武漢の積慶里慰安所の詳細を管理者の立場から叙述した「武漢兵站/山田清吉(1978)」、「漢口慰安所/長沢健一(1983)」は「慰安婦」問題の最重要文献なのだが、二人とも当事者であるだけに、積慶里慰安所の女性たちがどのようにして連れてこられたかという部分は極めて歯切れが悪い。
2
10
10
山田清吉氏の「武漢兵站(1978)」は、漢口に常時280人もの「慰安婦」を抱えた巨大な慰安所が存在したことを周知した本である。今でこそ、小野田寛郎や元代議士の相沢英之など、様々な証言が知られている漢口の積慶里慰安所だが、この本が出るまでほとんど存在すら知られていなかった。
1
1
1
その点では、山田の「武漢兵站」は重要で、戦地にミニ吉原やミニ飛田が存在したという事実の衝撃は大きかった。そして、その慰安所が兵站司令部によって完全に管理されていたことも事実として分かるのだが、この本には、女性たちがどのようにして連れてこられたのかは、ほとんど書かれていない。
1
1
1
長沢健一元軍医は以下のように述べて「軍や官憲による強制連行」を否定している。 -- だが、不思議なことに長年慰安所の管理監督に当たった兵站部員は、慰安所の内部で一度も、いわれるような日本軍部、官憲による朝鮮婦女強制連行の噂さえ聞いたことがないのである。 -- 漢口慰安所/長沢健一(1983)

May 21, 2020 · 9:13 PM UTC

1
1
長沢氏が槍玉にあげているのは、千田夏光や金一勉なのだが、千田が軍や官憲による「強制連行」と呼ぶ本命は関東軍によるもので、武漢や南京のような中支で軍や官憲による強制連行があったとは千田は主張していない。千田も兵站の慰安所が、前線の慰安所に比較してユルイ所だというのは知っていた。
1
1
長沢氏の「漢口慰安所」で有名なのは、日本内地から連れてこられた女性が、慰安所でカラダを売るとは知らなかったと泣きわめくが、結局は「慰安婦」にさせられた例だ。確かに「日本軍部や官憲による強制連行」ではない。以下は「漢口慰安所/長沢健一(1983)」からの抜粋。 satophone.wpblog.jp/?page_id…
1
3
1
1
赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉で泣きじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられるとは知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く(P146)
1
1
2
長沢氏はこの悲惨な例について同書の後半部で再度説明している。 -- 私の体験でも、内地から来た娘が、やはり約束が違うと騒いだことがある。この場合、親は万事承知の上で娘を売りながら、 娘には事実を告げていなかったので、このような手違いが起こったのであった。(P240) satophone.wpblog.jp/?page_id…
1
2
1
つまり、長沢健一元軍医は、内地で女性を娼妓にするためには、本人の同意が必要だと言う事実を知らなかったのである。上述の例では長沢氏は、本人の知らないところで親が女性を売ったのだから仕方がないとしているのだが、これは内地基準では犯罪なのだ。
1
2
1
この例を除いては長沢健一氏は女性達がどのようにして慰安所に連れて来られたかということについて、多くを語っていない。だが、漢口の積慶里慰安所で、このような例が多数あったというウワサは、占領直後に漢口に商社員(と言っても未成年である)として赴任した小野田寛郎の耳にも入っていた。
1
1
1
-- 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。 -- 私が見た従軍慰安婦の正体(2005) satophone.wpblog.jp/?page_id… 小野田だけではない。戦争末期に中支にいた相沢英之はこう証言する。
1
1
1
ただし、業者が彼女らを内地や朝鮮で募集するに際して、会社勤めとか、料理屋の女中とか、ウェイトレスの仕事とか言って騙して連れて来て、現地で無理強いに売春行為をさせた、というようなことは耳にしたし、事実あった、と思う。 -- 相沢英之「地声寸言」(2012) satophone.wpblog.jp/?p=2294
1
1
1
1
小野田寛郎は、積慶里慰安所を訪れた印象を記録する他に、自分が所属していた師団や連隊にも独自の慰安所が設置されていたことを証言している。小野田が慰安所のことを語りだしたのは2005年(正論紙上)。つまり、この事実は「慰安婦」問題が顕在化しなければ、知られることはなかったということだ。
1
2
小野田自身の実体験の他に、小野田論文には極めて興味深いことが書かれている。小野田の次兄は主計将校だったが、兵士の支出の三分の一は慰安所に使われていたのだと言う。小野田は昭和軍国主義の亡霊のような存在だったが、死ぬ前に貴重な資料を残してくれたことは疑いない。 satophone.wpblog.jp/?page_id…
3