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8MPPCの募集案内
■8MPPC下見報告

 2009年2月11日(水)から15日(日)まで、第8回MPPCの下見のため、つぎの4人がシンガポールに行ってきた。行程は、本番日程を意識して、おおむねそれに沿うように行動した。以下は、4人の合作による報告である。(「シンガポール要図」参照)
下見参加者:瀧秀樹、倉知博、宍倉良枝、小野木祥之


2月12日(木)午前、游鏡泉さん
 朝9時半、ペニンシュラホテル6階ロビーに柯冰蓉(Kwa Peng Yong*)さんが来てくれた。この日伺う、游鏡泉(Yew Jing Quan)さん宅まで案内していただく予定。11時訪問には余裕があるので、時間調整をかねてロビーで游さんについて事前学習した。柯さん他が編纂した『日侵時期新馬華人受害調査』(日本占領時、シンガポールおよびマレーシア華人被害調査、南京・江蘇人民出版社2004刊)、138~139頁に游さんについての記載がある。KPYさんが日本語訳してくれた。概要は、つぎの通り。

 1914年、広東省大埔の生まれ。1938年ころ、シンガポールにいる長兄を頼りに一人で移住した。兄や仲間と一緒にブキバトク九条石の労働者宿舎に住んだ。
 1942年2月14日夜10過ぎ、私など10人の若者が日本兵に牛山に連れていかれ、農家の中にとどめ置かれた。
 翌々日午後2時、日本兵は私たちを九条石の近くにある石工場の竹垣の下に連れて行った。4時過ぎにまず7人を殺した(私もそのうちの一人)。他の3人は別の場所に連れて行かれたが、どこでどうなったか知らない、多分殺されたのだろう。7人の名前ははっきり覚えている。兄の遊鏡伝のほか、陳玉、陳和、陳権、頼渓、黄錫元だ。
 私の番がきた。線路のそばで刀で切られて意識不明になった。2日経って、意識が戻った。付近に日本兵が2、3人いた。彼らが「逃げろ」、「家に帰れ」と大声でいった。
 急いで近くの家に逃げこんだら、そこの人たちが首の傷に薬を塗ってくれた。ある人の紹介で海山街にある南洋病院に行き、胡再坤医師が10数針縫ってくれて3週間の治療で治った。先生は治療したことを他言しないでくれといった。
 私は大工で、当時日給は0.8~1元、退職して6年になる。最後の一年は月給2000元だった。現在妻と子供と住んでおり、5人の娘と一人息子がいる。
 日本軍は野蛮でひどい。どうして殺されるような目に遭ったのか、日本政府の謝罪と賠償を望んでいる。


 シティホール駅から地下鉄(Mass Rapid Transit、途中から地上となる)を乗り継いでブキバトク駅下車。団地の間をぬって徒歩10分ほどで目指す集合住宅5階の游さん夫妻宅に着いた。本番では、バス移動が便利か。高齢のお二人ながら、100㎡近くある。游さんは、ステテコ姿からズボンに着替えて歓迎してくれた。
 以下は、主なやりとり。回答は奥様(85歳。目が不自由)からも。通訳は柯冰蓉さん。


「ご自宅でインタビューに答える游鏡泉さん」


「游鏡泉さんのお連れ合い」

小野木:2010年2月、シンガポールを自転車で走る計画です。
奥様:歳なので来年のことは分からないが、元気であればお会いする。ただ、年齢なので多くはお話できないと思う。
小野木:もし会っていただければ大変嬉しい。人数は決まっていないが、20~30人でシンガポールの慰霊碑をまわる。そのさい是非訪れたい。
奥様:かまいません。(事前に)娘に連絡してください。
小野木:首の傷は痛みますか。
奥様:今は痛みません。雨が降ったときは、ちょっと心配。


