最終更新日:2021/03/29
季刊「古代史ネット」第2号
奴国の時代 ①
河村哲夫
【Ⅰ】邪馬台国前史としての奴国――「漢の倭の奴の国王」を中心として
百余国
『漢書』地理誌には、
「夫れ楽浪海中に倭人あり。分れて百余国となす。歳時を以て来たり。献見すという」
と記されている。
楽浪郡が設置されたのは前漢時代の紀元前108年であるから、『漢書』の記事は、北部九州地域の紀元前1世紀ごろの状況を反映したものであろう。
「国(くに)」の旧字である「國」は、「囗」と「或」が合わさった、いわゆる「会意文字」である。
白川静氏の『字訓』には、「都邑を示す囗(い)を、戈をもって衛る意。すなわち武装都市をいう。のちに外囲を加えて國となった。・・一定の支配地・領地の意」とある。
中国で生まれた漢字の「国」は、現在の国家(nation )という意ではなくて、城壁に囲まれた地方都市のイメージである。楼蘭や敦煌など、西域のオアシス都市は、4・5世紀の法顕の時代においても、7世紀の玄奘の時代にも「国」と呼ばれた。
『漢書』地理誌の「百余国」も、このようなイメージでとらえるべきであろう。
いや、もともと城壁を築く習慣のなかった倭国においては、せいぜい、後世の複数の「郷」あるいは、「郡」程度のエリアとみるべきであろう。「吉野ケ里」のような拠点的な大規模集落の周辺に、いくつかの小さな衛星集落を従えるようなイメージである。現代の「国=国家」というような目で古代をみることは許されない。
奴国の勃興
そして、博多湾岸・那珂川・御笠川流域に、「奴国」が勃興した。
その起源について、西南学院大学名誉教授の高倉洋彰氏は『金印国家群の時代』(青木書店)のなかで、
「地域的なまとまり(クニ)とその統率者(オウ)の成長などによって紀元前一世紀にまでさかのぼらせることが可能」
とされるが、奴国の特徴であるカメ棺から前漢時代の青銅器が出土することなどから、紀元前2世紀にまで遡ることが可能であろう
奴国は、紀元後1世紀に一つの絶頂期を迎える。『後漢書』には、
「建武中元二(57)年、倭の奴国、貢を奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称う。倭国の極南界(最南端)なり。光武は賜うに印綬を以てす。安帝の永初元(107)年、倭国王の師升等、生口百六十人を献じ、願いて見えんことを講う」
と書かれている。
西暦57年、奴国は後漢初代の光武帝のもとに使者を派遣し、「印綬」を授けられている。これが博多湾の志賀島から出土した「漢の委の奴の国王」の金印である。
『後漢書』は、『三国志』から遅れること約150年、范曄によって書かれた中国の正史である。范曄は宋の初代皇帝劉裕に仕えて尚書吏部郎となったが、左遷されて宣城太守になり、在任中の423年に著したといわれる。すでに成立していた陳寿の『三国志』と重なる部分もあるため、『三国志』を参照して書かれたことが明らかであるが、それ以外の独自情報も含まれている。
奴国が「倭国の極南界」にあるとすれば、光武帝時代、少なくとも倭人の活動エリアは北部九州の玄界灘沿岸部から朝鮮半島南部に及んでいたと中国に認識されていたのであろう。
となると、朝鮮半島側のクニグニとの関係である。
この地図は、井上秀雄氏の『古代朝鮮』(日本放送出版協会)に掲載されたものであるが、奴国から邪馬台国の時代においても、朝鮮半島南岸に倭の領域があったことを前提に作成されている。
そして、朝鮮半島南部の加羅(伽耶)諸国を含む弁韓及び辰韓(のちの新羅)は、奴国の時代に建国されている。
加羅(から)諸国の建国神話――首露王
『三国遺事』は、西暦1200年代後半に高麗の僧一然によって私的に編まれた歴史書である。
そのなかに『駕洛国記』が抄録されている。
それによれば、亀旨(くじ)峰の6個の金の卵から、後漢の光武帝の建武18(西暦42)年3月3日に首露(しゅろ)が生まれたとされる。奴の国王とおなじころの王である。
首露王は1人ではなく5人の王子とともに6つ子として卵から生まれて、九干(9人の首長)に育てられたとされる。
〇『駕洛国記』
さらには、『三国遺事』は、
「思うに駕洛記贊によると、一条の紫色の房が天上から垂れ、その下に六個の卵が包まれていた。五個は各邑が持ち帰り、一個はこの城にあって首露王となり、残りの五個は各々五伽耶(かや)の主となった。金官は五伽耶の数には入れない。『本朝史略』が金官をも数に入れ、さらに昌寧を加えて記すのは誤りである。阿羅(あら)伽耶、古寧(こねい)加耶、大伽耶、星山(せいざん)伽耶、小加耶である。また、『本朝史略』によると、太祖の天福五年(940)庚子に五伽耶の名を改めたという。一に金官、二に古寧、三に非火。その余の二国は阿羅と星山(あるいは碧珍伽耶)である」
と記す。
諸説あるが、この稿では、六加羅は、
① 金官加耶(金海) ② 阿羅(咸安) ③ 古寧伽耶(咸寧) ④ 大伽耶(高霊) ⑤ 星山伽耶(星州) ⑥ 小伽耶(固城)
として前に進みたい。
このうち、金官伽倻は『魏志倭人伝』の「狗邪韓国」とみられている。
下表は、日本と朝鮮の文献に出てくる「加羅諸国」の一覧である。そのうち、〇を付したのが、六加羅である。
首露王の出自
李氏朝鮮時代の1530年、中宗の命により李荇、尹殷輔、申公済などによって編纂された『新増東国輿地勝覧』という地誌がある。それによると、加耶山の女神の正見母主(しょうみぼしゅ)と天神「夷毗訶之(いびがじ)」との間に生まれたのが首露王という。
首露王の妃は、黄玉(こうぎょく)と伝えられる。
『三国遺事』によると、黄玉は「阿踰陀(あゆだ)国」の王女で、国王の見た夢のお告げにもとづき、船頭15人とともに船に乗って西南の方向から金官伽倻にやってきたという。
韓国では、黄玉は古代インドのサータヴァーハナ朝の王女と信じられているようである。そして、インドから韓国に至る黄玉のルートについて、ユネスコの世界文化遺産登録をめざす動きもあるという。しかしながら、歴史の本質は、空想的な世界とは別のものである。韓国の方に怒られるかもしれないが、紀元前後にインドと朝鮮半島との間に直接の交流があったとはおもわれない。
『新増東国輿地勝覧』と『三国遺事』の記事を総合的・現実的に勘案すれば、首露王と王妃の黄玉は、外部からやってきた「渡来人」であったというのがその本質的な内容というべきであろう。
辰韓を建国した赫居世(かっきょせい)
辰韓の建国については、『三国史記』に記されている。
