2月13日(金)午前、モリス大佐ほかとの会談
10時前、ホテルから歩いて2分もかからない新嘉坡中華総商会(Singapore Chinese Chamber of Commerce and Industry)の荘厳なビルへ。9階に上がって、受付の女性にNancy Chewに会いたいと告げる。新米のナンシーは、上司の陳秀娟(Ms. Tan Siew Kiang)さんに従って現れた。
「シンガポール中華総商会の正面」
案内された小会議室には、モリス大佐ら4人のおじさんが待っていた。
Col (ret) John Morrice(退役大佐)
Maj (ret) Roland V. Simon(退役少佐、海軍出身)
Maj (ret) Goh Say Fong(退役少佐、広報)
Mathew Lew(カメラマン、会談中、写真パチリパチリ)
モリス大佐は、SAFVL(Singapore Armed Forces Veterans’ League=シンガポール統合(陸海空)退役軍人会)の会長だ。アジアパシフィックにも同様の組織があり、別にASEANの下部組織もある。また世界の82か国119の退役軍人会にも加わっていて、いずれでもモリス氏は重鎮。日本からも参加している(自衛隊OB団体にちがいない)、あんたがたもそうした退役軍人会からきたのかと、インド系大佐はこちらの来意も聞かず立て板に水。お土産として、同会のロゴ入りのカップ、盾、2007年と2008年の年報などもらう。
インド人の話に割って入り、タンさんの口添えもあって、やっと当方の口上をいう機会を与えられた。こうこうで、2010年2月に8MPPCを予定しているが、ついては誰か華僑虐殺を証言してくれる存命者を紹介してほしいと、No.4/5/7報告集など渡しつつ。それなら、SCCCIに聞くのがいいとの返事。いや、SCCCIに同趣旨を依頼したら、モリス大佐を紹介されたんですわ。タンさんも苦笑。結局、誰かいないか探してみようという話になった。
大佐は机に置いたPCを前に、早うやらせろという雰囲気。何やら発表したいのだ。ひととおり自己紹介やら来意を告げ、サイモン少佐(父親が篠崎護氏(*)を知っていて、おそらく「良民証」をもらった由)とフォン少佐(親父さんは親蒋介石で、重慶政府あての寄金集めなどし、その勲章は屋根裏に隠していたのに日本軍に見つけられ、逮捕されてチャンギ海岸で処刑された由。昔のことは許すことができるけど、忘れることはできないとニコニコしながら強調した)が短く挨拶し終わったら、堰を切ったようにしゃべりだした。
パワーポイントを使った、「2戦」(第二次大戦)のシンガポールにおける英軍防衛戦の説明である。日本軍の動向については一部誤りもあったが(例:1941年12月8日、コタバルに近衛師団、パタニに第5師団、シンゴラに第18師団が上がったなど**)、英側の対応がいかにお粗末であったかをとうとうと話す。また前日見てきたKranji BeachやSarimbun Beach、それに午後予定しているKent Ridge ParkやLabrador Batteryにおける防衛軍の様子を、設置してあった大砲の仕様の説明などまじえながらえんえん2時間。質疑のなかで、近衛師団上陸地点と第5師団上陸地点のほかに、第18師団(牟田口廉也中将)があがった場所を示す銘板はないものか尋ねたところ、それはない、同地は軍の訓練場に使われていることでもあるし、とのこと。これは観光庁などに問い合わせるよりも確かな情報だったといえよう。
*林謀盛(Lim Bo Sen、1909-1944):日本軍占領下のマラヤで、林謀盛は東南アジア連合軍司令部136部隊という抗日軍に属し、国民党政府からは大佐に任命された。しかしイポー郊外で日本軍に逮捕され、バツガジャの刑務所で獄死。戦後、英雄の遺体はシンガポールに運ばれ、イギリス政府と華僑団体による公葬がおこなわれた。
**ブキティマの記念碑:1995年の戦後50周年を記念して、シンガポール政府が整備した記念碑の一つ(先述のKranji Beachや、Sarimbun Beachなども同じ)。シンガポール攻略のさいの激戦地である。
***フォード工場あとの記念館(Old Ford Factory):1942年2月15日、白旗をあげたイギリス軍のパーシバル中将と、第25軍司令の山下奉文中将が降伏調印式をやった会場跡。数年まえに開館された。
****Ying Lei:連合晩報の記者、出身は南京。2005年の2.15慰霊祭のとき取材を受けていらいのお知り合い。2007年、上海出身でCity Bank勤務のZheng Yu Dongと結婚した。
「中央がYu Dong、その右Ying Lei」
2月15日(日)午前、血債の塔記念式典
ホテルの右斜め前にあるセント・アンドリュース教会の敷地をハスに横切って、残留組の瀧と小野木が「会社に行く格好で」血債の塔式典へ。集合時刻の午前9時に15分ほど前、まだテント下は2分ほどの入り。SCCCIのNancy Chewをさがして席を聞いたら、なんと左右中央と並ぶ椅子席のうち、左の最前列から3つ目。背もたれにはMPPCと書いたステッカー。前の2列は宗教代表、当方の右横ならびはおととい会ったSAFVLのモリス大佐とフォン少佐の席である。
主賓たるDr. Lee Boon Yang, Minister of Information, Communications, & the Arts(情報通信芸術大臣)が10分ほども遅れて到着したあとの式典は、例年通りの運びで滞りなし。
はじまる前と終わったあと、モリス大佐が同僚退役軍人の誰彼や、宗教代表のアドミのような人(当方の左横)などをつぎつぎと紹介してくれる。SCCCI議長Mr. Soon Peng Yamともはじめて握手した。大臣にも紹介してくれた。儀礼的な挨拶を交わし、一緒に記念撮影などしたが(撮ったのは先方)、それでも終わらず何か話しかけてくるので、得たりやと応じた。
日本政府が、華僑虐殺について正式に謝罪していないのは、一民間人の立場ながらはなはだ遺憾である。きちんと謝罪し、必要な補償もしないかぎり、日本は国際社会にまっとうには受け入れられないものと思う、うんぬんと小野木。
大臣はこう引き取る。たしかに。もっともシンガ政府としては日本に何も要求はしていない。だが人々は別の感情をもっているだろうね。
謝罪と補償は日本政府、ひいては日本全体が自ら決めて、申し出るべきことだと思う。もっかそうはなっていない段階で、われわれのグループは少数ながら、この式典に民間人として参列しているしだいである、と当方。
大臣:たとえばドイツを見ると、大統領がナチによる虐殺について正式に謝罪し、また補償金も支払っている。それとの違いは、はっきりしているね。
きさくに、よくしゃべる人だ。この見解、2003年の第5回MPPCで2.15式典に参加したとき、当時の同副大臣Mr. David Limがいったのと重なる(同報告集p-64右上写真の英文エトキ)。表向き、儀礼的な国家間の付き合いや経済関係はもつものの、「2戦」の総括がないかぎり心底打ち解けた関係にはならないよと、率直にいっているのにほかならない。これはシンガに限った話ではないであろう。
ホンチャンでも、概ねこのように動くのがよいのではないか。つまり、2月15日(2010年は月曜)の式典参加のあと、お色直し、歩いて(またはバスで)以上のところを回り、仕上げに飲茶などたしなんだあと中華街を各自ひやかし、ホテルで荷物を回収して空港に向かうのである。今回行かなかったところでは、海寄り、エリザベスウォークのなかにある林謀盛(Lim Bo Sen)の記念碑も、必見であろう。