ビジネスの教訓は、すべて音楽業界で学んだ―13 | ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

ソフィアの森の「人生は、エンタテインメントだ!」

音楽が好きで、映画が好きで始めたブログですが、広告会社退職後「ビジネスの教訓は、すべて音楽業界に学んだ」を掲載しました。


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■エンタテインメントな人たち-13

 

コンチネンタル制作宣伝部はかつて北原佐和子を輩出したレーベルだが、この頃は大人向けのAOR路線にシフトしていて、部長も牧野さんから三坂さんに交代していた。多くのアーティストを担当したが、その中でも忘れられないのは「おおたか静流」さんとの仕事だ。彼女は数多くのCMソングを歌ってきた歌のプロだが、彼女に古今東西の名曲をカバーさせようという企画があり、2作目でザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」をカバーした(19921月)。それが本木雅弘主演の映画「シコふんじゃった」の挿入歌に使われスマッシュヒットし、彼女のアルバム「Repeat Performance」が注目を集めた。その縁から脚本家の山田太一氏と知り合い、彼の推薦でTBSテレビのドラマでも使ってもらったが、このとき山田さんと交わした自筆の手紙は私の宝物として今も手元にある。Eメールなどない時代の貴重な宝物である。さらにおおたかさんの担当ディレクター杉田亘祥さんに紹介されたNHKテレビ音楽班の責任者島田源領プロデューサーにもお世話になった。普段はなかなか出演できない音楽番組にも出演させてもらい、紅白歌合戦に出ないか?というお誘いまで頂いた(現実には大手プロダクションの出演枠があって、できなかったが)。

こういう人たちのお陰で「Repeat Performance」は大人の音楽ファンの支持を得た。

 

 

 

おおたかさんとの仕事ではヒット曲創りのど真ん中ではなく、制作者自身が鼻を利かせて見つけた小さな金脈を深掘りして研き、宣伝マンがターゲットとなる顧客に伝えるプロモーションを着実に実施すれば、その企画を支持してくれる人の協力によりターゲット層に届くことを学んだ。みんなが両手を上げて賛同するようなヒットの王道を狙うあまり肝心の企画制作やプロモーションが疎かになってはいけないと肝に銘じた。脚本家の山田太一さんやNHKプロデューサーの島田源領さんとの出会いは良質な音楽作品を地道にプロモーションすることの大切さを私に教えてくれた。そして、この二人を私に紹介してくれたディレクター杉田亘祥さんと同じ部署で仕事をすることができたことに感謝している。

 

 

ところで、このコンチネンタル制作宣伝部には私と同姓の森直美さんという名物女性ディレクターがいたが、彼女の制作するアルバムは大ヒットこそしないものの、知的で、クリエイティブで、個性的なものが多く私は大好きだった。彼女はキングレコードの洋楽部出身で、シャンソンやカンツォーネのディレクターとして業界で名を馳せた人だから、あちこちに親しい音楽関係者がいる。そんな彼女に多くの人を紹介してもらったが、私を同伴すると彼女はいつも「彼も私と同じ森というの。でも親戚でもなんでもないのよ、わたしたち肉体関係があるだけだから」と私を紹介した。これはうけた。頭がよく、こういうオチャメな人が当時の音楽業界には多かった。そして、彼女に言われた言葉に忘れられないものがある。それは「オリコンのヒットチャートに入るような作品は、人間でいえば右手のことよ。それは他の制作部門に任せて、私たちは左手の音楽を作りましょう。だって全てが右手だけになったら人間は機能しないでしょう。右手がダメになったとき左手が頑張れるように準備しておくのも私たちの仕事だから。でも、左手だっていつかは右手になりたいと思っているのよ」当時のコンチネンタル制作宣伝部の存在意義を見事に言いあてていた。彼女が制作した芥川賞作家新井満氏のアルバム「尋ね人の時間」や女優藤真利子さんのアルバム「浪漫幻夢」はいま聴いても全く古さを感じさせない名盤だと思っている。

 

 

 

 


 