『三国史記』は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までの紀伝体の史書である。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始され、1145年に完成した。全50巻。
『三国史記』によると、慶州一帯には、楊山・高墟・珍支・大樹・加利・高耶という6つの村があったという。
楊山の麓の蘿井(慶州市塔里)の林で、馬が嘶いていることに気がついた高墟村長の蘇伐都利(そばつり)がその場所に行くと、馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると中から男の子が出てきたので、村長たちはこれを育てた。
10歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、6村の長は彼を王とした。これが赫居世(かっきょせい)である。このとき13歳で、前漢の五鳳元(紀元前57)年のことという。
『三国遺事』にも、赫居世のことが記されている。
「6村の長が有徳の王を求めて評議していたところ、霊気が蘿井の麓に下った。白馬が跪いていたが、そこには紫色の卵があるだけで、馬は人の姿を見ると嘶いて天に昇った。卵を割ってみると中から優れた容姿の男の子が現われた。
村長たちは男の子を沐浴させると、体の中から光が出てきた。鳥や獣は舞い踊り、地は震え、日月の光は清らかであった。このことにちなんで赫居世王と名づけ、居瑟邯(きょしつかん)と号した。王となったとき赫居世は13歳で、おなじく神秘的な出生をした閼英(あつえい)を王妃とし、国号を徐羅伐(じょらばつ)・徐伐(じょばつ)とした。国号についてはあるいは斯羅(しら)、斯盧(しろ)ともいう」
母親は中国の王室の娘の娑蘇(さそ)夫人で、夫がいないのに妊娠したため海を渡り、中国から辰韓にたどり着き、赫居世とその妃閼英(あつえい)を生んだという。
『三国史記』によると、赫居世は紀元前57年に即位し、紀元後4年に死去したという。
赫居世を補佐した「倭人の瓠公(ここう)」
ところで、『三国史記』には、赫居世を補佐した倭人の瓠公(ここう)のことが記されている。瓠(ひさご)――ひょうたんを腰に下げて、海を渡ってきたという。
倭人の瓠公は、朴氏の始祖となる赫居世に仕え、のちに金氏の始祖となる金閼智を見出した。また、第4代脱解尼師今(だっかいにしきん)にも仕えたという。
倭人の瓠公は、辰韓草創期の土台を築いた重臣とみられる。
瓠公が、朝鮮半島に近い、九州北部あたりの出身であろうことは想像に難くない。
瓠を腰に下げるなど気軽な恰好で海を行き来し、辰韓の言語にも通じていたであろう。
脱解尼師今(だっかいにしきん)
第4代脱解尼師今も、倭と密接な関係がある。
というより、倭人そのものである。
『三国史記』には、次のように記されている。
「倭国の東北一千里のところにある多婆那(たばな)国で、その王が女人国の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍(あちん)浦の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世39(紀元前19)年であった。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解王5(西暦8)年に南解王の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解王が死去したときに『賢者は歯の数が多い』という当時の風説をもとに餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理王に王位を継がせた。儒理王34(西暦57)年10月に死去したとき、儒理王の遺命に従って脱解が王位についた」
脱解尼師今は、「倭国の東北一千里の多婆那国」で生まれている。
「多婆那(たばな)国」は「丹波(たんば)国」と読める。
母は多婆那国の西南一千里のところにある「女人国」の王女である。距離はともかく、九州方面を指し示しているようである。北部九州からは、出雲・花仙山の碧玉や糸魚川・姫川のヒスイなどが出土する。北部九州のクニグニと、出雲、丹波、越後との海を介した交流があったことはまちがいない。
「女人国」というのは、のちの卑弥呼に代表される倭人社会の特徴的形態を表現したものであろう。古代日本の結婚形態は、男が女のもとへ通う妻問い婚が主流の母系制社会であったろう。母系制社会では、女性が一族のトップリーダーになりやすい。
おそらく、九州と交流のあった多婆那国の王は、北部九州の王族の女性との間に子を儲けたものの、我が子かどうか疑ったのであろう。追放しようとした。母親は我が子を守るため、船に乗せて朝鮮半島に逃した。
『三国史記』と『駕洛国記』の年代について
以上の経緯およびその年代については、『三国史記』と『駕洛国記』に基づいて記したが、これを一覧表にすると、次のようになる。
時期 | 加羅(伽耶) 『駕洛国記』 | 辰韓 『三国史記』 | 奴国 『後漢書』 |
---|---|---|---|
紀元前69年 | 赫居世生まれる | ||
紀元前57年 |
赫居世・建国(13歳) 瓠公(倭人)が補佐 |
||
紀元前38年 | 瓠公を馬韓に派遣 | ||
紀元前19年 | 脱解(倭人)が漂着 | ||
紀元後4年 |
赫居世死去(75歳) 第2代南解王即位 |
||
紀元後8年 | 脱解が南解王の長女と結婚 | ||
紀元後10年 | 脱解が大輔となる | ||
紀元後24年 | 南解王死去 第3代儒理王即位 | ||
紀元後42年 | 首露王登場・建国 | ||
紀元後57年 |
儒理王死去 第4代脱解王(倭人)・即位 |
奴国王 金印を授与される |
|
紀元後58年 | 瓠公(倭人)が大輔となる | ||
紀元後80年 | 脱解王死去 | ||
紀元後102年 |
境界争いを調停 (『三国史記』) |
||
紀元後107年 | 倭国王師升等、再度漢に朝貢 | ||
紀元後199年 | 首露王死去 (158年間在位) |
まず気づくのは、加羅(伽耶)を建国した首露王の在位期間が158年という点である。
まるで、神武天皇が127歳で逝去したとする『日本書紀』のごとく、大きく引き伸ばされている。
赫居世の75歳での死去というのも、古代の平均寿命からみるとこれまた長すぎる。
そして、倭人の脱解王は、紀元前19年に辰韓の浜辺に漂着し、紀元後の57年に即位しているから、漂着後76年もかかって即位し、4年後に死去している。単純に計算しても、80を超える年齢で死去したことになる。これまた長すぎる。
