
大前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定しています。そしてエネルギー保存則、つまり何も生まれない無くならないということを否定します。
また光速度一定の原理は絶対座標、つまり始まりを否定していますがこの仮説は始まりを想定しています。
ワインバークは約三十年前に宇宙の始まりまであとわずかに迫っていると語りましたがわたしは始まりは物理としては存在しないと理解しています。
物理として生死は存在しませんし宇宙には存在しないことはエネルギー保存則、光速度一定の原理が語ることです。
自然は無矛盾で理解可能でありエネルギー保存則、光速度一定の原理の枠内で理解する必要があるとわたしは考えています。
地球は静止して見えますがそうではありません。
観測結果をどう理解すべきなのか。
それは科学の諸前提を否定してはなりませんし、その枠内での理解は可能でしょう。

     哲学の諸問題
 ピタゴラス学派は自然は<多>であり数で出来ているとしましたがパルメニデスは<一>であるとしました。
ゼノンは師であるパルメニデスの主張を逆説で擁護しました
「競技場の逆説」では自然が最小単位でできているのならその半分が存在することを、つまり最小単位は存在しないことを論証しました。この論証を受けてピタゴラス学派は数には大きさが無いとします。
ゼノンは「二分の一の逆説」、「アキレスと亀の逆説」で数に大きさがなければ目的地に到達することもアキレスは亀を追い抜くことも出来ないと論証しました。
「飛ぶ矢の逆説」では空間が点で構成されていたら運動は不可能だと示しました。
 自然は<多>ではなく<一>なのです。
規定は否定ですから数で理解するのであり<一>である自然をその否定の<多>で規定するということです。
光速度一定の原理は座標原<点>の存在を否定してパルメニデスの理解を裏付けました。
カントの二律背反が意味することは対象とその規定の問題であり終始が存在しない自然を終始で規定するということです。
ヘーゲルは運動を存在すると同時にしないことと定義しましたが、これはクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説を踏まえています。
運動は存在するのですが存在するという規定が静止であることを飛ぶ矢の逆説は示しますから、存在すると同時に存在しないことという定義になります。
つまり決定不能なのです。

科学が示す自然は無限であり運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で全ては生成して行きます。
進化論はその生物学的理解です。
万物は流転するとヘラクレイトスは理解します。

光速度一定の原理は、自然は無矛盾であり<一>と理解するパルメニデス哲学を裏付けます。
ピタゴラス、ルクレティウスの理解は認識の理論であり、クレタ人の逆説は対象を否定で規定するという論理の根幹を示し、ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反が必然であることとなります。
規定は<対象>の否定ですから対象である自然には存在しません。

自然は無矛盾です。

  とりあえず
No.5312   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/16(Wed) 14:00
    科学と認識の理論

   ~自然過程説の展開~

はじめに

 十九世紀末に光速度一定の原理という不可解な現象が観測されました。

二十世紀前半には観測問題、波であると共に粒子、つまり同一対象が物理条件は違いますが否定関係として現象するという理解困難な事象が確認されました。
自然が無矛盾でないと科学は成立しませんから光速度一定の原理と共に科学という知に衝撃を与えた発見となりました。
今日に至るまでこの問題はどう理解したら良いのか解決に至っていません。
 宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだということになりましたが、その後この観測結果は違う理解が可能だとしてある天文学者が論文を発表して、この観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
 これを記事にしたマスコミは十九世紀に火星に運河を発見したアメリカの天文学者と同じ過ちかもしれないと書きました。
科学史を振り返りますと天動説を典型に科学者たちが発見観測した対象を理解しないことは多々あります。
酸素を発見した科学者はそれが自らが信奉するフロギストン学説を否定していると知ることは最期までありませんでした。
これらのことで判るように宇宙論には未だに決定的な理論は無いのです。

1970年代に物理学者ハイゼンベルク、武谷三男氏は現代科学の在り方に疑問を投げかけました。
1990年代にはプラズマ宇宙論者の一人であるラーナーは科学革命が必要な段階だと語り、また二人の日本の科学者が新しい見方が必要だとある本に記しました。
二十一世紀に入り日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に立花隆氏が量子力学には新しい理論が必要だとテレビ番組で語り、またインターネットでは研究関係らしき人が一条の光も見えないと投稿していました。
二千十年代にあるテレビ番組で時間は存在しないと主張する科学者が登場し、科学雑誌でも同様の主張をする科学者たちを特集しました。実は1990年代にドイツの科学者が時間が存在しない可能性について既に触れています。同じ番組で重力を否定する科学者が登場しています。
 これらを踏まえますと科学はまだ発展途上で科学革命が必要な段階だという主張は否定できないようです。

1980年代末にもう少しで最終方程式が手に入ると語ったホーキング博士は観測問題を考えると引き出しの銃に手が伸びると言ったそうです。

いわゆる哲学の分野ではピタゴラス学派と対立するパルメニデス哲学を擁護したゼノンの逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの理解困難な運動定義などが未解決問題としてあります。

 数学では不完全性定理が導いた決定不能という結論で何もかも理解不可能なのだとする人たちがいます。
そうだとしても理解不可能ということ自体は理解できるわけで、何もかもということではないのではないと思えます。
この決定不能とはどういうことなのかということは実はまだ判っていないのではとわたしは考えています。

 科学を含め現在の学問は未解決問題が山積しているわけです。
わたしは1994年に論理とは、を扱った「新哲学入門」を著した板倉聖宣氏と1996年に「ゼノン4つの逆理」を著した山川也氏の理解を手掛かりにしてこれらの問題に挑んでみることにします。
以下は試論であり検討して頂ければ幸いです。


    自然過程説の展開

 科学は対象である自然が無矛盾である、つまり理解可能であることが前提です。
 この視点から科学の歴史を振り返ってみます。
 地動説は特別だと理解されていた地球もまた天を運動する諸天体と変わらないと示しました。
 進化論は人間も諸生物の仲間であることを示します。諸生物の形態の差異はDNAの差異であり否定関係ではありません。
 光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止を否定します。自然の存在形態は運動であり無限です。
なぜなら静止という否定関係は対象には存在しないからです。
また<ここ>からが存在しないということは<ここ>までも存在しないということですから自然は無限であり、理解する対象に自然、非自然という否定関係が存在することをこの原理は否定します。
ディラックの海は真空がエネルギーの基底状態であり、自然は運動するエネルギーの濃淡であることを指し示します。
運動は自然の存在形態であり、静止は否定されますから無は存在しないのです。
運動するエネルギーの濃淡の反発親和を経て様々な物理状態が生成して行く過程として自然は有るということです。
ヘラクレイトスは万物は流転すると理解しました。人間も含めて自然はある物理状態からある物理状態に生成して行く過程として存在するというヘラクレイトスの理解を現代科学は裏付けます。

 ここで対象の規定の在り方を考えてみます。
<わたし>はあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては差異であるのですが否定関係ではありません。
物理としては同一ですが、非同一つまり否定関係で規定します。
エネルギーの濃淡としての差違を否定で規定します。
また<わたし>は誕生から現在に至るまで大きく運動変化していますしこの今も物理としては同一であることはありません。
物理としての<わたし>は対象として非同一として存在しますが同一の<わたし>と規定します。
宇宙は物理状態として同一であることはありませんが同一の<宇宙>と規定します。
(アガサ・クリスティはミス・マープルに「変われば変わるほど変わらない。変わらなければ変わらないほどますます変わる。」と語らせます。規定は否定だからです。)
 わたしたちは運動する対象を座標原点、つまり運動の否定、静止で規定、理解します。
光速度一定の原理が示すように自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
この自然をわたしたちはそのままでは認識できません。
<一>である自然は認識には<多>として現象します。
多として現象する物理状態の抽象として次元はあり自然に次元は存在しません。
自然には<ここ>から<ここ>までは存在しませんから、有限、粒子、最小単位、つまり形は存在しません。
これらは認識の在り方を媒介に現象する自然の像でありイコールの自然ではないのです。
認識器官という物理条件に生成した物理状態の像なのです。
0次元には大きさ、1次元には幅、2次元には厚み、3次元には運動が在りません。4次元は運動しない3次元の無限集合です。
次元は徹頭徹尾無なのです。
過去は過ぎ去り現在には幅が存在せず未来は未だ来ていません。
<現在>の正体は運動であり時間は運動量で理解する認識の在り方が要請する形式、次元であり存在しません。

対象である自然、つまり有をその否定である無で規定します。
運動を静止、つまり有を無で規定しますから0に限りなく近いが0ではないという不思議な規定になるわけです。(のちほど述べますが対象をその否定で規定しますから決定不能ということになります)
<現在>には幅がありませんがこのことも対象の否定で規定することの証左です。
<一>ではあるが差異である自然は認識の在り方から<多>として現象します。だから否定である<多>で規定するわけです。差異ではありますが<一>である自然を<多>という否定関係で規定しますからウイルスという分類困難な対象が出来したりします。
この問題は対象側にはなく規定すること自体の問題です。
生死もまた物理として存在しません。
わたしたちはある物理状態から生成してまた違う物理状態に生成する過程に存在します。
ある生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語りましたが、自然の運動変化の過程に存在しかつこの今に於いても同一であることはないからです。
それを同一として規定しますがウイルス同様に生死は規定の性格上分類困難なのです。生死という否定関係は物理として存在しないのです。
 ここで光速度一定の原理に戻ります。
この原理は座標原点つまり静止、<ここ>から<ここ>までが存在しないことを示します。
観測問題は海である自然、つまり波が渦の状態を呈しているということになり認識には粒子として現象します。
この理解は古代ギリシャ、近代英国科学者、現代ではブリゴジン学派がこの予想の下で実験を続けているとラーナーは記しています。
不確定性原理は運動を静止で、つまり有を無で規定するからで、その結果、測定は近似値になるしかありません。エネルギー保存則の破れが言われたりしますが測定は本質として近似ですからイコールということはありえませんし自然以外ないのですからどこにも行けないから物理として生滅はないのです。
自然は無矛盾であり規定することが様々な問題を引き起こすのですが、光速度一定の原理は絶対座標、つまり規定が自然に存在しないことで自然が無矛盾であることを示します。
対象の否定は当然対象には存在しません。
科学は認識に<多>として現象する自然を否定で規定することを明らかにして<一>として収斂して行く過程とも言えます。

 いわゆる数学の不完全性定理をもって自然は理解出来ないとする人たちがいますが、自然は無矛盾、つまり理解可能なのですが、それを否定で規定してその規定自身が対象の否定であると自己言及しますから決定不能になるとわたしは理解します。
このことを考察しましょう。