話を少し前に戻すが、そんな森直美さんにもヒット曲がある。それが池田聡の「モノクローム・ヴィーナス」(19868月発売)だ。オリコン最高9位で33万枚のヒットはデビュー・シングルとしては上出来だ。

 

 

 

 

 

 

当時私はBAIDISの販促課長を務めながら、コンチネンタル・レーベルに所属する池田聡も担当していた。池田聡は大手芸能プロダクション田辺エージェンシー(後に暖簾分けしてケイダッシュ)の所属で、何よりも憂いのあるヴォーカルに都会的なセンスを加えたデビュー曲「モノクローム・ヴィーナス」が秀逸だった。原盤制作ディレクターは現在田辺音楽出版社長を務める工藤史人さんだったが、姉御的存在の森直美さんとのコンビネーションは抜群で、池田聡はこの二人の力がなければヒットしなかったと思う。デビュー時の所属だった田辺エージェンシーには小野沢さんという大変頭の切れる戦略家がいて、池田聡のデビューに際し彼が仕掛けたのは同じ事務所に所属する大先輩小林麻美さんとのコラボだった。まずオシャレなジャケット写真は小林麻美さんが撮影したもので、彼女が出演するスズキアルトのCMに「モノクローム・ヴィーナス」をイメージソングとして使用した。だから池田聡が取材を受けるときには必ず小林麻美さんの話題に触れる。これで、「大学の理工学部を出たばかりの草食男子然としたルックスの優男を奔放にあしらう大人の女性」というイメージが出来上がったのだ。上手いな~と感心した。

 

ケイダッシュは、今ではバーニングプロと並ぶ大手芸能プロダクションだが、その頃は親会社の田辺エージェンシーから暖簾分けする直前で、スタッフも若い人が多く、仕事をしていても楽しかった。その縁から毎年ケイダッシュグループの総帥である川村会長が主催する新年誕生パーティーには初回から今日まで(2015年)の14年間欠かさず出席させてもらっている。また、今では田辺音楽出版社長の肩書を持つ工藤さんとの交流はその後も続き、2014年、私がクオラスの役員定年で退任したときには彼の主催で慰労会まで催してもらった。エンタメ業界には情に厚い人が多い。(その工藤さんも2020年2月に59歳の若さで他界した。病名は癌

 

しかし、個人的には40歳を過ぎたことと、BAIDISで思いっきり燃焼した気持ちがあったのだろう、新しい部署では正直なところいまひとつ仕事に打ち込めなかった。その後東元さんはテイチクを退社し、後にイースタンゲールという新しいレコード会社を興すことになる。BAIDISで共に仕事をしてきた真田さんや高木さんや何人かの宣伝部員も相次いで会社を去り、他のレコード会社に移ってしまった。みんなかどうかは分からないが、東元さんの後を継いだ松下電器からやってきた新社長とソリが合わずに辞めていく中堅社員も多かった。私は新社長がたまたま大学の先輩だったこともあり、我慢して1年間彼の下で仕事をしたが、前職が松下電器の南米にある某国の工場長だった新社長にはエンタテインメンな気質が微塵も感じられなかった。多分松下電器という至極まっとうな大企業で、そこそこ出世したものの、役員になれそうもない人がテイチクに社長として派遣され、テイチクを「ふつうの会社」にしようと努力したのだと思う。でも「ふつうの会社」って一体何だろう?ネクタイにスーツを着用した社員が毎朝定時に出社して夕方定時に帰る会社?コスト管理が厳格で規律を守る社員が多い会社?報連相が徹底されていて連絡ミスのない会社?部下が素直に上司の意向に従う会社?でもレコード会社って、いやエンタテインメント企業というのは、そもそも「ふつうの会社」ではないのに新社長は勘違いしてしまったのかもしれない。編成会議でディレクターに質問するのはきまって「ところでこの曲は何枚売れるのですか?」だった。数字を掲げて社員を走らせるだけでは、社員のモチベーションは上がらず、暗く疲れてしまう。エンタテインメント精神旺盛な東元社長の下で明るく仕事をしてきた後だけに余計そう感じたのかもしれないが、これでは私がテイチクに残る意味はない。リスペクトできない経営者の下で仕事をすることほど辛いものはないし、何より時間の無駄になると考えた。