倭人の瓠公に至っては、紀元前57年に即位した赫居世に仕え、紀元後58年に脱解王から大輔に任じられているから、実に115年にわたって4世代の辰韓王に仕え、100歳を大幅に超える年齢で死去したことになる。
『三国史記』の暦年は、高句麗・新羅・百済の三国時代に関しては、かなり正確とみられているが、紀元前後の辰韓に関しては、『日本書紀』に負けぬくらい古い時代に引き伸ばしている。
こうした場合、第三者の客観的な基準が求められる。
その第一の候補が、『後漢書』という中国の国史である。そのなかに、西暦57年奴国は後漢の光武帝から「印綬」を授けられたという記事がある。志賀島の金印である。
この西暦57年の記事を歴史的な基準点として上の表をみると、その同じ年に第3代儒理王が死去し、脱解王が即位している。しかも、この前後の期間に、奴の国王・首露王・脱解王・瓠公の記事が重なっている。
試みに、脱解王の即位を西暦57年とみて、安本美典氏の「古代の天皇ないし王の平均在位年数=約10年」を応用してみると、
① 赫居世――② 南解王――③ 儒理王――④ 脱解王
の間隔は約40年ということになる。儒理王が死去し、脱解王が即位したのが西暦57年とみれば、儒理王が即位したのは西暦47年、南解王が即位したのは西暦37年、赫居世が即位したのは西暦27年。赫居世が生まれたのは、紀元前後ということになる。
40年というのは、倭人の瓠公が、初代赫居世から第4代脱解王に仕えることも可能な年代幅となる。
もちろん、ひとつの試論であるが、年代を補正しつつ記事内容を尊重すればこのようなことになろう。
とかくの問題があるにしても、『駕洛国記』と『三国史記』によれば、一定期間、奴の国王・金首露・脱解王・瓠公の活躍年代が重なっている。――これが結論である。
海を介した交流
朝鮮に渡った倭人の脱解王は、金官国を経由して辰韓の地に到着し、長じて西暦57年に辰韓の王位についた。その翌年には、脱解王は、倭人の瓠公を大輔の要職に据え、
「夏五月、倭国と国交を結び、使者を交換した」
と『三国史記』に記されている。
まさしく、「倭の奴国王――瓠公(倭人)――脱解王(倭人)」との間に、倭人連合ともいうべき特別の盟約関係が築かれているようにみえる。
さらに、加羅国を建国した金首露を加えたらどうなるであろう。
金海地方からは、弥生時代中期以降の弥生式土器が出土する。北部九州の弥生文化の影響を色濃く受けている。
「辰韓―加羅―奴国」という海を介した連合――あるいは倭人の交流圏を想定すれば、奴国は「倭国の極南界」という『後漢書』の記事が現実味を帯びてくる。
後述するように、光武帝による漢の復興と即位に対して、使節団を派遣するなど、足並みをそろえて対応していることからみて、少なくとも何らかの情報ネットワークが構築されていたことはまちがいなかろう。
その前提としては、北部九州と朝鮮半島との間で、日常的な交流圏が形成されていることが必須条件である。
倭人の特徴は、優れた航海術にあった。北部九州のクニグニは、沖縄産の貝や越の国のヒスイ、朝鮮・中国の鏡なども入手している。東西南北1000㎞の範囲を航海している。
倭人は、地中海のフェニキア人のように、海を自由に航海する海人族としての特徴を備えている。
邪馬台国前史としての奴国
ふたたび繰り返すが、倭の奴国は建武中元二(57)年に中国に使節団を派遣し、後漢の光武帝から金印を授与された。
そして、その50年後の安帝の永初元(107)年に、ふたたび使節団を派遣している。
『後漢書』には、「倭国王の師升(すいしょう)等」とある。
倭の国王の師升みずから海を渡っているようにもみえる。
ところが、唐時代の『通典』には「倭面土地王師升」とあり、北宋版『通典』には「倭面土国王師升」とあることから、内藤湖南は「倭面土国」が本来の姿で、「倭面土=ヤマト」とし、白鳥庫吉は「回土=怡土=伊都」とした。
しかしながら、『隋書』には、「安帝の時、また使を遣わして朝貢す。これを倭の奴国という」と明確に書かれている。
『後漢書』では、57年の「倭の奴国王」の記事の直後にこの記事が置かれていることからみても、この場合の倭の国王も奴の国王と解すべきである。
中国が倭を代表する国王と認定したのは、「奴の国王」であった。伊都国の王でも、いまだ存在するはずもないヤマトの王でもない。
倭の奴の国王は、後漢に使者を派遣し、金印を授与された。それを裏づけるものが志賀島から出土した金印であり、文献と考古学的な遺物が一致する「古代史の定点・基準点」というべきものである。
紀元前2世紀ごろから「倭国大乱」が勃発した紀元後170年ごろまでの200~300年の期間が「奴国の時代」であったとすれば、180年ごろから勃興したとみられる邪馬台国時代がおおよそ270年までの90年程度しか存続しなかったことをおもえば、むしろ日本の古代史の解明のためには、邪馬台国前史としての奴国の解明こそがきわめて重要であると知れよう。
奴国の軽視
しかしながら、現在の考古学・古代史の世界では、奴国に対する不当で過度の軽視、あるいは蔑視が感じられる。
たとえば、田中琢氏の『倭人争乱』(集英社)は、
「確かに漢帝国は『国王』に認知しただろう。としても、はたしてかれはここにあった国家を統治する王だったのだろうか。あるいはこの『国』はどんな国だったのか。『王』はどんな王だったのか。そもそも実際に国があったのか。『王』はいたのか」
「早良の吉武、嘉穂の立岩、福岡の須玖、糸島の三雲あるいは井原、いまここに葬られた人物を『王』と呼ぶ人は少なくない。・・仮にかれらがその社会で特殊な役割を果した人物だったとしても、そのような人物の登場は、臨時に発生した事態であり、かれの社会的な役割は弥生社会に継続して存在することを保証されている種類のものではなかった。いいかえると、その社会にとって不可欠なものでなかったことは確実である。わたくしは、このような王統を維持できないかれらを『王』と呼ぶことはできない」
「国王などはいなかったし、玄界灘のかなたに渡った人物は、その地域社会を代表するものでもなく、代表する必要もなかった。海に囲まれ、渡海の技術にたけ、進取の気性に富んだ志賀島の一住民が朝鮮半島の漢帝国の出先機関に到達することに成功すれば、かれは『国王』として遇される機会もあったにすぎないのだ」
と、さんざんな書きぶりである。
漢という大帝国が、海を渡ることに成功した一介の漁民を、国王として遇するはずはない。
弥生文化をもたらした渡来人は大挙して日本に渡り、倭人は一人の漁民しか渡海できないとでもいうのか。