人間は自然の一部ですから科学は自然の自己言及ということになります。
一番身近な自己言及は<わたし>という表現です。
このことを言語学者である三浦つとむ氏が解明していますので紹介します。
わたしたちは地図を描く場合、頭の中、つまり観念の中で空中から街、日本、地球、銀河系を眺めて描くことが可能です。またミクロの世界も描けます。
古今東西、ドラマ、小説の主人公、また未来にも行
ったりできます。
三浦つとむ氏はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました。
<わたし>という表現は観念の中で物理としての自己を他者として認識します。
物理としての自己は観念の中では他者なのです。
<わたし>という表現は他者という否定で規定されているわけです。
では対象をその否定で規定するとどういうことになるのか考えてみます。
このことについて古代ギリシャは「クレタ人の逆説」を提出しています。
この逆説はクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというものです。
クレタ人が嘘つきだとクレタ人が真理を述べています。
つまり対象の否定で規定しています。
対象をその否定で規定して規定自身に自己言及しますから決定不能になります。
これは対象が無矛盾で理解可能であるからです。そして規定は<対象>の否定であるが故に様々な理解困難な問題を出来させるわけです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますがそれはまた静止で規定することを示します。
この原理は自然及び規定の自己言及という性格をもつ原理なのです。
つまり対象の否定で規定して規定の存在を否定することにより自然という対象が無矛盾であることを示します。
規定は否定です。
そして人間は自然の一部ですから自然理解は自己言及です。
 自然は無矛盾、理解可能であるが故に決定不能なのです。

ここでビッグバン仮説について考えてみます。
<はじめに>で述べましたようにこの仮説には決定的証拠はまだありません。
宇宙が膨張しているのならば端が観測されなければなりません。
インフレーション仮説はまだ証明されていません。
端が観測されていなければ無限だと理解しても良いわけです。
インターネットでは「ビッグバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビッグバンが起きているのか?」という投稿がありました。ボスロウはビッグバンは宇宙の片隅で起きたことかもしれないと「ビッグバン危うし」に記しました。
わたしはビッグバン仮説は科学の前提や法則に反していると考えています。
大前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定しています。そしてエネルギー保存則、つまり何も生まれない無くならないということを否定します。
また光速度一定の原理は絶対座標、つまり始まりを否定していますがこの仮説は始まりを想定しています。
ワインバークは約三十年前に宇宙の始まりまであとわずかに迫っていると語りましたがわたしは始まりは物理としては存在しないと理解しています。
物理として生死は存在しませんし宇宙には存在しないことはエネルギー保存則、光速度一定の原理が語ることです。
自然は無矛盾で理解可能でありエネルギー保存則、光速度一定の原理の枠内で理解する必要があるとわたしは考えています。
地球は静止して見えますがそうではありません。
観測結果をどう理解すべきなのか。
それは科学の諸前提を否定してはなりませんし、その枠内での理解は可能でしょう。

哲学の諸問題
ピタゴラス学派は自然は<多>であり数で出来ているとしましたがパルメニデスは<一>であるとしました。
ゼノンは師であるパルメニデスの主張を逆説で擁護しました
 「競技場の逆説」では自然が最小単位でできているのならその半分が存在することを、つまり最小単位は存在しないことを論証しました。
この論証を受けてピタゴラス学派は数には大きさが無いとします。
ゼノンは「二分の一の逆説」、「アキレスと亀の逆説」で数に大きさがなければ目的地に到達することもアキレスは亀を追い抜くことも出来ないと論証しました。
「飛ぶ矢の逆説」では空間が点で構成されていたら運動は不可能だと示しました。
 自然は<多>ではなく<一>なのです。
規定は否定ですから数で理解するのであり<一>である自然をその否定の<多>で規定するということです。
光速度一定の原理は座標原<点>の存在を否定してパルメニデスの理解を裏付けました。
カントの二律背反が意味することは対象とその規定の問題であり終始が存在しない自然を終始で規定するということです。
ヘーゲルは運動を存在すると同時にしないことと定義しましたが、これはクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説を踏まえています。
運動は存在するのですが存在するという規定が静止であることを飛ぶ矢の逆説は示しますから存在すると同時に存在しないことという定義になります。
つまり決定不能なのです。

科学が示す自然は無限であり運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で全ては生成して行きます。
進化論はその生物学的理解です。
万物は流転するとヘラクレイトスは理解します。

光速度一定の原理は、自然は無矛盾であり<一>と理解するパルメニデス哲学を裏付けます。
ピタゴラス、ルクレティウスの理解は認識の理論であり、クレタ人の逆説は対象を否定で規定するという論理の根幹を示し、ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反が必然であることとなります。
規定は<対象>の否定ですから対象である自然には存在しません。

自然は無矛盾です。

  とりあえず
No.5311   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/15(Tue) 17:22
個人的には光速度一定の原理が自然が無矛盾だと示していると理解している。
自然における静止の存在は否定している。
つまり無矛盾であり宇宙非宇宙という否定関係はありえない。
つまり無限。
次元も存在しない。
<ここ>からは無いから形は無い。
自然以外存在しないからエネルギーはどこにも消えないしまたどこからも来るということは無いから保存則は成立する。
物理として生死はない。 
無は有の否定、つまり規定。
無は無いから無 

  諸学問の結論
No.5310   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/15(Tue) 08:11
判りたくないことが判るということですか

  根源
No.5309   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/13(Sun) 09:47
規定が否定され理解可能だと証明される
逆説的です

あっ、有を無で規定して自己言及か
根幹として決定不能ですね

  望み
No.5308   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/12(Sat) 10:24
前にも書きましたが
わたしの到達点が次世代の出発点になればこれ以上のことはないわけですが

  最終校訂版?
No.5307   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/12(Sat) 09:57
    科学と認識の理論

   ~自然過程説の展開~

はじめに

 十九世紀末に光速度一定の原理という不可解な現象が観測されました。この現象は自然には絶対座標が存在しないことを示します。
二十世紀前半には観測問題、波であると共に粒子、つまり同一対象が物理条件は違いますが否定関係として現象するという理解困難な事象が確認されました。
自然が無矛盾でないと科学は成立しませんから光速度一定の原理と共に科学という知に衝撃を与えた発見となりました。
今日に至るまでこの問題はどう理解したら良いのか解決に至っていません。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだということになりましたが、その後この観測結果は違う理解が可能だとしてある天文学者が論文を発表して、この観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
 これを記事にしたマスコミは十九世紀に火星に運河を発見したアメリカの天文学者と同じ過ちかもしれないと記しました。
科学史を振り返りますと天動説を典型に科学者たちが発見観測した対象を理解しないことは多々あります。
酸素を発見した科学者はそれが信奉するフロギストン学説を否定していると知ることは最期までありませんでした。
これらのことで判るように宇宙論には未だに決定的な理論は無いのです。

1970年代に物理学者ハイゼンベルク、武谷三男氏は現代科学の在り方に疑問を投げかけました。
1990年代にはプラズマ宇宙論者の一人であるラーナーは科学革命が必要だと語り、また二人の日本の科学者が新しい見方が必要な段階だとある本に記しました。
二十一世紀に入り日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に立花隆氏が量子力学には新しい理論が必要だとテレビ番組で語り、またインターネットでは研究関係者らしき人が一条の光も見えないと投稿していました。
二千十年代にあるテレビ番組では時間は存在しないと主張する科学者が登場し、科学雑誌でも同様の主張をする科学者たちを特集しました。実は1990年代にはドイツの科学者が時間が存在しない可能性について既に触れています。同じ番組で重力を否定する科学者が登場しました。
 これらを踏まえますと科学はまだ発展途上で科学革命が必要な段階だという主張は否定できないようです。

1980年代末にもう少しで最終方程式が手に入ると語ったホーキング博士は観測問題を考えると引き出しの銃に手が伸びると言ったそうです。

いわゆる哲学の分野ではピタゴラス学派と対立するパルメニデス哲学を擁護したゼノンの逆説、その他カントの二律背反、ヘーゲルの理解困難な運動定義が未解決問題としてあります。

 数学では不完全性定理が導いた決定不能という結論で何もかも理解不可能なのだとする人たちがいます。
そうだとしても理解不可能ということ自体は理解できるわけで、何もかもということではないのではないと思えます。
この決定不能とはどういうことなのかは実はまだ判っていないのではとわたしは考えています。

 つまり科学を含め学問は未解決問題が山積しているわけです。
わたしは1994年に論理とはを扱った「新哲学入門」を著した板倉聖宣氏と1996年に「ゼノン4つの逆理の」を著した山川也氏の理解を手掛かりにしてこれらの問題に挑んでみることにします。
以下は試論であり検討して頂ければ幸いです。


自然過程説の展開

 科学は対象である自然が無矛盾である、つまり理解可能であることが前提です。
 この視点から科学の歴史を振り返ってみます。
 地動説は特別だと理解されていた地球もまた天を運動する諸天体と変わらない存在だと示します。
 進化論は人間もまた諸生物の仲間であることを示します。諸生物の形態の差異はDNAの差異であり否定関係ではありません。
 光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止を否定します。自然の存在形態は運動、そして無限です。
なぜなら静止という否定関係は自然には存在しないからです。
ディラックの海は真空がエネルギーの基底状態であり、自然は運動するエネルギーの濃淡であることを指し示します。
無は存在しないのです。
運動するエネルギーの濃淡の反発親和の過程を経て様々な物理状態が生成して行くということです。
ヘラクレイトスは万物は流転すると理解しました。人間も含めて自然はある物理状態からある物理状態に生成して行く過程として存在するというヘラクレイトスの理解を現代科学は裏付けます。

 ここで対象の規定の在り方を考えてみます。
<わたし>はあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては差異であるのですが否定関係ではありません。
物理としては同一ですが、非同一つまり否定関係で規定します。
エネルギーの濃淡としての差違を否定で規定します。
また<わたし>は誕生から現在に至るまで大きく運動変化していますがこの今も物理としては同一であることはありません。
物理としての<わたし>は対象として非同一として存在しますが同一の<わたし>と規定します。
宇宙は物理として同一であることはありませんが同一の<宇宙>と規定します。
(アガサ・クリスティはミス・マープルに「変われば変わるほど変わらない。変わらなければ変わらないほどますます変わる」と語らせます。規定は否定だからです。)
 わたしたちは運動する対象を座標原点、つまり運動の否定、静止で規定、理解します。
光速度一定の原理が示すように自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
自然をわたしたちはそのままでは認識できません。
<一>である自然は認識には<多>として現象します。
多として現象する物理状態の抽象として次元はあり自然に次元は存在しません。
自然には<ここ>から<ここ>までは存在しませんから、有限、粒子、最小単位、つまり形は存在しません。
それは認識の在り方を媒介に現象する自然の像でありイコールの自然ではないのです。
認識器官という物理条件に生成した物理状態の像なのです。
0次元には大きさ、1次元には幅、2次元には厚み、3次元には運動が在りません。4次元は運動しない3次元の無限集合です。
次元は徹頭徹尾無なのです。
過去は過ぎ去り現在には幅が存在せず未来は未だ来ていません。
<現在>の正体は運動であり時間は運動量で理解する認識の在り方が要請する形式、次元であり存在しません。

