河野政通
1454(亨徳3)年、津軽の豪族・安東政季に従って、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言われています。河野政通は「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていた、現在の市立函館病院跡地から元町公園付近に「館」を築きました。これが「宇須岸河野館」で、その大きさは東西約92メートル、南北約115メートル、四方に土塁と乾壕を巡らせていたそうです。この「河野館」を対岸の北斗市側から見ると、箱に似ていたところから「箱館」と称され、一般的には地名発祥の基と言われていますが、多くの異説もあります。
1456(康正2)年に志苔(しのり)館(現在の市内志海苔町)で、短刀の品質や価格をめぐる口論から、和人鍛冶屋がアイヌの少年を刺殺する事件が発生します。これをきっかけに、アイヌと和人との対立が激化し、翌年には首長・コシャマインが道南に12あった和人の館を次々と攻略し、ついには茂別館(現在の北斗市茂辺地)と花沢館(現在の上ノ国町)を残すのみとなりました。花沢館の館主は蠣崎季繁(すえしげ)で、その客分に27歳の武田信広がいました。信広はコシャマイン父子をはじめとするアイヌ軍を倒し、和人を勝利へ導いたと言われる人物です。その後、季繁は主人・安藤氏の娘を養女にもらい、信広を娘婿として蠣崎家を譲り、この信広が実質上、後の松前氏の始祖となります。
1512(永正9)年、宇須岸などの3館は再びアイヌに攻め落とされ、下之国守護代・河野季通(政通の子)が放棄した宇須岸は衰退してしまいます。以後、亀田(現在の市内北部)が和人地の東限となり、弘前(津軽)藩の正史「津軽一統志」には、箱館湾に流入していた亀田川河口の亀田湊の方が繁栄していたと記してあります。しかし、「松前蝦夷記」によると、やがて亀田湊に土砂が流入して廻船が寄港できなくなり、代わって箱館湊が利用されるようになったことが分かります。
箱館は宝永年間(1704-1711年)になると、住民の増加に伴って相次いで寺院が建ち、1741(寛保元)年には松前藩の亀田奉行所が「河野館」跡地に移されます。1799(寛政11)年、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、1802(亨和2)年この跡地に箱館奉行所を設置しました。高田屋嘉兵衛の活躍や貿易港として世界に門戸を開くなどで、箱館は大きく発展。箱館奉行所庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は箱館奉行所が五稜郭に短期間移転を除き、常に函館の行政の中心地でありました。
なお、1753(宝暦3)年に松前藩の箱館奉行が建てた河野政通の供養碑は、称名寺にあります。
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大岡助右衛門
箱館奉行所建築の大工棟梁です。五稜郭竣工後も箱館に残りましたが、1872(明治5)年に開拓使本庁が函館から札幌に移り、その建設に呼ばれます。北海道最初の本格的洋館「豊平館」や道庁庁舎の工事にかかわり、また豊平に建立し、寄贈した「経王寺」は現在、彼自身が永眠する場所でもあります。
箱館戦争時において彼の果たした役割はあまり知られておりません。箱館戦争終結後、路上に放置されていた榎本軍の戦死者を、実行寺の住職・日隆とともに同寺などに合葬した功労者は、柳川熊吉と現代に伝えられています。しかし、実行寺は大岡助右衛門の檀那寺で、むしろ大岡が日隆にお願いをし、その心意気に感動した柳川熊吉が協力を申し出たのが真相とも言われております。
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杉浦誠
1862(文久2)年、洋書調所(のちに開成所)頭取から、老中・板倉勝静に抜擢されて目付に任命されます。幕府の外交方針決定の中枢に参画するも、1864(元治元)年に、横浜鎖港問題遂行の為、板倉勝静らが罷免される政変により辞職します。
そして、1866(慶応2)年に箱館奉行を命じられるのです。当時の箱館はアメリカ、イギリス、プロシア、ポルトガル、ロシアの領事館を置かれた国際重要港。特にロシアの南下政策の防御、イギリス領事館員による森村(現在の森町)や落部村(現在の八雲町)にあったアイヌ墓地からの人骨盗掘問題の処理、ガルトネル事件と呼ばれる蝦夷地開拓のための西洋農法導入問題など、外交上の問題が多発する中、治外法権下だったがゆえにあらゆる面で困難を極めました。
1868(明治元)年、江戸幕府の崩壊後、最後の奉行として平和裏に新政府へ引き継ぎ、いったんは江戸へ戻ります。しかし、翌1869(明治2)年7月に開拓使が設置されると、その経験を買われて同年末、函館の開拓使出張所に主任宮として着任し、その後、開拓権判官に起用されます。在任中は、日露和親条約で両国の雑居地と決めた樺太の日本人居住地に隣接してロシア人が住居を建てる問題に続き、活況に沸いていた江差のニシン漁に陰りが見えると漁民が大網禁止を官に直訴する騒ぎや、次々と大網を切る網切り事件が発生するも、敏速果敢に対処し、黒田次官とともに鎮圧にあたりました。一方で、1876(明治9)年7月16日、明治天皇の函館行幸の先導を務める栄に浴します。翌1877(明治10)年に3等出仕を以て退官するまで、函館の行政官としてほぼ9年にわたって民政に尽力しました。東京へ戻ってからは、詩の結社「晩翠吟社(ばんすいぎんしゃ)」を創立し、梅潭(ばいたん)と号して詩作で余生を送りました。
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坂本直(高松太郎、小野淳輔)
坂本龍馬には、年が8歳しか離れていない甥の高松太郎がおります。弟のようにかわいがり、「亀山社中」(後の「土佐海援隊」)でも二人は行動をともにします。特に、龍馬や中岡慎太郎らが薩長同盟の成立に向けて奔走し始めると、長州藩は薩摩名義で武器を購入する事になり、伊藤俊輔(後の初代総理大臣・伊藤博文)が英国商人のグラバーからミネー・ゲベール小銃4300挺を調達する際に周旋したのが太郎でした。1866(慶応2)年10月頃、龍馬は薩摩藩らの援助で手に入れた帆船の大極丸による蝦夷開発を計画します。太郎はその中心的役割を演じたものの、うまくは進みませんでした。翌1867(慶応3)年、高松太郎から小野淳輔へと改名。その後の龍馬暗殺は、太郎にとって計り知れないほどのショックであったに違いありません。
太郎は、龍馬の蝦夷地への志を引き継ぐかのように、1868(明治元)年4月に新設された箱館府の権判事に任命されます。そして、江戸幕府最後の箱館奉行・杉浦誠と五稜郭の箱館奉行所で事務引継ぎの重要な任務を担い、清水谷公考府知事宛ての北海道開発建白書を提出しています。箱館戦争で榎本軍が五稜郭に侵攻してきたため、一旦は青森まで撤退しますが、1869(明治2)年に軍功を挙げた結果、再び箱館府で勤めるようになります。
1871(明治4)年8月には、新政府の命令により坂本龍馬の家督を相続するのに最適な人物として、「坂本直」と改名します。その後、東京へ出て東京府、宮内省に勤務しますが、1889(明治22)年にキリスト信徒の故で免職(病気で辞職とも)となったため、土佐へと帰郷します。1898(明治31)年、余生を送っていた高知の実弟・直寛宅で波乱万丈の人生を終えました。
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※執筆:箱館歴史散歩の会主宰 中尾仁彦(なかお とよひこ) 2010/08/01公開