西暦25年に、王莽に滅ぼされた漢を光武帝が再興すると、前述したように、42年に首露王が金官伽耶を建国し、44年には韓人(馬韓・辰韓・弁韓)が後漢に朝貢し、49年からは朝鮮北方の扶余国が毎年後漢に朝貢している。そして、56年には光武帝が東方に巡幸し、山東省の泰山で封禅の儀をおこなった。
倭の奴国が使者を派遣し、光武帝から金印を授与されたのは、その翌年の57年1月のことであった。その直後の2月に光武帝が死去して明帝が即位しているから、奴国としては、間一髪、光武帝の在位期間中に間に合ったわけである。奴国の使者は歴史的な瞬間に洛陽に滞在していたことになる。
朝鮮半島の動向をみても、一漁民が紛れ込んで金印を授与されるような余地はない。奴国は、辰韓・弁韓(あるいは加羅諸国)などと情報交換をおこなって、それをもとにしかるべき使節団を編成して洛陽に派遣したはずである。「大夫」と名乗らせたのも、漢帝国に軽んじられないようにするための工夫であったろう。
奴国の王は、「王」であった。これはまぎれもない事実である。金印には「漢の委の奴の国王」と記され、『魏志倭人伝』には伊都国に「世々王あり」と記されている。早良の吉武、嘉穂の立岩、福岡の須玖、糸島の三雲あるいは井原など、北部九州のクニグニには「王」がいた。
いや、それどころではない。朝鮮半島を含む極東地域――東夷のクニグニのなかで、金印を授与されたのは、「倭の奴の国王」のみである。
漢帝国にとって、遠路はるばる海を渡ってやってきた「倭の奴の国王」は別格の王であったとみるべきである。
志賀島の金印
「漢委奴国王」の金印は、江戸時代の天明四(1784)年に偶然に発見された。
金印の真偽について、発見当時から議論が分かれ、さまざまな論争が行われたが、昭和41(1966)年の精密測定の結果、印面の一辺が平均2・35センチで、それが後漢初頭の銅尺の1寸とぴったり合うことが明らかになり、また中国雲南省で発見された前漢時代の墳墓から「滇王之印」と彫った蛇紐の金印が出土したことで、真贋論争にほぼ決着がついた。 にもかかわらず、一部の研究者から
「金印発見時の記録にあいまいな点がある」
「江戸時代の技術なら贋作可能である」
「福岡藩の儒者・亀井南冥が偽造の主犯である」
などと、金印偽造説が執拗に提起されつづけている。
宮崎市定氏は、『謎の七支刀』(中公新書・1983)のなかで、
「学界の大勢はこれを真物と認めるに傾いているようであるが、もしそのとおりだとすると、これこそ真に歴史上の一大奇蹟といわなければならない。なんとなれば一世紀中葉に後漢の天子が、倭人の国の朝貢使に与えた金印が、その後千七百二十七年たって、都城があったとも思えぬ筑前の国の海岸から、ほとんど無傷のままで発見されたことになるからである。もちろんこれに対して、金印は後世の偽作ではないか、という疑問もたえず提出されている。私が第三高等学校教授であった折の同僚、といっても大先輩にあたるが、古文書学では第一人者と称せられた中村直勝教授もその一人であった。私がこの金印についての意見を求めると、教授は事もなげに、『あやしいな。なんせ、ほんま物が二つもあるんやで』と答えられた。金印の真物が二個存在するとは、聞き捨てならぬ発言のようだが、ただし、それなりの理由があることは、私も後になって分った。昭和五十五年八月、京都高島屋において朝日新聞社の主催により、『邪馬台国への道』展が催されたが、その折の注意深い観察者ならば、なにかしら、はてなと気づくことがあったはずである。ただ、現今の私としては、これ以上はなにもいい足すことはない」
と、具体的な根拠をぼかしたまま、偽造説を強くほのめかす書きぶりである。
三浦佑介氏の『金印偽造事件』(幻冬社・2006年)は、もっと露骨である。
福岡藩の儒者亀井南冥を主犯と名指ししている。金印に恨みでもあるのかのごとく過激である。
しかしながら、金印は「漢+民族(倭)+国名(奴国)+官爵名(王)」という漢の様式をしっかり踏まえており、規格も漢時代の一寸に適合し、滇王之印の蛇紐のデザインとも類似している(高倉洋彰『金印国家群の時代』)。また、中国の印章の材質には、金・銀・銅・玉などの種類があったが、『後漢書』には「印綬(いんじゅ)」とあるのみで、漢の光武帝が授与したのが金印であったかどうかは判断できない。印綬とは、印は印章、綬とはひものことである。中国においては、金印であれば紫、銀印であれば青、銅印であれば黒色の綬とされていた。
ところが、太宰府天満宮に伝えられた『翰苑』という書物には「紫綬」と記されており、『翰苑』を読めば金印であったことがわかる。ただし、『翰苑』が太宰府天満宮で東京帝国大学の黒坂勝美によって発見されたのは、大正6(1917)年のことである。大正11(1922)年、京都帝国大学の内藤湖南によって影印・公表された。したがって、江戸時代の人がそれを知ることは不可能であった。これをもってしても、金印偽造説は成り立たない
明治大学文学部教授の石川日出志氏は、「金印(真贋)論争終結宣言―複眼的資料論から―」において、
「金印の金属組成は、蛍光X線分析で、金:銀:銅=95.1:4.5:0.5とされている(本田ほか1990)。中国戦国時代から江戸時代までの金製品の金属組成を集成してみると(第3図)、戦国~東漢(後漢)代は金99%以上から95%内外であり、『漢委奴國王』金印はその範囲内に収まり、東漢(後漢)代とみなすことはまったく問題はない。・・江戸時代に金90%以上の純度の金を入手することはほとんど困難である。また、当然のことだが、東漢(後漢)代金製品の金属組成を江戸時代に知ることはできない」
と述べられている。
金属組成は、いわば金属のDNAとでもいっていい。江戸時代の人間にとって、知ることのできない未知の領域である。
さらにつづけて、石川日出志氏は、
「最も時期を限定できるのは『漢』字である。『漢』の『氵』は『水』形で表わされる。『漢委奴國王』金印の『漢』の『氵』は、中央の縦線が直線的だが上部がわずかに左に曲がり、左右上方の短楯線もこれに従う。また、左上の短縦線は下端が左に折れるという顕著な特徴がある。西漢(前漢・筆者註、以下同じ)初期から東漢(後漢・筆者註、以下同じ)末までの『氵』の変遷を見ると(第8図)、西漢(前漢)前~中期は上部が強く湾曲するのが、西漢(前漢)後期に直線化が進み、東漢(後漢)前期から直線表現が多数を占め、東漢(後漢)中~後期には直線表現のみとなる。左上の短縦線の下端が逆L字形となるのはほとんど新莽代で、西漢(前漢)末や東漢(後漢)初めにごく稀に見られるにすぎない。この金印の『漢』の『氵』は、後漢初期以外ではありえない特徴を備えていると断言できる。・・江戸時代にもっともよく参照された顧従徳1572(1575補)『集古印譜』に収録された古印では1例も確認できないのである。したがって、『漢委奴國王』金印は東漢(後漢)初期の製品と断言でき、江戸時代にこれらの字形をデザインすることは不可能である」