対象である自然、つまり有をその否定である無で規定します。
運動を静止、つまり有を無で規定しますから0に限りなく近いが0ではないという不思議な規定になるわけです。(のちほど述べますが対象をその否定で規定しますから決定不能ということになります)
<現在>には幅がありませんがこのことも対象の否定で規定することの証左です。
<一>ではあるが差異である自然は認識の在り方から<多>として現象します。だから否定である<多>で規定するわけです。差異ではありますが<一>である自然を<多>という否定関係で規定しますからウイルスという分類困難な対象が出来したりします。
この問題は対象側にはなく規定すること自体の問題です。
生死もまた物理として存在しません。
わたしたちはある物理状態から生成してまた違う物理状態に生成する過程として存在します。
ある生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語りましたが、自然の運動変化の過程に存在しますからこの今に於いても同一であることはないからです。
それを同一として規定しますがウイルス同様に生死は規定の性格上分類困難なのです。生死という否定関係は物理として存在しないのです。
 ここで光速度一定の原理に戻ります。
この原理は座標原点つまり静止、<ここ>から<ここ>までは存在しないことを示します。
観測問題は海である自然、つまり波が渦の状態を呈しているということになり認識には粒子として現象します。
不確定性原理は運動を静止で測定、つまり有を無で規定するからで、その結果、測定は近似値になるしかありません。エネルギー保存則の破れが言われますが測定は本質として近似ですからイコールということはありえませんし自然以外ないのですからどこにも行けないから物理として生滅はないのです。
自然は無矛盾であり規定することが様々な問題を引き起こすのですが、光速度一定の原理は規定が自然に存在しないことで自然が無矛盾であることを示します。
対象の否定は当然対象には存在しません。
科学は認識に<多>として現象する自然を否定で規定することを明らかにして<一>として収斂して行く過程とも言えます。

 いわゆる数学の不完全性定理をもって自然は理解出来ないとする人たちがいますが、自然は無矛盾、つまり理解可能なのですが、それを否定で規定してその規定自身が対象の否定であると自己言及しますから決定不能になるとわたしは理解します。
このことを考察しましょう。

人間は自然の一部ですから科学は自然の自己言及ということになります。
一番身近な自己言及は<わたし>という表現です。
このことを言語学者である三浦つとむ氏が解明していますので紹介します。
わたしたちは地図を描く場合、頭の中、つまり観念の中で空中から眺めて街、日本、地球、銀河系を描けるわけです。またミクロの世界も描けます。
古今東西の世界、ドラマ、小説の主人公、また未来にも行ったりできます。
三浦つとむ氏はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました。
<わたし>という表現は観念の中で物理としての自己を他者として認識します。
物理としての自己は観念の中では他者なのです。
<わたし>という表現は他者という否定で規定されているわけです。
では対象をその否定で規定するとどういうことになるのか考えてみます。
このことについて古代ギリシャは「クレタ人の逆説」を提出しています。
この逆説はクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというものです。
クレタ人が嘘つきだとクレタ人が真理を述べています。
つまり対象の否定で規定しています。
対象をその否定で規定して規定自身を自己言及しますから決定不能になります。
これは対象が無矛盾で理解可能であるからです。そして規定は<対象>の否定であるが故に様々な理解困難な問題を出来させるわけです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますが同時に静止で規定することを示します。
この原理は自然及び規定の自己言及という性格をもつ原理なのです。
つまり対象の否定で規定して規定の存在を否定することにより自然という対象が無矛盾であることを示します。
規定は否定です。
そして人間は自然の一部ですから自然理解は自己言及です。
 自然は無矛盾、理解可能であるが故に決定不能なのです。

ここでビッグバン仮説について考えてみます。
<はじめに>で述べましたようにこの仮説には決定的証拠はまだありません。
宇宙が膨張しているのならば端が観測されなければなりません。
インフレーション仮説はまだ証明されていません。
端が観測されていなければ無限だと理解しても良いわけです。
インターネットでは「ビッグバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビッグバンが起きているのか?」という投稿がありました。ボスロウはビッグバンは宇宙の片隅で起きたことかもしれないと「ビッグバン危うし」に記しました。
わたしはビッグバン仮説は科学の前提や法則に反していると考えています。
大前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定しています。そしてエネルギー保存則、つまり何も生まれない無くならないということを否定します。
また光速度一定の原理は絶対座標、つまり始まりを否定していますがこの仮説は始まりを想定しています。
ワインバークは約三十年前に始まりまであとわずかに迫っていると語りましたがわたしは始まりは物理としては存在しないと理解しています。
物理として生死は存在しませんし宇宙にも存在しないことはエネルギー保存則、光速度一定の原理が語ることです。
自然は無矛盾で理解可能でありエネルギー保存則、光速度一定の原理の枠内で理解する必要があると考えています。
地球は静止して見えますがそうではありません。
観測結果をどう理解すべきなのか。
それは科学の諸前提を否定してはなりませんし、その枠内での理解は可能でしょう。

哲学の諸問題
ピタゴラス学派は自然は<多>であり数で出来ているとしましたがパルメニデスは<一>であるとしました。
ゼノンは師であるパルメニデスの主張を逆説で擁護しました
 「競技場の逆説」では自然が最小単位でできているのならその半分が存在することを、つまり最小単位は存在しないことを論証しました。
この論証を受けてピタゴラス学派は数には大きさが無いとします。
ゼノンは「二分の一の逆説」、「アキレスと亀の逆説」で数に大きさがなければ目的地に到達することもアキレスは亀を追い抜くことも出来ないと論証しました。
「飛ぶ矢の逆説」では空間が点で構成されていたら運動は不可能だと示しました。
 自然は<多>ではなく<一>なのです。
規定は否定ですから数で理解するのであり<一>である自然をその否定の<多>で規定するということです。
光速度一定の原理は座標原<点>の存在を否定してパルメニデスの理解を裏付けました。
カントの二律背反が意味することは対象とその規定の問題であり終始が存在しない自然を終始で規定するということです。
ヘーゲルは運動を存在しないと同時にしないことと定義しましたが、これはクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説を踏まえています。
運動は存在するのですが存在するという規定が静止であることを飛ぶ矢の逆説は示しますから存在すると同時に存在しないことという定義になります。
つまり決定不能なのです。

科学が示す自然は無限であり運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で全ては生成して行きます。
進化論はその生物学的理解です。
万物は流転するとヘラクレイトスは理解します。

光速度一定の原理は、自然は無矛盾であり<一>と理解するパルメニデス哲学を裏付けます。
ピタゴラス、ルクレティウスの理解は認識の理論であり、クレタ人の逆説は対象を否定で規定するという論理の根幹を示し、ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反が必然であることとなります。
規定は<対象>の否定ですから対象である自然には存在しません。

自然は運動するエネルギーの濃淡の濃淡の海であり反発親和して様々な物理状態(=濃淡)を生成する過程です。

自然は無矛盾です。

  いや
No.5306   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/11(Fri) 18:47
最後にしたいんですが

タレブ等の指し示す道は知の改革に繋がるかも知れないですがまだわかりません
いや面白いんですが

  とりあえず 明日また改訂かも
No.5305   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/11(Fri) 18:44
    科学と認識の理論

   ~自然過程説の展開~

はじめに

 十九世紀末に光速度一定の原理という不可解な現象が観測されました。この現象は自然には絶対座標が存在しないことを示します。
二十世紀前半には観測問題、波であると共に粒子、つまり同一対象が否定関係として現象するという理解困難な事象が確認されました。
自然が無矛盾でないと科学は成立しませんから光速度一定の原理と共に科学という知に衝撃を与えた発見となりました。
今日に至るまでこの問題はどう理解したら良いのか解決に至っていません。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだということになりましたが、その後この観測結果は違う理解が可能だとしてある天文学者が論文を発表して、この観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
 これを記事にしたマスコミは十九世紀に火星に運河を発見したアメリカの天文学者と同じ過ちかもしれないと記しました。
科学史を振り返りますと天動説を典型に科学者たちが発見観測した対象を理解しないことは多々あります。
酸素を発見した科学者はそれが信奉するフロギストン学説を否定していると知ることは最期までありませんでした。
これらのことで判るように宇宙論には未だに決定的な理論は無いのです。

1970年代に物理学者ハイゼンベルク、武谷三男氏は現代科学の在り方に疑問を投げかけました。
1990年代にはプラズマ宇宙論者の一人であるラーナーは科学革命が必要だと語り、また二人の日本の科学者が新しい見方が必要な段階だとある本に記しました。
二十一世紀に入り日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に立花隆氏が量子力学には新しい理論が必要だとテレビ番組で語り、またインターネットでは研究関係者らしき人が一条の光も見えないと投稿していました。
二千十年代にあるテレビ番組では時間は存在しないと主張する科学者が登場し、科学雑誌でも同様の主張をする科学者たちを特集しました。実は1990年代にはドイツの科学者が時間が存在しない可能性について既に触れています。同じ番組では重力を否定する科学者が登場しました。
 これらを踏まえますと科学はまだ発展途上で科学革命が必要な段階だという主張は否定できません。

1980年代末にもう少しで最終方程式が手に入ると語ったホーキング博士は観測問題を考えると引き出しの銃に手が伸びると言ったそうです。

いわゆる哲学の分野ではピタゴラス学派へと対立するパルメニデス哲学を擁護したゼノンの逆説、その他カントの二律背反、ヘーゲルの理解困難な運動定義が未解決問題としてあります。

 数学では不完全性定理が導いた決定不能という結論で何もかも理解不可能なのだとする人たちがいます。
そうだとしても理解不可能ということは理解できるわけで、何もかもということではないのではないと思えます。
この決定不能とはどういうことなのかは実はまだ判っていないのではとわたしは考えています。

 つまり科学を含め学問は未解決問題が山積しているわけです。
わたしは1994年に論理とはを扱った「新哲学入門」を著した板倉聖宣氏と1996年に「ゼノン4つの逆理の」を著した山川也氏の理解を手掛かりにしてこれらの問題に挑んでみることにします。
以下は試論であり検討して頂ければ幸いです。


自然過程説の展開

 科学は対象である自然が無矛盾である、つまり理解可能であることが前提です。
 この視点から科学の歴史を振り返ってみます。
 地動説は特別だと理解されていた地球もまた天を運動する諸天体と変わらない存在だと示します。
 進化論は人間もまた諸生物の仲間であることを示します。諸生物の形態の差異はDNAの差異であり否定関係ではありません。
 光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止を否定します。自然の存在形態は運動、つまり無限です。
なぜなら静止という否定関係は自然には存在しないからです。
ディラックの海は真空がエネルギーの基底状態であり、自然は運動するエネルギーの濃淡であることを指示します。
無は存在しないのです。
運動するエネルギーの濃淡の反発親和の過程を経て様々な物理状態が生成して行くということです。
ヘラクレイトスは万物は流転すると理解しました。人間も含めて自然はある物理状態からある物理状態に生成して行く過程として存在するというヘラクレイトスの理解を現代科学は裏付けます。