「游さんの首に残る傷跡」

小野木:医者に縫ってもらったそうですが、その後は医者には行っていますか。
奥様:何回か治療を受けた。薬草で治療したが、その後西洋医学で手術した。治療した医師から、そのことを他には言わないでくれと言われた。日本兵に知られると自分の命が危ないので。
小野木:事件はこの近くで起きたのですか。
奥様:そうです。
小野木:日本軍は、なぜ游さんたちを殺そうとしたのだと思いますか。
游さん:分かりません。私は大工だったのに、何故そんなことをされたのか分からない。
瀧:お子様とお孫さんの数は。
游さん、奥様:息子1人、娘7人、孫は15人。
Yewさんご夫婦にお暇をしたあと、来た道を戻ってMRTに乗り、ウートラムパーク駅(**)下車、柯さん先導で中華街の西南端まで5分ほど歩き、レトロな通りのレトロな店でラーメン、青菜いためなどを喫食した。

*柯冰蓉(Kwa Peng Yong)さん:フリーのジャーナリストで、日本軍が占領していたころのシンガポールについて詳しい。横浜・アジアフォーラムなどのとき、通訳として度々本邦を訪れている。MPPCも、シンガポールに入ったときは、毎回お世話になってきた。
**ウートラムパーク駅(Outram Park):駅のすぐ西側は、かつてOutram刑務所があったところ。いまは中層のアパート群となっていて、刑務所のことを示すものは見当たらない。地名は、本邦ではオートラムと記されるが、ご当地発音をカタカナで示せばウートラム。

2月12日(水)午後、東海岸など
 昼食後、MRTでチャンギ空港に行き、到着ロビーでAVISレンタカーを調達。
 まずチャンギビーチの華僑虐殺記念碑へ。ここまでの道は第4回でも自転車を走らせた気持ちよい道路。ただ市内から来る場合、どこから乗るか、また伴走車はどのように追いかけるか、結構難問かもしれない。浜の駐車場へ車を停め記念碑を眺めた後、次はチャンギ刑務所博物館(Changi Prison Museum)へのルート確認。島の東海岸を反時計回りに走る。一発では行けなかったが、まあ分かりやすい道。ここも本番では自転車コース。
 次は北東海岸にあるプンコル(Punggol)の虐殺記念碑。日本人学校を過ぎてすぐに右折し、高速に乗ったため、ものの20分ほどで目指す場所についたが、自転車で行くにはどの道を走るべきか、要検討だ。団地のはずれの頭上を走るLRT(Light Rail Transit)のガードをくぐってさらに海寄りに進むと、道は下り坂となってジョホール水道にでる。その水際に碑はある。
 さらに反時計方向に周り、ジョホールバルに面した北海岸の、近衛師団(西村琢磨中将)上陸地点の記念碑(クランジビーチ: Kranji Beach)と、第5師団(松井太久郎中将)上陸地点の記念碑(サリンブンビーチ: Sarimbun Beach)へ向かう。途中クランジの英連邦墓地への分かれ道は確認しただけ、本番では寄りたいところ。
 クランジビーチ付近の道は、車が走ると自転車にとっては少々危険を感じる狭さである。ただ交通量はそれ程多くない。大きな貯水池Kranji Reservoirに架かる橋のすぐ傍の公園の中に記念碑は建てられていた。ぼちぼち日も傾きかけてきたが、次のサリンブンビーチへ向かう。ところが、この道路だろうと入っていったところは軍の演習場で、中を探し回ったが見つからず。暮れかけた砂利道を、体長40cmほどのトカゲが横断中に立ち止まり、もたつく当方を嘲笑していった。さらに先まで車を走らせ、一度Uターンした路地の先を海に向かって走るとようやくありました。
 12日の予定は終了し、ホテルに戻る。高速に乗る手前の道、Lim Chu Kangは片側4車線の直線幅広道路。非常時には両脇の街灯を外側に倒して、大型機でも臨時に離着陸できるようになっているらしい。高速に入ったが、なぜか考えている道と違う路線に。なかなか難しいものだ。20時頃ようやく宿に戻り、ラッフルズシティー裏手の路地のヴェトナム料理でおなかを満たした。