と述べられる。
奴国の中核的領域
奴国のエリアやその規模について、高倉洋彰氏は『金印国家群の時代』(青木書店)のなかで、
「須玖岡本D地点墓は福岡平野の奥部、春日市にある。奴国の地と想定されている福岡平野の弥生時代遺跡は両側の山麓に沿って流れる那珂川・御笠川の流域に分布する。須玖岡本は福岡平野の中枢をなす遺跡で、両川の間に突き出してくる春日丘陵の先端(北端)にある。遺跡の集中度や遺物の出土状況などからみて、奴国の境域である福岡平野の地域社会は、弥生時代の開始後まもなく、15~20ほどのムラ(遺跡群)で構成されてくる。これらのムラは古代の郷の数にほぼ匹敵しており、平野面積の広狭や弥生時代の遺跡数、古代の郷数などを勘案すると、『延喜式』の那珂郡を中心とする福岡平野は玄界灘沿岸部の松浦郡・怡土郡・志摩郡・早良郡などほかの郡を大きく凌駕する人口密集地域であったことがわかる。それは弥生時代にさかのぼっても同様であろう。弥生時代の人口は、『魏志』倭人伝によれば、その終末期における数値が2万余戸とされている。この数値をそのまま信ずることはできないが、相当に人口が密集していた状況の反映ではあろう」
と書かれている。
『和名抄』には、那珂郡の「郷」の名が記されている。
田来(たく)、曰佐(おさ)、那珂(なか)、良人(あらひと)、海部(あまべ)、中嶋(なかしま)、三宅(みやけ)、山口(やまぐち)、板曳(いたひき)の九郷である。『和名抄』以前に、伊知という郷があったとされるから、合わせると10郷である。
その現在地を推定し、下流から上流に向けて並び替えると、次のとおりとなる。
- ①中嶋(福岡市中央区)・・那珂川河口部の微高地であった可能性が高い。博多遺跡群
- ②海部(福岡市博多区住吉)・・住吉神社あり。比恵遺跡群
- ③那珂(福岡市博多区・春日市)・・律令時代の那珂郷。郡衙が置かれた。那珂遺跡、那珂八幡古墳
- ④板曳(福岡市博多区諸岡・麦野周辺)・・のち「板付」に変化したとする説あり。板付遺跡
- ⑤伊知(福岡市南区井尻)・・『万葉集』に「伊知郷」とあり。諸岡遺跡
- ⑥三宅(福岡市南区三宅)・・斉明天皇七年の「磐瀬行宮」の候補地。野多目遺跡群
- ⑦曰佐(福岡市南区)・・曰佐=訳語(おさ)=通訳が居住していた地ともいうが、「長(王)」が居住していた可能性もある。須玖岡本遺跡に近い。
- ⑧良人(珂川市) ・・良人郷の拠点的地域として仲(ちゅう)という大字があり、「中」あるいは「那珂」とも書かれた。律令時代に那珂郷に郡衙が置かれて混乱したため、「ちゅう」と呼ばれるようになった。現人神社あり。安徳原田遺跡群。仲は縄文遺跡や弥生遺跡も多く、「奴」の発祥の地かもしれない。
- ⑨山口(那珂川市)・・「山田」の誤記とみられる。山田西遺跡群、神功皇后の裂田溝
- ⑩田来・・未詳
古代人にとって、生活用水や農業用水を確保するためには、河川の存在が絶対的な条件である。河川があれば、必ず海と山がある。洪水のない安全な丘陵地帯や微高地に集落をつくり、上流の山々から鳥や獣、木の実、山菜、木材など、豊富な山の幸を手に入れることができる。また、河川を使って、舟で多くの人と物資を運び、魚や貝、海藻などのさまざまな海の幸を手に入れ、また海からやってきた他国の商人たちと交易する。古くから開けていた地域は、必ずこのような基本的条件を備えているが、福岡平野もその条件を確実に備えている。
福岡平野には、那珂川をはじめ御笠川およびその支流が貫流し、流域には沖積平野が形成されている。河口部は博多湾に面し、志賀島や能古島に守られて海も穏やかで、中上流部には脊振山からせり出した丘陵地や台地があり、古代の人びとが住み着く基本的な条件を十分に備えている。まさに住吉(すみのえ)――住みやすい土地である。
縄文時代から弥生時代、古墳時代など各時代の遺跡も豊富で、各郷それぞれに重要な遺跡群が確認されている。
海の向こうの朝鮮半島との交流をしめす多紐細文鏡や細型銅剣・銅矛、中国との交流をしめす前漢鏡、日本海に面した出雲との交流をしめす小型銅鐸、越の国との交流をしめすヒスイ、はるか南海の沖縄方面との交流をしめす女王のイモ貝と男王のゴホウラ貝――これらに共通するものは「海」である。すべての遺物が「海を介した交流」を告げている。
奴国が勃興した最大の理由は、航海術に卓越していたことにあるといえよう。
『旧唐書』
周知のとおり、遣隋使は推古天皇・聖徳太子の時代の600(推古八)年に小野妹子らを派遣したのを皮切りに618(推古二十六)までの18年間に6回派遣された。遣隋使から得た情報をもとにまとめられた中国側の文献が『隋書』倭国伝であるが、中国の役人らが倭人の歴史にやや無関心だったためか、聖徳太子が実施した冠位十二階制度など、その当時の倭国の政治・風俗などには言及しているものの、倭国の成り立ちに関しては、『魏志倭人伝』などの中国の伝統的な文献を踏襲したものとなっている。
630(舒明二)年からは遣唐使が派遣されるようになった。894(寛平六)年までの264年の間に13回派遣されている。派遣回数については諸説があるが、ほぼ20年に一度のペースである。いまだ後進国であった日本にとって、それが精一杯であったろう。それでも、空海や最澄など、日本を代表する秀才たちを選抜して中国に派遣した。
遣唐使の派遣によって、中国側の日本に関する情報が飛躍的に増大したが、それに伴って、『魏志倭人伝』など過去の文献情報との関係で錯綜も生じた。
最大の問題は、従来のいわゆる「倭国」と新たな国号の「日本」との関係である。中国側は何度も確認したはずであるが、遣唐使らは、
「倭国自ら其の名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す」
「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」
と答えるばかりで、結局は、
「多くは自ら大を矜(ほこ)り、実を以て対(こた)えず。故に中国はこれを(どこまで真なりやと)疑う」
という結果となった。そう記しているのは、『旧唐書』である。
945年に劉昫、張昭遠、王伸らによって出帝に奏上された史書である。もと『唐書』という名であったが、『新唐書』が編纂されたのち、『旧唐書』と呼ばれるようになった。編纂責任者が途中で交代するなどして、一人の人物に二つの伝を立てたり、唐時代の前半部に偏って後半部が雑になったりするなど、歴史資料としての価値はともかく、史書としての評判はかんばしいものではなかった。