 ここで対象の規定の在り方を考えてみます。
<わたし>はあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては差異であるのですが否定関係ではありません。
物理としては同一ですが、非同一つまり否定関係で規定します。
エネルギーの濃淡としての差違を否定で規定します。
また<わたし>は誕生から現在に至るまで大きく運動変化していますがこの今も物理としては同一であることはありません。
物理としての<わたし>は対象として非同一として存在しますが同一として規定します。
宇宙は物理として同一であることはありませんが同一の<宇宙>と規定します。
(アガサ・クリスティはミス・マープルに「変われば変わるほど変わらない。変わらなければ変わらないほどますます変わる」と語らせます。規定は否定だからです。)
 わたしたちは運動する対象を座標原点、つまり運動の否定、静止で規定、理解します。
光速度一定の原理が示すように自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
自然をわたしたちはそのままでは認識できません。
<一>である自然は認識には<多>として現象します。
多として現象する物理状態の抽象として次元はあり自然に次元は存在しません。
自然には<ここ>から<ここ>までは存在しませんから、有限、粒子、最小単位、つまり形は存在しません。
それは認識の在り方を媒介に現象する自然の像でありイコールの自然ではないのです。
認識器官という物理条件に生成した物理状態の像なのです。
0次元には大きさ、1次元には幅、2次元には厚み、3次元には運動が在りません。4次元は運動しない3次元の無限集合です。
次元は徹頭徹尾無なのです。
過去は過ぎ去り現在には幅が存在せず未来は未だ来ていません。
<現在>の正体は運動であり時間は運動量で理解する認識の在り方が必要な形式、次元であり存在しません。

対象である自然、つまり有をその否定である無で規定します。
運動を静止、つまり有を無で規定しますから0に限りなく近いが0ではないという不思議な規定になるわけです。(のちほど述べますが対象をその否定で規定しますから決定不能ということになります)
<現在>には幅がありませんがこのことも対象の否定で規定することの証左です。
<一>ではあるが差異である自然は認識の在り方から<多>として現象します。だから否定である<多>で規定するわけです。差異ではありますが<一>である自然を<多>という否定関係で規定しますからウイルスという分類困難な対象が出来します。
この問題は対象側にはなく規定すること自体の問題です。
生死もまた物理として存在しません。
わたしたちはある物理状態から生成してまた違う物理状態に生成する過程として存在します。
ある生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語りましたが、自然の運動変化の過程に存在しますからこの今に於いても同一であることはないからです。
それを同一として規定しますがウイルス同様に生死は規定の性格上分類困難なのです。それに生死という否定関係は物理として存在しないのです。
 ここで光速度一定の原理に戻ります。
この原理は座標原点つまり静止、<ここ>から<ここ>までは存在しないことを示します。
観測問題は海である自然、つまり波が渦の状態を呈しているということになり認識には粒子として現象します。
不確定性原理は運動を静止で測定、つまり有を無で規定するからで、その結果、測定は近似値になるしかありません。
自然は無矛盾であり規定することが様々な問題を引き起こしますが、この原理は規定が自然に存在しないことで自然が無矛盾であることを示します。
対象の否定は当然ですが対象には存在しません。
科学は認識に<多>として現象する自然を否定で規定することを明らかにして<一>として認識、収斂して行く過程とも言えます。

 いわゆる数学の不完全性定理をもって自然は理解出来ないとする人たちがいますが、自然は無矛盾、つまり理解可能なのですが、それを否定で規定してその規定自身が対象の否定であると自己言及しますから決定不能になるとわたしは理解します。
このことを考察しましょう。

人間は自然の一部ですから科学は自然の自己言及ということになります。
一番身近な自己言及は<わたし>という表現です。
このことを言語学者である三浦つとむ氏が解明していますので紹介します。
わたしたちは地図を描く場合、頭の中、つまり観念の中で空中から眺めて街、日本、地球、銀河系を描けるわけです。またミクロの世界も描けます。
古今東西の世界、ドラマ、小説の主人公、また未来にも行ったりできます。
三浦つとむ氏はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました。
<わたし>という表現は観念の中で物理としての自己を他者として認識します。
物理としての自己は観念の中では他者なのです。
<わたし>という表現は他者という否定で規定されているわけです。
では対象をその否定で規定するとどういうことになるのか考えてみます。
このことについて古代ギリシャは「クレタ人の逆説」を提出しています。
この逆説はクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというものです。
クレタ人が嘘つきだとクレタ人が真理を述べています。
つまり対象の否定で規定しています。
対象をその否定で規定して規定自身を自己言及しますから決定不能になります。
これは対象が無矛盾で理解可能であるからです。そして規定は<対象>の否定であるが故に様々な理解困難な問題を出来させるわけです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますが同時に静止で規定することを示します。
この原理は自然及び規定の自己言及という性格をもつ原理なのです。
つまり対象の否定で規定して規定の存在を否定することにより自然という対象が無矛盾であることを示します。
規定は否定です。
そして人間は自然の一部ですから自然理解は自己言及です。
 自然は無矛盾、理解可能であるが故に決定不能なのです。

ここでビッグバン仮説について考えてみます。
<はじめに>で述べましたようにこの仮説には決定的証拠はまだありません。
宇宙が膨張しているのならば端が観測されなければなりません。
インフレーション仮説はまだ証明されていません。
端が観測されていなければ無限だと理解しても良いわけです。
インターネットでは「ビッグバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビッグバンが起きているのか?」という投稿がありました。ボスロウはビッグバンは宇宙の片隅で起きたことかもしれないと「ビッグバン危うし」に記しました。
わたしはビッグバン仮説は科学の前提や法則に反していると考えています。
大前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定しています。そしてエネルギー保存則、つまり何も生まれない無くならないということを否定します。
また光速度一定の原理は絶対座標、つまり始まりを否定していますがこの仮説は始まりを想定しています。
ワインバークは約三十年前に始まりまであとわずかに迫っていると語りましたがわたしは始まりは物理としては存在しないと理解しています。
物理として生死は存在しませんし宇宙にも存在しないことはエネルギー保存則、光速度一定の原理が語ることです。
自然は無矛盾で理解可能でありエネルギー保存則、光速度一定の原理の枠内で理解する必要があると考えています。
地球は静止して見えますがそうではありません。
観測結果をどう理解すべきなのか。
それは科学の諸前提を否定してはなりませんし、その枠内での理解は可能でしょう。

哲学の諸問題
ピタゴラス学派は自然は<多>であり数で出来ているとしましたがパルメニデスは<一>であるとしました。
ゼノンは師であるパルメニデスの主張を逆説で擁護しました
 「競技場の逆説」では自然が最小単位でできているのならその半分が存在することを、つまり最小単位は存在しないことを論証しました。
この論証を受けてピタゴラス学派は数には大きさが無いとします。
ゼノンは「二分の一の逆説」、「アキレスと亀の逆説」で数に大きさがなければ目的地に到達することもアキレスは亀を追い抜くことも出来ないと論証しました。
「飛ぶ矢の逆説」では空間が点で構成されていたら運動は不可能だと示しました。
 自然は<多>ではなく<一>なのです。
規定は否定ですから数で理解するのであり<一>である自然をその否定の<多>で規定するということです。
光速度一定の原理は座標原<点>の存在を否定してパルメニデスの理解を裏付けました。
カントの二律背反が意味することは対象とその規定の問題であり終始が存在しない自然を終始で規定するということです。
ヘーゲルは運動を存在しないと同時にしないことと定義しましたが、これはクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説を踏まえています。
運動は存在するのですが存在するという規定が静止であることを飛ぶ矢の逆説は示しますから存在すると同時に存在しないことという定義になります。
つまり決定不能なのです。

科学が示す自然は無限であり運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で全ては生成して行きます。
進化論はその生物学的理解です。
万物は流転するとヘラクレイトスは理解します。

光速度一定の原理は、自然は無矛盾であり<一>と理解するパルメニデス哲学を裏付けます。
ピタゴラス、ルクレティウスの理解は認識の理論であり、クレタ人の逆説は対象を否定で規定するという論理の根幹を示し、ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反が必然であることとなります。
規定は<対象>の否定ですから対象である自然には存在しません。

自然は運動するエネルギーの濃淡の濃淡の海であり反発親和して様々な物理状態を生成する過程です。

自然は無矛盾なのです。

  細部を校訂しました
No.5304   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/11(Fri) 15:26
    科学と認識の理論

   ~自然過程説の展開~

はじめに

 十九世紀末に光速度一定の原理という不可解な現象が観測されました。この現象は自然には絶対座標が存在しないことを示します。
二十世紀前半には観測問題、波であると共に粒子、つまり同一対象が否定関係として現象するという理解困難な事象が確認されました。
自然が無矛盾でないと科学は成立しませんから光速度一定の原理と共に知に衝撃を与えた発見となりました。
今日に至るまでこの問題はどう理解したら良いのか解決に至っていません。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだということになりました。
しかしこの観測結果は違う理解が可能だとしてある天文学者が論文を発表して、この観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
 これを記事にしたマスコミは十九世紀に火星に運河を発見したアメリカの天文学者と同じ過ちかもしれないと記しました。
科学史を振り返りますと天動説を典型に科学者たちが発見観測した対象を理解しないことは多々あります。
酸素を発見した科学者はそれがフロギストン学説を否定していると最期まで知ることはありませんでした。
これらのことで判るように宇宙論には未だに決定的な理論は無いのです。

1970年代に物理学者ハイゼンベルク、武谷三男氏は現代科学の在り方に疑問を投げかけました。
1990年代にはプラズマ宇宙論者の一人であるラーナーは科学革命が必要だと語り、また二人の日本の科学者が新しい見方が必要な段階だとある本に記しました。
二十一世紀に入り日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に立花隆氏が量子力学には新しい理論が必要だとテレビ番組で語り、またインターネットでは研究関係者らしき人が一条の光も見えないと投稿していました。
二千十年代にあるテレビ番組では時間は存在しないと主張する科学者が登場し、雑誌でも同様の主張をする科学者たちを特集しました。実は1990年代にはドイツの科学者が時間が存在しない可能性について既に触れています。同じ番組では重力を否定する科学者も登場しました。
 これらを踏まえますと科学はまだ発展途上で科学革命が必要な段階だという主張は否定できません。

1980年代末にもう少しで最終方程式が手に入ると語ったホーキング博士は観測問題を考えると引き出しの銃に手が伸びると言ったそうです。

いわゆる哲学の分野ではピタゴラス学派への批判としてのパルメニデス哲学を擁護したゼノンの逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの理解困難な運動定義が未解決問題としてあります。

 数学では不完全性定理が導いた決定不能という結論で何もかも理解不可能なのだとする人たちがいます。
そうだとしても理解不可能ということは理解できるわけで、何もかもということではないのではないと思えます。

 つまり科学を含め学問は未解決問題が山積しているわけです。
わたしは1994年「新哲学入門」を著した板倉聖宣氏と1996年に「ゼノン4つの逆理の」を著した山川也氏の理解を手掛かりにしてこれらの問題に挑んでみることにします。
以下は試論であり検討して頂けれが幸いです。