2月13日(金)午前、モリス大佐ほかとの会談
 10時前、ホテルから歩いて2分もかからない新嘉坡中華総商会(Singapore Chinese Chamber of Commerce and Industry)の荘厳なビルへ。9階に上がって、受付の女性にNancy Chewに会いたいと告げる。新米のナンシーは、上司の陳秀娟(Ms. Tan Siew Kiang)さんに従って現れた。


「シンガポール中華総商会の正面」

 案内された小会議室には、モリス大佐ら4人のおじさんが待っていた。
Col (ret) John Morrice(退役大佐)
Maj (ret) Roland V. Simon(退役少佐、海軍出身)
Maj (ret) Goh Say Fong(退役少佐、広報)
Mathew Lew(カメラマン、会談中、写真パチリパチリ)
 モリス大佐は、SAFVL(Singapore Armed Forces Veterans’ League=シンガポール統合(陸海空)退役軍人会)の会長だ。アジアパシフィックにも同様の組織があり、別にASEANの下部組織もある。また世界の82か国119の退役軍人会にも加わっていて、いずれでもモリス氏は重鎮。日本からも参加している(自衛隊OB団体にちがいない)、あんたがたもそうした退役軍人会からきたのかと、インド系大佐はこちらの来意も聞かず立て板に水。お土産として、同会のロゴ入りのカップ、盾、2007年と2008年の年報などもらう。
 インド人の話に割って入り、タンさんの口添えもあって、やっと当方の口上をいう機会を与えられた。こうこうで、2010年2月に8MPPCを予定しているが、ついては誰か華僑虐殺を証言してくれる存命者を紹介してほしいと、No.4/5/7報告集など渡しつつ。それなら、SCCCIに聞くのがいいとの返事。いや、SCCCIに同趣旨を依頼したら、モリス大佐を紹介されたんですわ。タンさんも苦笑。結局、誰かいないか探してみようという話になった。
 大佐は机に置いたPCを前に、早うやらせろという雰囲気。何やら発表したいのだ。ひととおり自己紹介やら来意を告げ、サイモン少佐(父親が篠崎護氏(*)を知っていて、おそらく「良民証」をもらった由)とフォン少佐(親父さんは親蒋介石で、重慶政府あての寄金集めなどし、その勲章は屋根裏に隠していたのに日本軍に見つけられ、逮捕されてチャンギ海岸で処刑された由。昔のことは許すことができるけど、忘れることはできないとニコニコしながら強調した)が短く挨拶し終わったら、堰を切ったようにしゃべりだした。
 パワーポイントを使った、「2戦」(第二次大戦)のシンガポールにおける英軍防衛戦の説明である。日本軍の動向については一部誤りもあったが(例:1941年12月8日、コタバルに近衛師団、パタニに第5師団、シンゴラに第18師団が上がったなど**)、英側の対応がいかにお粗末であったかをとうとうと話す。また前日見てきたKranji BeachやSarimbun Beach、それに午後予定しているKent Ridge ParkやLabrador Batteryにおける防衛軍の様子を、設置してあった大砲の仕様の説明などまじえながらえんえん2時間。質疑のなかで、近衛師団上陸地点と第5師団上陸地点のほかに、第18師団(牟田口廉也中将)があがった場所を示す銘板はないものか尋ねたところ、それはない、同地は軍の訓練場に使われていることでもあるし、とのこと。これは観光庁などに問い合わせるよりも確かな情報だったといえよう。


「中央右側がモリス大佐、右端サイモン少佐。左端はフォン少佐」

*篠崎護氏は戦前、シンガポールの日本領事館に勤務していた。スパイの嫌疑でイギリス政府に捕らわれチャンギ刑務所に入れられたが、42年2月16日、日本軍が来て救い出される。日本占領中は、シンガポール側の誰彼に良民証を出したことで感謝された。著書に『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』(原書房)がある。
**山下奉文中将率いる第25軍は、海南島から船団を組んで1941年12月8日、タイ南部と、マラヤ北部のコタバルに敵前上陸した。コタバルに上がったのは8日午前2時15分(東京時間)第25軍(18師団)の侂美支隊(侂美浩少将)。これが時間的にもっとも早く、海軍の真珠湾攻撃より約1時間前だった。この成功を聞いて、シンゴラ、パタニなどに第5師団が上陸した。いっぽう第14軍配下の近衛師団は12月8日、カンボジアからタイにトラックで入り、ドンムアン空港を制圧。その後バンコクで治安に従事したあと、第25軍に編成替。陸路南下して23日のアロスターから、第25軍の作戦に加わった。また第18師団主力は12月8日広東にいた。12月22日シンゴラ上陸、1月下旬になってジョホール州で第25軍に追いつき、以降マレー進攻作戦に参加した。