日本に関しても、「倭国」と「日本」が並立して書かれている。日本側がうやむやな説明をしたこともあってか、中国側は伝統的な「倭国」と新たな「日本」との関係を整理することができなかったらしい。
『新唐書』
それを統合したのが、『新唐書』である。北宋の欧陽脩らが編纂に携わり、1060(嘉祐六)年に成立した中国唐代の正史である。そのなかに日本伝がある。注目されることは少ないが、『新唐書』において「倭国」と「日本」が「日本」に一本化され、『魏志倭人伝』など中国側の過去の情報と遣唐使から聴取した情報が融合されている。
『新唐書』日本伝の冒頭は、次のように記す。
この『新唐書』日本伝から、次のことが読み取れる。
- (1)日本のルーツは、「古の倭の奴」であるという認識
- (2)倭国の初代の主、すなわち王は「天御中主(あめのみなかぬし)」という認識
- (3)九州の「筑紫城」を拠点としていたという認識
- (4)神武天皇が九州から「大和州に徒(うつ)した」という認識
これらのことが、いまから約1000年前に――日本で邪馬台国論争が本格的に行われるはるか以前に――中国の国史に記されたことの意味はきわめて大きい。
卑弥呼のことに関してはどういうわけか省かれているが、奴国~神武天皇までは筑紫(九州)にいたことが前提とされているから、当然、邪馬台国も九州にあったことになる。
【Ⅱ】高天原の神々――「天御中主神」を中心として
『古事記』の神々の系譜
次に、『古事記』冒頭の記事を読まれたい。
『古事記』から次のことが読み取れる。
- (1)高天原の初代の神は、「天御中主神」という認識
- (2)神々の故郷は「高天原」という認識
- (3)天御中主神からイザナギ(伊耶那岐神)までの系譜が継承されているという認識
さらにいえば、イザナギから天照大神が生まれているから、天皇家の祖神とされる天照大神もまたこの神々の系譜の流れのなかに位置づけられる。
やがて神武天皇が東遷して大和朝廷をつくるというのが、『古事記』及び『日本書紀』の共通の流れである。
『新唐書』 | 『古事記』 |
---|---|
日本のルーツは「倭の奴」 | 神々のルーツは「高天原」 |
天御中主は初主(初代の王) | 天御中主神は初代の神 |
天御中主から神武まで32世 |
天御中主神からイザナギまでの神々の系譜 (及び天照大神から神武天皇までの系譜) |
(この間に卑弥呼) | (イザナミから天照大神) |
神武まで筑紫城(九州) | 神武まで筑紫・日向 |
神武東遷→九州から大和へ | 神武東遷→九州から大和へ |
季刊『古代史ネット』創刊号において、
「もし、天照大神=卑弥呼であるならば、第一部の『卑弥呼の鏡』と第二部の『天照大神の鏡』がパラレルな関係として論じることが可能となる。それは、戦後長らく見捨てられてきた『日本書紀』『古事記』の復活を意味する。『魏志倭人伝』に大きく偏った片肺飛行から、日本の文献・伝承を加えた両肺飛行への大きな転換となる」
と述べたが、『新唐書』と『古事記』との関係は、まさしくそのことをしめしているのではないか。日中の文献が、相互補完的・パラレルな関係となっているようにみえる。
『新唐書』は、日本のルーツは「倭の奴」、つまり「奴国」と記し、『古事記』は「高天原」と記す。本来の高天原は、奴国ということになる。
『新唐書』は、天御中主を「初主」――「初代の王」と記す。中国で初めて知られた倭国の王は、『後漢書』に記された「奴の国王」であり、金印に刻まれた「奴の国王」である。それが中国の公式記録である。
ということは、『古事記』もまた奴国の時代から筆を起こしていることになる。
高天原に最初に登場する天御中主は、奴の国王のことではないか。
「中=奴」(中国の漢時代の上古音では、いずれも「nag」と発音)という関係にあるのではないか。
さらにいえば、福岡平野を流れる「那珂川」や博多湾に面した「那の津」、那珂八幡神社などの「那珂」は、「奴」あるいは「中」に由来するのではないのか。
「奴」=「中」=「那珂」なのではないのか。
以上のことを総括すれば、日本の古代史は、
「天御中主=倭の奴の国王」
からはじまっているということになる。
「天照大神=卑弥呼」
については、ご承知のとおり安本美典氏によって、長年にわたる研究が進められている。
この二つの観点から、日中の文献を総合的に分析していけば、新しい古代史の扉が開かれるのではないか。日本の文献・伝承を軽視する戦後の風潮から脱却することができるのではないか。
『邪馬台国100問勝負』
いまから約25年前――平成11年に、書店で面白い本を見つけた。
『邪馬台国100問勝負』(出窓社)という本である。著者は「杉並良太郎+歴史100問委員会」とある。
「杉並は良いだろう」ととぼけたペンネームで、「100問委員会」もでっちあげの委員会のように思ったが、迷わずその本を購入した。
著者の杉並良太郎にについて、インターネットで検索してみたところ、
「杉山光男(すぎやま・みつお、1956年~)は、日本の作家、劇画原作者、歴史研究家、ゴルゴ13研究家。宮城県石巻市生まれ。東京大学文学部西洋史学科卒業。出版社勤務を経て、1990年より執筆活動を始める。また、歴史研究家として、テレビ東京『新説!?みのもんたの日本ミステリー!〜失われた真実に迫る〜』『新説!? 日本ミステリー』にしばしば出演。『武田信玄と上杉謙信は信長に暗殺されていた』『武田信玄と徳川家康は親子だった』『佐々木小次郎はキリシタンだった』『千利休は家康の指令で秀吉暗殺を企んだ』『篤姫は将軍家定と大老井伊直弼暗殺の黒幕だった』等の奇説を展開している。ゴルゴ13研究家としては、書籍やWebサイト『THEゴルゴ道』等の企画・執筆・解説等を担当。2008年6月には、MBSラジオ「ゴー傑P」にゲストとして出演した」
などとある。
杉並良太郎――こと杉山光男氏は、多彩な分野で活躍する異能の人であるらしい。
『邪馬台国100問勝負』はじめて読んだとき、ページをめくるたびに大笑いしたことを鮮明に記憶している。
基本的に安本美典氏の説を踏襲しつつ、軽妙な筆致で古田説や近畿説を揶揄・論破している。その筆さばきが痛快極まりない。今でも時おり書棚からこの本を取りだし、ページをめくっては一人笑いをしている。
そのなかで、妙に気になったのは、第11問である。
次のように書かれている。
この本を読むまでは「倭の奴の国王って何者」と考えたこともなければ、そのことに触れた本を見たことも、読んだこともなかった。