自然過程説の展開

 科学は対象である自然が無矛盾である、つまり理解可能であることが前提です。
 この視点から科学の歴史を振り返ってみます。
 地動説は特別だと理解されていた地球もまた天を運動する諸天体と変わらない存在だと示します。
 進化論は人間もまた諸生物の仲間であることを示します。諸生物の形態の差異はDNAの差異であり否定関係ではありません。
 光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止を否定します。自然の存在形態は運動、つまり無限です。
なぜなら静止という否定関係は自然には存在しないからです。
ディラックの海は真空がエネルギーの基底状態であり、自然は運動するエネルギーの濃淡であることを指示します。
エネルギーの濃淡の反発親和の過程を経て様々な物理状態が生成して行くということです。
ヘラクレイトスは万物は流転すると理解しました。人間も含めて自然はある物理状態からある物理状態に生成して行く過程として存在するというヘラクレイトスの理解を現代科学は裏付けます。

 ここで対象の規定の在り方を考えてみます。
わたしはあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては差異であるのですが否定関係ではありません。
物理としては同一ですが、非同一つまり否定関係で規定します。
エネルギーの濃淡としての差違を否定で規定します。
またわたしは誕生から現在に至るまで大きく運動変化していますがこの今も物理としては同一であることはありません。
対象は非同一として存在しますが同一として規定します。
宇宙は物理として同一であることはありませんが同一の<宇宙>と規定します。
(アガサ・クリスティはミス・マープルに「変われば変わるほど変わらない。変わらなければ変わらないほどますます変わる」と語らせます。規定は否定だからです。)
 わたしたちは運動する対象を座標原点、つまり運動の否定、静止で規定、理解します。
光速度一定の原理が示すように自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
自然をわたしたちはそのままでは認識できません。
<一>である自然は認識には<多>として現象します。
多として現象する物理状態の抽象として次元はあり自然には存在しません。
自然には<ここ>から<ここ>までは存在しませんから、有限、粒子、最小単位、つまり形は存在しません。
それは認識の在り方を媒介に現象する自然の像でありイコールの自然ではないのです。
認識器官という物理条件に生成した物理状態の像なのです。
0次元には大きさ、1次元には幅、2次元には厚み、3次元には運動が在りません。4次元は運動しない3次元の無限集合です。
次元は徹頭徹尾無なのです。
過去は過ぎ去り現在には幅が存在せず未来は未だ来ていません。
<現在>の正体は運動であり時間は運動量で理解する認識の在り方が必要な形式、次元で存在しません。

対象である自然、つまり有をその否定である無で規定します。
運動を静止、つまり有を無で規定しますから0に限りなく近いが0ではないという不思議な規定になるわけです。
<現在>には幅がありませんがこのことも対象の否定で規定することの証左です。
<一>ではあるが差異である自然は認識の在り方から<多>として現象します。だから否定である<多>で規定するわけです。差異ではありますが<一>である自然を<多>という否定関係で規定しますからウイルスという分類困難な対象が出来します。
この問題は対象側にはなく規定することの問題です。
生死もまた物理として存在しません。
わたしたちはある物理状態から生成してまた違う物理状態に生成する過程として存在します。
ある生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語りましたが、自然の運動変化の過程に存在しますからこの今に於いても同一であることはないからです。
それを同一として規定しますがウイルス同様に生死は規定の性格上分類困難なのです。それに生死というは否定関係は物理として存在しないのです。
 ここで光速度一定の原理に戻ります。
この原理は座標原点つまり静止、<ここ>から<ここ>までは存在しないことを示します。
観測問題は海である自然、つまり波が渦の状態を呈しているということになり認識には粒子として現象します。
不確定性原理は運動を静止で測定、つまり有を無で規定するからで、その結果測定は近似値になるしかありません。
自然は無矛盾であり規定することが様々な問題を引き起こしますが、この原理は規定が自然に存在しないことで自然が無矛盾であることを示します。
対象の否定は当然ですが対象には存在しません。
科学は認識に<多>として現象する自然を否定で規定することを明らかにして<一>として認識、収斂して行く過程とも言えます。

 いわゆる数学の不完全性定理をもって自然は理解出来ないとする人たちがいますが、自然は無矛盾、つまり理解可能なのですが、それを否定で規定するから決定不能になるとわたしは理解します。
このことを考察しましょう。

人間は自然の一部ですから科学は自然の自己言及ということになります。
一番身近な自己言及は<わたし>という表現です。
このことを言語学者である三浦つとむ氏が解明していますので紹介します。
わたしたちは地図を描く場合、頭の中、つまり観念の中で空中から眺めて街、日本、地球、銀河系を描けるわけです。またミクロの世界も描けます。
古今東西の世界、ドラマ、小説の主人公、また未来にも行ったりできます。
三浦つとむ氏はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました。
<わたし>という表現は観念の中で物理としての自己を他者として認識します。
物理としての自己は観念の中では他者なのです。
<わたし>という表現は他者という否定で規定されているわけです。
では対象をその否定で規定するとどういうことになるのか考えてみます。
このことについて古代ギリシャは「クレタ人の逆説」を提出しています。
この逆説はクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというものです。
クレタ人が嘘つきだとクレタ人が真理を述べています。
つまり対象の否定で規定しています。
対象をその否定で規定しますから決定不能になります。
これは対象が無矛盾で理解可能であるからです。規定は<対象>の否定であるが故に様々な理解困難な問題を出来させるわけです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますが同時に静止で規定することを示します。
つまり対象の否定で規定して規定の存在を否定することにより自然という対象が無矛盾であることを示します。
規定は否定です。
そして人間は自然の一部ですから自然理解は自己言及です。
 自然は理解可能であるが故に決定不能なのです。

ここでビッグバン仮説について考えてみます。
<はじめに>で述べましたようにこの仮説には決定的証拠はまだありません。
宇宙が膨張しているのならば端が観測されなければなりません。
インフレーション仮説はまだ証明されていません。
端が観測されていなければ無限だと理解しても良いわけです。
インターネットでは「ビッグバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビッグバンが起きているのか?」という投稿がありました。ボスロウはビッグバンは宇宙の片隅で起きたことかもしれないと「ビッグバン危うし」に記しました。
わたしはビッグバン仮説は科学の前提や法則に反していると考えています。
大前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定しています。そしてエネルギー保存則、つまり何も生まれない無くならないということを否定します。
また光速度一定の原理は絶対座標、つまり始まりを否定していますがこの仮説は始まりを想定しています。
ワインバークは約三十年前に始まりまであとわずかに迫っていると語りましたがわたしは始まりは物理としては存在しないと理解しています。
物理として生死は存在しませんし宇宙にも存在しないことはエネルギー保存則、光速度一定の原理が語ることです。
自然は無矛盾で理解可能でありエネルギー保存則、光速度一定の原理の枠内で理解する必要があると考えています。
地球は静止して見えますがそうではありません。
観測結果をどう理解すべきなのか。
それは科学の諸前提を否定してはなりませんし、その枠内での理解は可能でしょう。

哲学の諸問題
ピタゴラス学派は自然は<多>であり数で出来ているとしましたがパルメニデスは<一>であるとしました。
ゼノンは師であるパルメニデスの主張を逆説で擁護しました
 「競技場の逆説」ではた自然が最小単位でできているのならその半分が存在することを、つまり最小単位は存在しないことを論証しました。
この論証を受けてピタゴラス学派は数には大きさが無いとします。
ゼノンは「二分の一の逆説」、「アキレスと亀の逆説」で数に大きさがなければ目的地に到達することもアキレスは亀を追い抜くことも出来ないと論証しました。
「飛ぶ矢の逆説」では空間が点で構成されていたら運動は不可能だと示しました。
 自然は<多>ではなく<一>なのです。
規定は否定ですから数で理解するのであり<一>である自然をその否定の<多>で規定するということです。
光速度一定の原理は座標原<点>の存在を否定してパルメニデスの理解を裏付けました。
カントの二律背反が意味することは対象とその規定の問題であり終始が存在しない自然を終始で規定するということです。
ヘーゲルは運動を存在しないと同時にしないことと定義しましたが、これはクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説を踏まえています。
運動は存在するのですが存在するという規定が静止であることを飛ぶ矢の逆説は示しますから存在すると同時に存在しないことという定義になります。
つまり決定不能なのです。

科学が示す自然は無限であり運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で全ては生成して行きます。
進化論はその生物学的理解です。
万物は流転するとヘラクレイトスは理解します。

光速度一定の原理は、自然は無矛盾であり<一>と理解するパルメニデス哲学を裏付けます。
ピタゴラス、ルクレティウスの理解は認識の理論であり、クレタ人の逆説は対象を否定で規定するという論理の根幹を示し、ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反が必然であることとなります。
規定は<対象>の否定ですから対象である自然には存在しません。

自然は運動するエネルギーの濃淡の濃淡の海であり反発親和して様々な物理状態を生成する過程です。

自然は無矛盾なのです。

  パルメニデス
No.5303   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/11(Fri) 07:05
西洋はまだピタゴラス、ルクレティウスっていう認識論にとどまっています。
わたしは三浦、板倉、山川氏の存在を日本のアドバンテージだと理解しています。

  無題
No.5302   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/10(Thu) 18:58
泥濘(ぬかるみ)ぞ
ですか
違和感があり調べました

「討匪行(とうひこう)」聴きたくなりました
加藤登紀子版で聴きました

  いつまで続く糠溝路
No.5301   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/10(Thu) 18:52
半世紀粘りました
まだ続くかもしれないですが
わたしが生きた証です

  改訂版です
No.5300   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/10(Thu) 18:48
    科学と認識の理論

   ~自然過程説の展開~

はじめに

 十九世紀末に光速度一定の原理という不可解な現象が観測されました。この現象は自然には絶対座標が存在しないことを示します。このことは静止、つまり運動の否定が存在しないことを導きます。
二十世紀前半には観測問題、つまり波と共に粒子、つまり同一対象が否定関係として現象するという理解困難な事象が確認されました。
自然が無矛盾でないと科学は成立しませんから光速度一定の原理と共に知に衝撃を与えた発見となりました。
今日に至るまでこの問題は解決に至っていません。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだということになりました。
しかしこの観測結果は違う理解が可能だとしてある天文学者が論文を発表して、この観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
これを記事にしたマスコミは十九世紀に火星に運河を発見したアメリカの天文学者と同じ過ちかもしれないと記しました。
科学史を振り返りますと天動説を典型に発見観測した対象を理解しないことは多々あります。酸素を発見した科学者はそれがフロギストン学説を否定していると最期まで知ることはありませんでした。
このことで判るように宇宙論には未だに決定的な理論は無いのです。

1970年代に物理学者ハイゼンベルク、武谷三男氏は現代科学の在り方に疑問を投げかけました。1990年代にはプラズマ宇宙論者の一人であるラーナーは科学革命が必要だと語り、また二人の日本の科学者が新しい見方が必要な段階だとある本に記しました。二十一世紀に入り日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に立花隆氏が量子力学には新しい理論が必要だとテレビ番組で語り、またインターネットでは研究関係者らしき人が一条の光も見えないと投稿しました。
二千十年代にあるテレビ番組では時間は存在しないと主張する科学者が登場し、雑誌でも同様の主張をする科学者たちを特集しました。実は1990年代にはドイツの科学者が時間が存在しない可能性について既に触れています。同じ番組では重力を否定する科学者も登場しました。
 これらを踏まえますと科学はまだ発展途上で科学革命が必要な段階だという主張は否定できません。