2月13日(金)午後、西海岸方面
 昼食もそこそこに、午後まずはジュロン・ディフェンス・ライン(Jurong-Kranji Defense Line)の記念碑に。島の北西からの侵攻に備える防衛線である。ジュロン・ウエスト・ニュータウンの高層アパート内、ネイバーフード公園の一角、50号棟横の記念碑は、ちょうど工事中のフェンスの中にあって探すのに手間取った。ここに来るのに自転車を使うかどうか、迷うところだ。
 次はパシルパンジャン攻防戦のあったKent Ridge Parkの記念碑。パンジャン通りからボナビスタ通りに入って、急な坂道を登りきった丘の一角にあった。
 次ラブラドール砲台(Labrador Battery)。パシルパンジャン通りからアレクサンドラ病院への交差点すぐ傍のラブラドール・ビラ・ロードを入り500mほど先を右折した丘の上。午前中軍人さんたちがしきりに説明してくれた巨砲や地下前線司令部の跡が残っている。地下壕へはお一人様8Sドル。管理人が案内してくれた。弾丸を地上の大砲に揚げるためのリフトが備わっていたりする基地だが、司令部のあったバトルボックス(後述)よりは小ぶりである。


「ラブラドール砲台の地下壕内で説明を聞く」

 セントサ島に渡り、島全体を仕切っていそうな「セントサ・オフィス」なる建物に飛び込む。受付で、ここのゴルフ場内には華僑虐殺の慰霊碑があると聞いているが、見せてもらえないだろうかと来意を告げる。マレーの女性が親切にも「ちょうど私のダンナがいるから連絡を取ってあげる。島の元マネジャーです」という。ほどなく、そのマスツリ氏が現れた。あとでもらった連絡先のメモによれば、どうやら島の開発に携わる会社のようだ。
 マスツリ氏の説明では、島の外海岸にかつて慰霊碑があったが、いまはない。代わりに島内のどちらかといえば本島よりに、一つあるにはあるという。それをぜひ見たいと懇願。いいけど、ゴルフ場の中は2人乗りのカート(バギーといっていた)でしか入れない。運転手とあと一人だ、とのこと。元マネジャーの運転で、ビデオを持った倉知が代表して、セントサゴルフクラブ、セラポンコース内にある慰霊碑に向かう。カートで移動すること数分、本島側の海岸べりに、本邦であまり紹介されることのない高さ80センチあまりの慰霊碑はあった。チャンギビーチのとほぼ同じ外形だ。
 日本語(他に英語、中国語、タミル語)で「セントサ島海岸」「1942年2月20日から8日間、何百人もの華人市民が4人一組で背中合わせに手足を縛られ、近くのタンジヨンパガ・ドックからこの前方の海上にボートで運ばれた。日本兵は身動きのとれない人々を海に突き落とし銃火を浴びせた。多数の死体がブラカンマティ島(現セントサ島)の海岸に打ち上げられた。およそ300体が英軍捕虜によってブルハラレビン砲台(ここから百メートル先)の周囲に埋葬された。犠牲者たちは、同年2月18日から3月4日にかけてシンガポール華人の中の「抗日分子」一掃のため日本軍が展開したいわゆる大検証(粛清)で殺害された何万人もの華人の一部である」と書かれていた。

 