ところが、杉並良太郎――こと杉山光男氏は、「ここでは詳しい論証は省くが、結論だけ言ってしまえば」とさらりと述べ、「天之御中主=アメ一族の那珂の主」であり、「天之御中主=倭の奴の国王」という結論に到達されている。
どのような論証を経てそのような結論を出されたのか。杉並良太郎氏の他の著作にもあたってみたが、どうやら、その鋭敏な直観力をもとに、そのような結論に到達されているようである。
今回、『新唐書』と『古事記』の比較によって、筆者も「天御中主=倭の奴の国王」という結論に至ったが、杉並良太郎――こと杉山光男氏のご感想はいかがだろうか。それを聞いてみたいものである。
神々の系譜
以上は、『古事記』による神々の系譜をもとに考察を進めたが、実は『日本書紀』の系譜はそれと異なる。『日本書紀』には本文のほか、「一書」という形でさまざまな異説が羅列されている。それを表にすると下記のとおりとなる。
これをみると、『日本書紀』よりも『古事記』のほうがはるかに網羅的である。
そして、『古事記』は、高天原に現われた「天御中主神」を日本の神々のルーツに位置づけている。
『新唐書』も、「天御中主」を倭国の「初代の主」と記している。
ところが、『日本書紀』では本文および一書を通じて、圧倒的多数で「国常立尊」がトップに位置している。
『古事記』は「天御中主」をトップに位置づけ、『日本書紀』は「国常立尊」をトップに位置づけている。
ちなみに、『古語拾遺』も「天御中主」をトップに位置づけている。『先代旧事本紀』も、「天讓日天狹霧国禪月国狹霧尊」なる神をまず登場させているが、「天御中主尊」を実質的にトップに位置づけている。
大勢としては、『古事記』の「天御中主」と『日本書紀』の「国常立尊」に区分される。
さらにいえば、『古事記』では、高御産巣日神(タカミムスビ)が天御中主の次順位の神とされているが、イザナギの次順位に位置する天照大神の子の天忍穂耳命とタカミムスビの娘の万幡豊秋津師比売命が結婚していることからみて、タカミムスビと天照大神は、ほぼ同世代に位置すべきであろう。『古事記』はタカミムスビの順位を誤っている可能性がある。
これはどういうことなのか。神々の系譜について、『古事記』は、
- 天御中主神から天常立神までの五代を「別天つ神(ことあまつかみ)」
- 国常立神からイザナギ・イザナミまでを「神世七代」
と称し、独神の二柱(国常立神と豊雲野神)はそれぞれ一代と数え、それ以降の男女ペア神は、「二神を合せて」一代と数えている。
神 名 | ||
---|---|---|
別天つ神 | 1 | 天御中主神 |
2 | 高御産日神 | |
3 | 神産巣日神 | |
4 | 宇摩志阿斯訶備比古遅神 | |
5 | 天常立神 | |
神世七代 | 1 | 国常立神 |
2 | 豊雲野神 | |
3 | 宇比地邇神・妹湏比智邇神 | |
4 | 角杙神・妹活杙神 | |
5 | 意富斗能地神・妹大斗乃弁神 | |
6 | 於母陀流神・妹阿夜訶志泥神 | |
7 | 伊耶那岐神(イザナギ)・妹耶那美神(イザナミ) | |
天照大神 |
「別天つ神(ことあまつかみ)」は、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々とされ、そのうち、天御中主神・タカミムスビ(高御産日神)・カミムスビ(神産巣日神)は「造化三神」とも呼ばれる。
ところが、物部氏によって編纂されたとされる『先代旧事本紀』に記された神々は、次のとおりである。
神 名 | |||
---|---|---|---|
天祖:天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊 | |||
神世七代 | 別天つ神 | ||
1 | 天御中主尊(天常立神)・可美葦牙彦舅尊 | ||
2 | 国常立尊・豊国主尊 | 1 | 天八下尊(浮経野豊買尊・豊齧別尊) |
3 | 角杙尊・妹活杙尊 | 2 | 天三降尊 |
4 | 埿土煮尊・妹沙土煮尊 | 3 | 天合尊(天鏡尊) |
5 | 大苫彦尊・妹大苫辺尊 | 4 | 天八百日尊 |
6 | 青橿城根尊・妹吾屋惶城根尊 | 5 | 天八十万魂尊 |
7 | 伊弉諾尊(イザナギ)・妹伊弉冉尊(イザナミ) | 6 | 高皇産霊尊(高魂神・高木命) |
天照大神 |
『古事記』の系譜と似ている部分もあれば、そうでない部分もある。
決定的に違うのは、「神世七代」と「別天つ神」が、並列の別系統のグループに区分されていることである。タカミムスビ(高皇産霊尊)の座り心地もいい。
「神世七代」グループが本流で、「別天つ神」グループは、天御中主から分岐した傍流のようにみえる。
『古事記』は直列のなかに並列を混入させたため、タカミムスビの居場所が不自然になってしまったのではないか。
考えてみれば、この系譜のおおもとが奴国の王の系譜だとすると、紀元前後から口伝により継承され、『古事記』『日本書紀』に記載されるまでに、約700年が経過している。
これほどの長い年月が経過すれば、天皇家に伝わる伝承も含め、物部氏や多くの古代氏族の伝承がバラバラになるのも当たり前である。逆にいえば、バラバラであるからこそ、古代の伝承を伝えているともいえる。大和朝廷の役人が机上でこしらえたとする戦後史学の立場からみれば、こんなバラバラの系譜をつくる必要はない。一つこしらえるだけで事足りる。
結論的にいえば、『古事記』『先代旧事本紀』とも、「天御中主」を根本に据えている。
そして、神世七代はイザナギ・イザナミで終焉を迎えることでも一致している。
イザナギは筑紫の男神、イザナミは出雲の女神である。『先代旧事本紀』によると、タカミムスビ(高皇産霊尊)もそのころの神である。そして、天照大神が登場する。
イザナギまでの「神世七代」の系譜は奴国の王の系譜で、タカミムスビに至る「別天つ神」の系譜は、奴国を離れ、新天地――たとえば奴国南部の筑紫平野や東方の豊の国などに移り住んだ支族の系譜なのではないか。
『古事記』は直列のなかに並列の神を混入させているが、『先代旧事本紀』もまた「神世七代」の前に置くべき区分を落とすとともに、天常立神を脱落し、国常立尊・豊国主尊を男神同士のペア神にするなど、『古事記』とは異なった変容をしめしている。
ひょっとしたら、『古事記』の「神世七代」の前に、「天御中主」からはじまる直列の「天つ神」とでもいうべき系譜があったのかもしれない。『古事記』の構成と『先代旧事本紀』の構成を比較するとそのようなことがうかがわれる。