1980年代末にもう少しで最終方程式が手に入ると語ったホーキング博士は観測問題を考えると引き出しの銃に手が伸びると言ったそうです。

いわゆる哲学の分野ではピタゴラス学派の批判としてのパルメニデス哲学を擁護したゼノンの逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの理解困難な運動定義が未解決問題としてあります。

数学では不完全性定理が導いた決定不能という結論で何もかも理解不可能なのだとする人たちがいます。
そうだとしても理解不可能ということは理解できるわけで、何もかもということではないのではと思えます。

つまり科学を含め学問は未解決問題が山積しているわけです。
わたしは1994年「新哲学入門」を著した板倉聖宣氏1996年に「ゼノン4つの逆理の」を著した山川也氏の理解を手掛かりにしてこれらの問題に挑んでみまことにします。
いわば試論であり検討して頂けれが幸いです。


自然過程説の展開

 科学は対象である自然が無矛盾である、つまり理解可能であることが前提です。
 この視点から科学の歴史を振り返ってみます。
 地動説は特別だと理解されていた地球もまた天を運動する諸天体と変わらない存在だと示します。
 進化論は人間もまた諸生物の仲間であることを示します。諸生物の形態の差異はDNAの差異であり否定関係ではありません。
 光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止を否定します。自然の存在形態は運動、つまり無限です。
なぜなら静止という否定関係は自然には存在しないからです。
ディラックの海は真空がエネルギーの基底状態であり、自然は運動するエネルギーの濃淡であることを指示します。
濃淡の反発親和の過程を経て様々な物理状態が生成して行くということです。
ヘラクレイトスは万物は流転すると理解しました。人間も含めて自然はある物理状態からある物理状態に生成して行く過程として存在するということで現代科学はヘラクレイトスの理解を裏付けます。

ここで対象の規定の在り方を考えてみます。
わたしはあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては差異であり否定関係ではありません。
物理としては同一ですが、非同一つまり否定関係で規定します。
つまり濃淡としての差違を否定で規定します。
またわたしは誕生から現在に至るまで大きく運動変化していますがこの今も物理としては同一であることはありません。
つまり非同一を同一として規定します。
宇宙は同一であることはありませんが同一で規定します。
 わたしたちは運動する対象を座標原点、つまり運動の否定、静止で規定、理解します。
光速度一定の原理が示すように自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
自然をわたしたちはそのまま認識できません。
<一>である自然は認識には<多>として現象します。
多として現象する物理状態の抽象として次元はあり自然には存在しません。
自然には<ここ>から<ここ>まで、有限、粒子、最小単位、つまり形は存在しません。
それは認識の在り方に媒介する自然でありイコールの自然ではないのです。
0次元には大きさ、1次元には幅、2次元には厚み、3次元には運動が在りません。4次元は運動しない3次元の無限集合です。
次元は徹頭徹尾無なのです。
また、過去は過ぎ去り現在には幅が存在せず未来は未だ来ていません。

対象である自然、つまり有をその否定である無で規定します。
運動を静止、つまり有を無で規定しますから0に限りなく近いが0ではないという不思議な規定になるわけです。
<現在>には幅がありませんがこのことも対象の否定、つまり現に在る対象を無、つまり否定で規定することの証左です。
わたしたちは差異ではあるが<一>である自然を認識のありかたから多として現象しますがその否定である多で規定します。それでウイルスという生物非生物分類困難な対象が出来します。
この問題は対象側にはなく規定することの問題です。
生死もまた物理として存在しません。
わたしたちはある物理状態から生成してまた違う物理状態に生成する過程として存在します。
ある生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語りましたが、自然の運動変化の過程に存在しますからこの今に於いても同一であることはないからです。
それを同一として規定しますがウイルス同様に生死は規定の性格上分類困難なのです。第一に生死というは否定関係は物理として存在しないのです。
 ここで光速度一定の原理に戻ります。
この原理は座標原点つまり静止、<ここ>から<ここ>までは存在しないことを示します。
観測問題は海である自然、つまり波が渦の状態を呈しているということになり認識には粒子として現象します。
不確定性原理は運動を静止で測定、つまり有を無で規定するからで、その結果測定は近似値になるしかありません。
自然は無矛盾であり規定することが様々な問題を引き起こしますが、この原理は規定が自然に存在しないことで自然が無矛盾であることを示します。

科学は認識に<多>として現象する自然を否定で規定することを明らかにして行く過程とも言えます。

 いわゆる数学の不完全性定理をもって自然は理解出来ないとする人たちがいますが、自然は無矛盾、つまり理解可能なのですが、それを否定で規定するから決定不能になるとわたしは理解します。
このことを考察しましょう。

人間は自然の一部ですから科学は自然の自己言及ということになります。
一番身近な自己言及は<わたし>という表現です。
このことを言語学者である三浦つとむ氏が解明していますので紹介します。
わたしたちは地図を描く場合、頭の中、つまり観念の中で空中から眺めて街、日本、地球、銀河系を描くわけです。またミクロの世界も描けます。
古今東西の世界、ドラマ、小説の主人公、また未来にも行ったりできます。
三浦つとむ氏はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました。
<わたし>という表現は観念の中で物理としての自己を他者として認識します。
物理としての自己は観念の中では他者なのです。
<わたし>という表現は他者という否定で規定されているわけです。
では対象をその否定で規定するとどういうことになるのか考えてみます。
このことについて古代ギリシャは「クレタ人の逆説」を提出しています。
この逆説はクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというものです。
クレタ人が嘘つきだとクレタ人が真理を述べています。
つまり対象の否定で規定しています。
対象をその否定で規定しますから決定不能になります。
これは対象が無矛盾で理解可能であるが故です。規定は<対象>の否定であるが故に様々な理解困難な問題を出来させるわけです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますが同時に静止で規定することを示します。
つまり対象の否定で規定してその存在を否定することにより自然という対象が無矛盾であることを示します。
規定は否定です。
そして人間は自然の一部ですからその理解は自己言及です。
つまり自然は理解可能であるが故に決定不能なのです。

ここでビッグバン仮説について考えてみます。
<はじめに>で述べましたようにこの仮説には決定的証拠はまだありません。
宇宙が膨張しているのならば端が観測されなければなりません。
インフレーション仮説はまだ証明されていません。
端が観測されていなければ無限だと理解しても良いわけです。
インターネットでは「ビッグバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビッグバンが起きているのかな」という投稿がありました。ボスロウはビッグバンは宇宙の片隅で起きたことかもしれないと「ビッグバン危うし」に記しました。
わたしはビッグバン仮説は科学の前提や法則に反していると考えています。
大前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定しています。そしてエネルギー保存則、つまり何も生まれない無くならないということを否定します。
また光速度一定の原理は絶対座標、つまり始まりを否定していますがこの仮説は始まりを想定しています。
ワインバークは約三十年前に始まりまであとわずかに迫っていると語りましたがわたしは始まりは存在しないと理解しています。
物理として生死は存在しませんし宇宙にも存在しないことはエネルギー保存則、光速度一定の原理が語ることです。
自然は無矛盾で理解可能でありエネルギー保存則、光速度一定の原理の枠内で理解する必要があると考えています。
地球は静止して見えますがそうではありません。
観測結果をどう理解すべきなのか。
それは科学の諸前提を否定してはなりませんし、それは可能でしょう。

哲学の諸問題
ピタゴラス学派は自然は<多>であり数で出来ているとしましたがパルメニデスは<一>であるとしました。
ゼノンは師であるパルメニデスの主張を逆説で擁護しました
 「競技場の逆説」では自然が最小単位でできているのならその半分が存在することを、つまり最小単位は存在しないことを論証しました。
この論証を受けてピタゴラス学派は数には大きさが無いとします。
ゼノンは「二分の一の逆説」、「アキレスとカメラマンの逆説」で数に大きさがなければ目的地に到達することもアキレスは亀を追い抜くことも出来ないと論証しました。
「飛ぶ矢の逆説」では空間が点で構成されていたら運動は不可能だと示しました。
つまり自然は<多>ではなく<一>なのです。
規定は否定ですから数で理解するのであり<一>である自然をその否定の<多>で規定するということです。
光速度一定の原理は座標原<点>の存在を否定してパルメニデスの理解を裏付けました。
カントの二律背反が意味することは対象とその規定の問題で終始が存在しない自然を終始で規定するということです。
ヘーゲルは運動を存在しないと同時にしないことと定義しましたが、これはクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説を踏まえています。
運動は存在するのですが存在するという規定は静止であることを飛ぶ矢の逆説は示しますから存在すると同時に存在しないことという定義になります。
つまり決定不能なのです。

科学が示す自然は無限であり運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で全ては生成して行きます。
進化論はその生物学的理解です。
万物は流転するとヘラクレイトスは理解します。

光速度一定の原理は、自然は無矛盾であり<一>と理解するパルメニデス哲学を裏付けます。
ピタゴラス、ルクレティウスの理解は認識の理論であり、クレタ人の逆説は対象を否定で規定するという論理の根幹を示し、ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反が必然であることとなります。
規定は<対象>の否定ですから対象である自然には存在しません。

自然は運動するエネルギーの濃淡の濃淡の海であり反発親和して様々な物理状態を生成する過程です。

自然は無矛盾です。

  改訂しますがとりあえずです
No.5299   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/10(Thu) 17:58
    科学と認識の理論

   ~自然過程説の展開~

はじめに

 十九世紀末に光速度一定の原理という不可解な現象が観測されました。この現象は自然には絶対座標が存在しないことを示します。このことは静止、つまり運動の否定が存在しないことを導きます。
二十世紀前半には観測問題、つまり波と共に粒子、つまり同一対象が否定関係として現象するという理解困難な事象が確認されました。
自然が無矛盾でないと科学は成立しませんから光速度一定の原理と共に知に衝撃を与えた発見となりました。
今日に至るまでこの問題は解決に至っていません。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだということになりました。
しかしこの観測結果は違う理解が可能だとしてある天文学者が論文を発表して、この観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
これを記事にしたマスコミは十九世紀に火星に運河を発見したアメリカの天文学者と同じ過ちかもしれないと記しました。
科学史を振り返りますと天動説を典型に発見観測した対象を理解しないことは多々あります。
つまり宇宙論には未だに決定的な理論は無いのです。

1970年代に物理学者ハイゼンベルク、武谷三男氏は現代科学の在り方に疑問を投げかけました。1990年代にはプラズマ宇宙論のラーナーは科学革命が必要だと語り二人の日本の科学者が新しい見方が必要な段階だとある本に記しました。二十一世紀に入り日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に立花隆氏が量子力学には新しい理論が必要だとテレビ番組で語り、またインターネットでは研究関係者らしき人が一条の光も見えないと投稿しました。
あるテレビ番組では時間は存在しないと主張する科学者が登場し、雑誌で同様の主張する科学者たちを特集しました。実は1990年代にはドイツの科学者が時間が存在しない可能性について既に触れています。同じ番組では重力を否定する科学者も登場しました。
 これらを踏まえますと科学はまだ発展途上で科学革命が必要な段階だという主張は否定できません。