 

 

そんな私の反発心を社長も感じたのだろう、199312月、仙台営業所長へ異動の内示がでたのを機に、翌19941月末で21年間勤めた愛すべきテイチクを去った。街の占い師に見てもらったら「子牛の天中殺」なので転職は控えたほうがよいと言われたが・・・・・前年に父を亡くしていた私は43歳になっていた。

 

 

そうなんです、

教訓―14

エンタテインメントな人は、リスペクトできない上司と仕事をしたくないと腹をくくっている人が多いのです。

 

レコード会社に勤める人も家族を持つ人間ですから、生活のために嫌いな上司や仲間と仕事をしなければならないということは普通のサラリーマンと同じです。ただ、音楽が好きで、人が好きでこの仕事を始めたという人が当時は多かったので、気の合う人とはとことん付き合うし、ヒット曲を連発するようなアーティストを抱えたチームは自然と結束が固くなるのです。ヤクザではありませんが、親分は子分の面倒をよく見るし、子分は親分に忠誠を誓うという人間関係が生まれやすかったと思います。「ボスが辞めるときは自分も辞めるとき」と腹をくくっていた人がエンタインメント業界には多かったのでしょう。タレントや上司の移籍に伴ってスタッフが一緒に会社を変わるということがよくありました。実際、テイチクでも同じような事件が起きたのです。1982年、当時テイチクのドル箱だった八代亜紀の担当プロデューサー(部長)がディレクター、ミキサー、宣伝マンを引き連れて新興のセンチュリー・レコードに移籍してしまった。当時の八代亜紀は1979年に「舟唄」がヒットし、翌年には「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞したときでしたから、大スキャンダルとなり、屋台骨を失ったテイチクは大丈夫か?と社内に動揺が広がりました。一体何が原因なのか当時の私には分かりませんでしたが、タレントを軸にした親分子分の絆の深さを垣間見たような気がします。ある程度の地位に上れば、リスペクトできない、あるいは自らの成果に報いてくれない経営者とは仕事をしたくないという覚悟を持つ人が当時のエンタテインメント業界には多かったのではないでしょうか。私にとってリスペクトできる経営者というのは、東元さんのように、音楽業界のプロとして企業を取り巻く環境を理解し、社員の声に耳を傾け、将来を見据えた戦略を立て(あるいは立てさせ)、夢の実現のために自ら行動する人のことでしたから、「目先の売上数字だけを掲げて社員にプレッシャーをかけるだけの当時の経営者」にはついていけませんでした。売上数字だけを掲げる経営者の下では社員は暗く疲れてしまい、モチベーションが下がってしまうのです。案の定、私たちが辞めた後、テイチクの業績は低迷し、何度かのリストラを経て立ち直るまでにかなりの時間を要したのです。1992年に300億円近かった売上も直近の2015年にはその5分の1ほどになってしまい、エクシングという通信カラオケの大手企業に買収されてしまいました。

 

 

ちなみに1993年にどんな出来事があったかを調べてみると・・・・・

 

*皇太子・雅子さまご結婚

*ロスタイムに失点でW杯出場を逃す(ドーハの悲劇)

*新幹線「のぞみ」が山陽新幹線で運行開始

*曙が外国人力士として初めて横綱に

*インターネットが流行語に

*小説「マジソン郡の橋」がベストセラーに

*チャゲ&飛鳥が歌う「YAH YAH YAH」が年間No.1ヒット曲に

 

そんな年に私はテイチクを去った。

 

19914月、経済企画庁が好景気は60年代後半の「いざなぎ景気」を超えたと発表しながら、翌92年には「都市銀行など21行の不慮債権は21兆円を上回った」と発表するなど、時代の潮目が一気に変わり、日本経済のバブル崩壊が始まった。我が世の春を謳歌していたレコード業界にも暗雲が立ち始めていたのに、当時それに気づく人はまだいなかった。