長い時間の経過のなかで「別天つ神(ことあまつかみ)」という並列の区分が直列の区分に混入した伝承をもとに、『古事記』はタカミムスビ(高御産日神)とカミムスビ(神産巣日神)を直列の区分のなかに挿しはさんでしまった。これが『先代旧事本紀』と『古事記』との差異の大きな原因のようにおもわれる。それ以外にも、それぞれの伝承に差異があり、ある神は脱落し、ある神は名が変わるなど、結果として、『古事記』と『先代旧事本紀』の系譜が、似ているようで似ていないものとなってしまった。
しかしながら、両者とも、「天御中主」をトップに置き、「イザナギ・イザナミ」を末尾に置いていることでは共通している。動かすことのできない特別の伝承の力が働いていたのであろう。
『日本書紀』と「国常立尊(くにとこたち)」
それにひきかえ、『日本書紀』は「国常立尊」をトップに置いている。
前述したように、『新唐書』は公式記録として、「天御中主」を奴国の「初主」――倭国の初代の王と位置づけている。西暦57年に金印を授与されたとみられる「奴の国王」のことである。
その「奴の国王」の次に中国で公式に記録されたのは、50年後の安帝の永初元(107)年に中国を訪れた「倭国王の師升」である。日本側にとって、50年ぶりの大偉業ともいえる。
この王についても、特別の伝承の力が働くはずである。それが、『日本書紀』のなかで神々の系譜のトップに置かれた「国常立尊」なのでないか。
『古事記』は、神名はともかくとして、天御中主から国常立尊の直前までの神々を5代で整理している。このことに着目して、これまた安本美典氏の「古代の天皇ないし王の平均在位年数=約10年」を当てはめれば、5代×10年は、ちょうど50年となる。
『日本書紀』が国常立尊をトップに置いた理由はもちろん記載されていないが、いずれにしろ、そうせざるを得ない特別の伝承の力が働いたのではないか――そのように考えている。
(まとめ)
第一部の邪馬台国前史としての奴国――「漢の倭の奴の国王」
においては、倭人の活動領域が九州北部から朝鮮半島南部にまたがることを論じ、さらには「辰韓―加羅―奴国」という海を介した倭人連合の可能性を論じた。
そして、『新唐書』の日本に対する認識は、
- 日本のルーツは、「古の倭の奴」であること
- 倭国の初代の主、すなわち王は「天御中主(あめのみなかぬし)」であること
- 九州の「筑紫城」を拠点としていたこと
- 神武天皇が九州から「大和州に徒(うつ)した」こと
など、邪馬台国を含め、古代の舞台が筑紫(九州)であったことが約1000年前に中国で確定していたことを紹介した。
あわせて、金印の真正であることについて、最近の動向を踏まえて論じ、奴国の中核的な領域の古い地名を紹介した。
第二部の高天原の神々――「天御中主神」を中心として
においては、『古事記』冒頭の記事が、
- ①高天原の初代の神は、「天御中主神」ということ
- ②神々の故郷は「高天原」ということ
- ③天御中主神からイザナギまでの系譜が継承されていること
であり、『新唐書』と『古事記』の比較によって、「天御中主=倭の奴の国王」の可能性が高いことを論じた。
そして、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』などの神々の系譜を論じ、「国常立尊」が永初元(107)年に中国を訪れた「倭国王の師升」の可能性があることについて論じた。
繰り返すが、創刊号において述べたように、「天照大神=卑弥呼」であるならば、「卑弥呼の鏡」と「天照大神の鏡」がパラレルな関係として論じることが可能となる。
今回の第2号においても、「天御中主=奴の国王」であるならば、第一部の「邪馬台国前史としての奴国」と第二部の「高天原の神々」もまたパラレルな関係となり、右手に日本の文献、左手に中国文献を掲げて、日本の古代史を論じることが可能となる。
この観点に立った日中のパラレルな略年表の試みは、下記のとおりである。対比せられたい。
本稿の「奴国の時代」シリーズは、このような「可能性」――ないし、「仮説」を追求していこうとするものである。
もとより無謀な試みではあるが、コロナという非常時のなかで、このようなことに挑戦する時間が持てることに感謝しつつ、一歩一歩前に進んでいきたいとおもう。
著者紹介
- 1947年(昭和22)年福岡県柳川市生まれ。
- 九州大学法学部卒
- 歴史作家、日本古代史ネットワーク副会長
- 福岡県文化団体連合会顧問
- ふくおかアジア文化塾代表
- 立花壱岐研究会会員
- 元『季刊邪馬台国』編纂委員長
- 西日本新聞TNC文化サークル講師
- 朝日カルチャーセンター講師
- 大野城市山城塾講師
- 〈おもな著作〉
-
- 『志は、天下~柳川藩最後の家老・立花壱岐~(全5巻) 』(1995年海鳥社)
- 「小楠と立花壱岐」 (1998年『横井小楠のすべて』新人物往来社)
- 『立花宗茂』 (1999年、西日本新聞社)
- 『柳川城炎上~立花壱岐・もうひとつの維新史~』 (1999年角川書店)
- 『西日本古代紀行~神功皇后風土記~』 (2001年西日本新聞社)
- 『筑後争乱記~蒲池一族の興亡~』 (2003年海鳥社)
- 『九州を制覇した大王~景行天皇巡幸記~』 (2006年海鳥社)
- 『天を翔けた男~西海の豪商・石本平兵衛~』 (2007年11月梓書院)
- 「北部九州における神功皇后伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』97号、98号)
- 「九州における景行天皇伝承」 (2008年、『季刊邪馬台国』99号)
- 「『季刊邪馬台国』100号への軌跡」 (2008年、『季刊邪馬台国』100号)
- 「小楠と立花壱岐」 (2009年11月、『別冊環・横井小楠』藤原書店)
- 『龍王の海~国姓爺・鄭成功~』 (2010年3月海鳥社)
- 「小楠の後継者、立花壱岐」 (2011年1月、『環』藤原書店)
- 『天草の豪商石本平兵衛』 (2012年8月藤原書店)
- 『神功皇后の謎を解く~伝承地探訪録~』 (2013年12月原書房)
- 『景行天皇と日本武尊~列島を制覇した大王~』 (2014年6月原書房)
- 『法顕の旅・ブッダへの道』 (『季刊邪馬台国』に連載)
- (テレビ・ラジオ出演)
-
- 平成31年1月NHK「日本人のおなまえっ! 金栗の由来・ルーツ」
- 平成28年よりRKBラジオ「古代の福岡を歩く」レギュラー出演
- 第2号 目次
-
- 巻頭言……河村哲夫
- 年輪年代法の問題点――弥生古墳時代の 100 年遡上論は誤り……鷲﨑弘朋
- 特集「水行十日陸行一月」をめぐって
- 弥生時代の開始時期……丸地三郎
- 奴国の時代 ①……河村哲夫