1980年代末にもう少しで最終方程式が手に入ると語ったホーキング博士は観測問題を考えると引き出しの銃に手が伸びると言ったそうです。

いわゆる哲学の分野ではピタゴラス学派の批判としてのパルメニデス哲学を擁護したゼノンの逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの理解困難な運動定義が未解決問題としてあります。

数学では不完全性定理が導いた決定不能という結論で何もかも理解不可能なのだとする人たちがいます。
そうだとしても理解不可能ということは理解できるわけで、何もかもということではないわけです。

つまり科学を含め学問は未解決問題が山積しているわけです。
わたしは1994年「新哲学入門」を著した板倉聖宣氏1996年に「ゼノン4つの逆理の」を著した山川也氏の理解を手掛かりにしてこれらの問題に挑んでみます。

自然過程説の展開

 科学は対象である自然が無矛盾である、つまり理解可能であることが前提です。
 この視点から科学の歴史を振り返ってみます。
 地動説は特別だと理解されていた地球もまた天を運動する諸天体と変わらない存在だと示します。
 進化論は人間もまた諸生物の仲間であることを示します。諸生物の形態の差異はDNAの差異であり否定関係ではありません。
 光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止を否定します。自然の存在形態は運動、つまり無限です。
ディラックの海は真空がエネルギーの基底状態であり、自然は運動するエネルギーの濃淡であることとなります。
その反発親和の過程を経て様々な物理状態が生成して行くということです。
ヘラクレイトスは万物は流転すると理解しました。人間も含めて自然はある物理状態からある物理状態に生成して行く過程として存在するということで現代科学はヘラクレイトスの理解を裏付けます。

ここで対象の規定の在り方を考えてみます。
わたしはあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては差異であり否定関係ではありません。
物理としては同一ですが、非同一つまり否定関係で規定します。
またわたしは誕生から現在に至るまで大きく運動変化していますがこの今も物理としては同一であることはありません。
つまり非同一を同一として規定します。
 わたしたちは運動する対象を座標原点、つまり運動の否定、静止で規定、理解します。
光速度一定の原理が示すように自然は運動するエネルギーの濃淡の海です。
自然をわたしたちはそのまま認識できません。
<一>である自然は認識には<多>として現象します。
多として現象する物理状態の抽象として次元はあり自然には存在しません。
自然には<ここ>から<ここ>まで、有限、粒子、最小単位、つまり形は存在しません。
それは認識の在り方に媒介する自然でありイコールの自然ではないのです。
0次元には大きさ、1次元には幅、2次元には厚み、3次元には運動が在りません。4次元は運動しない3次元の無限集合です。
次元は徹頭徹尾無なのです。
また、過去は過ぎ去り現在には幅が存在せず未来は未だ来ていません。

対象である自然、つまり有をその否定である無で規定します。
運動を静止、つまり有を無で規定しますから0に限りなく近いが0ではないという不思議な規定になるわけです。
<現在>には幅がありませんがこのことも対象の否定、つまり現に在る対象を無、つまり否定で規定することの証左です。
わたしたちは差異ではあるが<一>である自然をその否定で規定しますからウイルスという生物非生物分類困難な対象が出来します。
この問題は対象側にはなく規定することの問題です。
生死もまた物理として存在しません。
わたしたちはある物理状態から生成してまた違う物理状態に生成する過程として存在します。
ある生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語りましたが、自然の運動変化の過程に存在しますからこの今に於いても同一であることはないからです。
それを同一として規定しますからウイルス同様に生死は規定の性格上分類困難なのです。
 ここで光速度一定の原理に戻ります。
この原理は座標原点、つまり静止、<ここ>から<ここ>までは存在しないことを示します。
観測問題は海である自然、つまり波が渦の状態を呈しているということになります。
不確定性原理は運動を静止で測定、つまり有を無で規定するからで、その結果測定は近似値になるしかありません。
自然は無矛盾であり規定することが様々な問題を引き起こしますが、この原理は規定が自然に存在しないことで自然が無矛盾であることを示します。

科学は認識に現象する自然を否定で規定いることを明らかにして行く過程とも言えます。

 いわゆる数学の不完全性定理をもって自然は理解出来ないとする人たちがいますが、自然が無矛盾、つまり理解可能なのですが、それを否定で規定するから決定不能になるとわたしは理解します。
このことを考察しましょう。

人間は自然の一部ですから科学は自然の自己言及ということになります。
一番身近な自己言及は<わたし>という表現です。
このことを言語学者である三浦つとむ氏が解明していますので紹介します。
わたしたちは地図を描く場合、頭の中、つまり観念の中で空中から眺めて街、日本、地球、銀河系を描くわけです。またミクロの世界も描けます。
古今東西の世界、ドラマ、小説の主人公、また未来にも行ったりします。
三浦つとむ氏はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました。
<わたし>という表現は観念の中で自己を他者として認識します。
物理としての自己は観念の中では他者なのです。
<わたし>は他者という否定で規定します。
では対象をその否定で規定するとどういうことになるのか考えてみます。
このことについて古代ギリシャは「クレタ人の逆説」を提出しています。
この逆説はクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというものです。
クレタ人が嘘つきだとクレタ人が真理を述べています。
つまり対象の否定で規定しています。
対象をその否定で規定しますから決定不能になります。
これは対象が無矛盾で理解可能であるが故です。規定は<対象>の否定であるが故に様々な理解困難な問題を出来させるわけです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますが同時に静止で規定することを示します。
つまり対象の否定で規定してその存在を否定することにより自然という対象が無矛盾であることを示します。
つまり規定すること自体が問題なのです。

ここでビッグバン仮説について考えてみます。
<はじめに>で述べましたようにこの仮説には決定的証拠はまだありません。
宇宙が膨張しているのならば端が観測されなければなりません。
インフレーション仮説はまだ証明されていません。
端が観測されていなければ無限だと理解しても良いわけです。
インターネットでは「ビッグバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビッグバンが起きているのかな」という投稿がありました。ボスロウはビッグは宇宙の片隅で起きたことかもしれないと「ビッグバン危うし」に記してました。
わたしはビッグバン仮説は科学の前提や法則に反していると考えています。
大前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定しています。またエネルギー保存則、つまり何も生まれない無くならないということを否定します。
また光速度一定の原理は絶対座標、つまり始まりを否定していますがこの仮説は始まりを想定しています。
ワインバークは約三十年前に始まりまであとわずかに迫っていると語りましたがわたしは始まりは存在しないと理解しています。
物理として生死は存在しませんし宇宙にも存在しないことはエネルギー保存則、光速度一定の原理が語ることです。
わたしは自然は無矛盾で理解可能でありエネルギー保存則、光速度一定の原理の枠内で理解する必要があると考えています。
地球は静止して見えますがそうではありません。
観測結果をどう理解するべきなのか。
それは科学の諸前提を否定してはなりませんし、また可能であることを示しました。

哲学の諸問題
ピタゴラス学派は自然は<多>であり数で出来ているとしましたがパルメニデスは<一>であるとしました。
ゼノンは師であるパルメニデスの主張を逆説で擁護しました
 「競技場の逆説」では自然が最小単位でできているのならその半分が存在することを、つまり最小単位は存在しないことを論証しました。
ピタゴラス学派は数には大きさが無いとします。
それならばとゼノンは「二分の一の逆説」、「アキレスとカメラマンの逆説」で数に大きさがなければ目的地に到達することもアキレスは亀を追い抜くことも出来ないと論証しました。
「飛ぶ矢の逆説」では空間が点で構成されていたら運動は不可能だと示しました。
つまり自然は<多>ではなく<一>なのです。
規定は否定ですから数で理解するのであり<一>である自然をその否定の<多>で規定するということです。
光速度一定の原理は座標原<点>の存在を否定してパルメニデスの理解を裏付けました。
カントの二律背反は対象とその規定の問題で終始が存在しない自然を終始で規定するということです。
ヘーゲルは運動を存在しないと同時にしないことと定義しましたが、これはクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説を踏まえています。
運動は存在するのですが存在するという規定は静止であることを飛ぶ矢の逆説は示しますから存在すると同時に存在しないことという定義になります。
つまり決定不能なのです。

科学が示す自然は無限であり運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で全ては生成して行きます。
進化論はその生物学的理解です。
万物は流転するとヘラクレイトスは理解します。

光速度一定の原理は自然は無矛盾であり<一>と理解するパルメニデス哲学を裏付けます。
ピタゴラス、ルクレティウスの理解は認識の理論であり、クレタ人の逆説は対象を否定で規定するという論理の根幹を示し、ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反が必然であることとなります。
規定は<対象>の否定ですから対象である自然には存在しません。

自然は運動するエネルギーの濃淡の濃淡の海で反発親和して様々な物理状態を生成する過程です。

  Re[5297]: ・・・
No.5298   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/10(Thu) 14:14
この視点を挿入しないとなあ

> 球体説って地動説ではあるんだよな
> 天動説?プゲラ、太陽中心なんだわ
> →その後どこにも中心は無いとわかる
> 地動説も太陽中心と理解したら天動説の亜種
>
> 球体説は認識に現象する自然イコール自然という理解では平面説の亜種ではないかと
>
>
> ミクロとマクロは違うのか?
> 同じ自然です
> 同一の自然がある物理条件にこう生成するってだけ
> その物理条件の一つが認識です
> 物理条件は複層として在る
> 波はある条件で渦となったりする
> それを視覚は粒子、波として認識する
> 自然は無矛盾です
> 無、つまり無いものは無い
> 濃淡ですが有だけです
> 濃淡を否定関係で規定する
> 平面はもちろん球体、いや形自体が自然には存在しません
> 対象に宇宙非宇宙は存在しない、エネルギー保存則、光速度一定の原理は自然理解の枠、導きの糸です
>  面白い指摘です
> 117 ディオネ(千葉県) [CN] [sage] 2021/12/13(月) 06:54:46.31 ID:IozHxL7v0
> ビックバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビックバンが起きたりしないのかな?

  ・・・
No.5297   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/10(Thu) 14:11
球体説って地動説ではあるんだよな
天動説?プゲラ、太陽中心なんだわ
→その後どこにも中心は無いとわかる
地動説も太陽中心と理解したら天動説の亜種

球体説は認識に現象する自然イコール自然という理解では平面説の亜種ではないかと


ミクロとマクロは違うのか?
同じ自然です
同一の自然がある物理条件にこう生成するってだけ
その物理条件の一つが認識です
物理条件は複層として在る
波はある条件で渦となったりする
それを視覚は粒子、波として認識する
自然は無矛盾です
無、つまり無いものは無い
濃淡ですが有だけです
濃淡を否定関係で規定する
平面はもちろん球体、いや形自体が自然には存在しません
対象に宇宙非宇宙は存在しない、エネルギー保存則、光速度一定の原理は自然理解の枠、導きの糸です
 面白い指摘です
117 ディオネ(千葉県) [CN] [sage] 2021/12/13(月) 06:54:46.31 ID:IozHxL7v0
ビックバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビックバンが起きたりしないのかな?

  いかん
No.5296   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/10(Thu) 14:06

肝心要の認識に現象する自然という観点が抜けていた

  とりあえずです
No.5295   [返信]
Name偽パルメニデス
Date: 2022/03/10(Thu) 14:00
    科学と認識の理論

   ~自然過程説の展開~

はじめに

 十九世紀末に光速度一定の原理という不可解な現象が観測されました。この現象は自然には絶対座標が存在しないことを示します。このことは静止、つまり運動の否定が存在しないことを導きます。
二十世紀前半には観測問題、つまり波と共に粒子、つまり同一対象が否定関係として現象するという理解困難な事象が確認されました。
自然が無矛盾でないと科学は成立しませんから光速度一定の原理と共に知に衝撃を与えた発見となりました。
今日に至るまでこの問題は解決に至っていません。
宇宙論では宇宙背景放射の観測でビッグバン仮説で決まりだということになりました。
しかしこの観測結果は違う理解が可能だとしてある天文学者が論文を発表して、この観測でノーベル賞を受賞したスムート博士はその可能性を否定できないとコメントしました。
これを記事にしたマスコミは十九世紀に火星に運河を発見したアメリカの天文学者と同じ過ちかもしれないと記しました。
科学史を振り返りますと天動説を典型に発見観測した対象を理解しないことは多々あります。
つまり宇宙論には未だに決定的な理論は無いのです。

1970年代に物理学者ハイゼンベルク、武谷三男氏は現代科学の在り方に疑問を投げかけました。1990年代にはプラズマ宇宙論のラーナーは科学革命が必要だと語り二人の日本の科学者が新しい見方が必要な段階だとある本に記しました。二十一世紀に入り日本の物理学者がノーベル賞を受賞した際に立花隆氏が量子力学には新しい理論が必要だとテレビ番組で語り、またインターネットでは研究関係者らしき人が一条の光も見えないと投稿しました。
あるテレビ番組では時間は存在しないと主張する科学者が登場し、雑誌で同様の主張する科学者たちを特集しました。実は1990年代にはドイツの科学者が時間が存在しない可能性について既に触れています。同じ番組では重力を否定する科学者も登場しました。
 これらを踏まえますと科学はまだ発展途上で科学革命が必要な段階だという主張は否定できません。

1980年代末にもう少しで最終方程式が手に入ると語ったホーキング博士は観測問題を考えると引き出しの銃に手が伸びると言ったそうです。

いわゆる哲学の分野ではピタゴラス学派の批判としてのパルメニデス哲学を擁護したゼノンの逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの理解困難な運動定義が未解決問題としてあります。

数学では不完全性定理が導いた決定不能という結論で何もかも理解不可能なのだとする人たちがいます。
そうだとしても理解不可能ということは理解できるわけで、何もかもということではないわけです。

つまり科学を含め学問は未解決問題が山積しているわけです。
わたしは1994年「新哲学入門」を著した板倉聖宣氏1996年に「ゼノン4つの逆理の」を著した山川也氏の理解を手掛かりにしてこれらの問題に挑んでみます。

自然過程説の展開

 科学は対象である自然が無矛盾である、つまり理解可能であることが前提です。
 この視点から科学の歴史を振り返ってみます。
 地動説は特別だと理解されていた地球もまた天を運動する諸天体と変わらない存在だと示します。
 進化論は人間もまた諸生物の仲間であることを示します。諸生物の形態の差異はDNAの差異であり否定関係ではありません。
 光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止を否定します。自然の存在形態は運動、つまり無限です。
ディラックの海は真空がエネルギーの基底状態であり、自然は運動するエネルギーの濃淡であることとなります。
その反発親和の過程を経て様々な物理状態が生成して行くということです。
ヘラクレイトスは万物は流転すると理解しました。人間も含めて自然はある物理状態からある物理状態に生成して行く過程として存在するということで現代科学はヘラクレイトスの理解を裏付けます。

ここで対象の規定の在り方を考えてみます。
わたしはあなたでも植物でも金属でもありませんが物理としては差異であり否定関係ではありません。
物理としては同一ですが、非同一つまり否定関係で規定します。
またわたしは誕生から現在に至るまで大きく運動変化していますがこの今も物理としては同一であることはありません。
つまり非同一を同一として規定します。
 わたしたちは運動する対象を座標原点、つまり運動の否定、静止で規定、理解します。
0次元には大きさ、1次元には幅、2次元には厚み、3次元には運動が在りません。4次元は運動しない3次元の無限集合です。
次元は徹頭徹尾無なのです。
また、過去は過ぎ去り現在には幅が存在せず未来は未だ来ていません。

対象である自然、つまり有をその否定である無で規定します。
運動を静止、つまり有を無で規定しますから0に限りなく近いが0ではないという不思議な規定になるわけです。
<現在>には幅がありませんがこのことも対象の否定、つまり現に在る対象を無、つまり否定で規定することの証左です。
わたしたちは差異ではあるが<一>である自然をその否定で規定しますからウイルスという生物非生物という分類困難な対象が出来します。
この問題は対象側にはなく規定することの問題です。
生死もまた物理として存在しません。
わたしたちはある物理状態から生成してまた違う物理状態に生成する過程として存在します。
ある生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語りましたが、自然の運動変化の過程に存在しますからこの今も同一であることはないからです。
それを同一として規定しますからウイルス同様に生死は規定の性格上分類困難なのです。
 ここで光速度一定の原理に戻ります。
この原理は座標原点、つまり静止、<ここ>から<ここ>までは存在しないことを示します。
観測問題は海である自然、つまり波が渦の状態を呈しているということになります。
不確定性原理は運動を静止で測定、つまり有を無で規定するからで、その結果測定は近似値になるしかありません。
自然は無矛盾であり規定することが様々な問題を引き起こしますが、この原理は規定が自然に存在しないことで自然が無矛盾であることを示します。

科学は認識に現象する自然を否定で規定いることを明らかにして行く過程とも言えます。

 いわゆる数学の不完全性定理をもって自然は理解出来ないとする人たちがいますが、自然が無矛盾、つまり理解可能なのですが、それを否定で規定するから決定不能になるとわたしは理解します。
このことを考察しましょう。

人間は自然の一部ですから科学は自然の自己言及ということになります。
一番身近な自己言及は<わたし>という表現です。
このことを言語学者である三浦つとむ氏が解明していますので紹介します。
わたしたちは地図を描く場合、頭の中、つまり観念の中で空中から眺めて街、日本、地球、銀河系を描くわけです。またミクロの世界も描けます。
古今東西の世界、ドラマ、小説の主人公、また未来にも行ったりします。
三浦つとむ氏はこの能力を観念的な自己分裂と名付けました。
<わたし>という表現は観念の中で自己を他者として認識します。
物理としての自己は観念の中では他者なのです。
<わたし>は他者という否定で規定します。
では対象をその否定で規定するとどういうことになるのか考えてみます。
このことについて古代ギリシャは「クレタ人の逆説」を提出しています。
この逆説はクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったというものです。
クレタ人が嘘つきだとクレタ人が真理を述べています。
つまり対象の否定で規定しています。
対象をその否定で規定しますから決定不能になります。
これは対象が無矛盾で理解可能であるが故です。規定は<対象>の否定であるが故に様々な理解困難な問題を出来させるわけです。
光速度一定の原理は絶対座標、つまり静止の存在を否定しますが同時に静止で規定することを示します。
つまり対象の否定で規定してその存在を否定することにより自然という対象が無矛盾であることを示します。
つまり規定すること自体が問題なのです。

ここでビッグバン仮説について考えてみます。
<はじめに>で述べましたようにこの仮説には決定的証拠はまだありません。
宇宙が膨張しているのならば端が観測されなければなりません。
インフレーション仮説はまだ証明されていません。
端が観測されていなければ無限だと理解しても良いわけです。
インターネットでは「ビッグバンで膨張している範囲の先の無の空間でもビッグバンが起きているのかな」という投稿がありました。ボスロウはビッグは宇宙の片隅で起きたことかもしれないと「ビッグバン危うし」に記してました。
わたしはビッグバン仮説は科学の前提や法則に反していると考えています。
大前提として対象に宇宙非宇宙という否定関係を想定しています。またエネルギー保存則、つまり何も生まれない無くならないということを否定します。
また光速度一定の原理は絶対座標、つまり始まりを否定していますがこの仮説は始まりを想定しています。
ワインバークは約三十年前に始まりまであとわずかに迫っていると語りましたがわたしは始まりは存在しないと理解しています。
物理として生死は存在しませんし宇宙にも存在しないことはエネルギー保存則、光速度一定の原理が語ることです。
わたしは自然は無矛盾で理解可能でありエネルギー保存則、光速度一定の原理の枠内で理解する必要があると考えています。
地球は静止して見えますがそうではありません。
観測結果をどう理解するべきなのか。
それは科学の諸前提を否定してはなりませんし、また可能であることを示しました。

哲学の諸問題
ピタゴラス学派は自然は<多>であり数で出来ているとしましたがパルメニデスは<一>であるとしました。
ゼノンは師であるパルメニデスの主張を逆説で擁護しました
 「競技場の逆説」では自然が最小単位でできているのならその半分が存在することを、つまり最小単位は存在しないことを論証しました。
ピタゴラス学派は数には大きさが無いとします。
それならばとゼノンは「二分の一の逆説」、「アキレスとカメラマンの逆説」で数に大きさがなければ目的地に到達することもアキレスは亀を追い抜くことも出来ないと論証しました。
「飛ぶ矢の逆説」では空間が点で構成されていたら運動は不可能だと示しました。
つまり自然は<多>ではなく<一>なのです。
規定は否定ですから数で理解するのであり<一>である自然をその否定の<多>で規定するということです。
光速度一定の原理は座標原<点>の存在を否定してパルメニデスの理解を裏付けました。
カントの二律背反は対象とその規定の問題で終始が存在しない自然を終始で規定するということです。
ヘーゲルは運動を存在しないと同時にしないことと定義しましたが、これはクレタ人の逆説と飛ぶ矢の逆説を踏まえています。
運動は存在するのですが存在するという規定は静止であることを飛ぶ矢の逆説は示しますから存在すると同時に存在しないことという定義になります。
つまり決定不能なのです。

科学が示す自然は無限であり運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で全ては生成して行きます。
進化論はその生物学的理解です。
万物は流転するとヘラクレイトスは理解します。

光速度一定の原理は自然は無矛盾であり<一>と理解するパルメニデス哲学を裏付けます。
ピタゴラス、ルクレティウスの理解は認識の理論であり、クレタ人の逆説は対象を否定で規定するという論理の根幹を示し、ヘーゲルの運動規定、カントの二律背反が必然であることとなります。
規定は<対象>の否定ですから対象である自然には存在しません。

自然は運動するエネルギーの濃淡の濃淡の海で反発親和して様々な物理状態を生成する過程です。

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