「セントサ島のゴルフ場内にある、華僑虐殺記念碑」


 ゴルフ場は、夕方7時まで営業している由。ただし週に2日、保守のために閉鎖する。元マネジャーは、MPPCが見学するなら、その保守日がいいだろう。2009年は月曜と火曜だが、2010年に何曜日が保守日となるかは不明、という。直前になって問い合わせればいいでしょう。
 現場はゴルフコースの中なので、いくら保守日であってもまさかバスではアプローチできない。かといってカートを20台も30台も連ねるのはいささか憚られるし、カート代もいる。バス班も島にあるはずのレンタチャリを借りて、全員自転車で向かうのがよろしいのではなかろうか。案内役には、元マネジャーなど誰かご当地側の人を煩わせるとして。そしてどうしてもチャリに乗れない人だけ、カートに乗ることにして。その前かあとにイメジズオブシンガポールや、シロソ砲台など、島内の他の要所を見学するのは無論である。


2月14日(土)島の中央を北上し、JB。戻りは第2橋
 朝8時、レンタカーでまずはマクリッチー貯水池(MacRitchie Reservoir)への道だけ確認。中には入らなかったが、林謀盛(Lim Bo Sen*)の墓は、この公園内にある。
 つぎブキティマの記念碑(**)、そしてすぐ近くのフォード工場あと記念館(***)にはしご。立派な記念館に生まれ変わったフォード工場跡はビデオ上映専門の部屋を備え、展示物もしっかりしていた。ジョホールへ急ぐ必要もあり小一時間で切り上げたが、本番ではもう少し時間をとったほうがよさそうだ。




「フォード工場あと記念館の掲示など」


「記念館内の展示」

 このあと、シンガポールからの出国にいささか手間取った。マレーシアへの入国手続きのソフトにもイラつく。おおむねオンタイムであったが、本番では事前に出入国書類を用意して記入しておくなど、万全の準備が必要だろう。
 マレーシアに入って、ジョホールバル(JB)の街の道が変わっているのに驚いた。少々行き過ぎたりしておなじみEden Gardenに行くと、いまやthe Zon Regency Hotel。小野木、倉知2人が会議室の件など問い合わせに行き、ドライバーは敷地外に止めた車内で待機。2人が戻ってから食事をしたが、以前行った屋台も経営が変わっている。夕食を2回とることになるが、代案の検討が必要だ。
 Jl Kebun Tehぞいの中学校敷地内の慰霊碑、それに日本人墓地の場所を車内から確認した。つぎ、国道1号をKL方面に乗ろうとして乗れず、再びJB市中に戻ってしまったりと相変わらず下見ならではの失敗を重ね、ようやくスクダイの街から、UlchohとGelanpatah方面に向かう5号線へ。
 ウルチョの墓2か所はすんなり見つかったものの、ゲランパタの慰霊碑が見つからない。かつて訪問した時とは道路が変わっているし、墓の囲いの樹が背高く伸び、道路からは見えづらくなっていたため、探し当てるのに苦労した。


「ジョホール州ウルチョにある慰霊碑の一つ」

 結局もう1か所には辿り着けず、諦めてホテルへ戻ることにした。
 シンガポールへの帰り道はコーズウェイブリッジ(海道)ではなく第2の橋を渡ることにしたが、ゲランパタのICまで戻るのはしゃくである。必ずあるはずだと、ジョホール水道方向に進み、期待通り高速の入り口にはきたが、クローバのうち橋方向にはどっちを取ればいいのかが分からない。一方は「Tuas」と、つれないマレー表記。もう一方は「KL、Singapore」等という。安全パイの後者を取ったが、これは明らかに内陸に向かう車線で、シンガというのもJBまで回り込んでコーズウェイを走らせる意味だとは、乗ってから確信した。ゲランパタのインターチェンジで降りてUターン。意を決して「Tuas」に向かったところ、正解であった。これも下見の重要な試練。第2橋からは期待に違わず、ジョホール水道の雄大な景色が望めた。
 シンガ市内ハヴェロック通りのレンタカー屋にはぎりぎりアローワンス内で返車し、追加料金なしで済ませた。AVISからはタクシーでホテルに戻り、約束のYing Lei夫妻(****)と海南料理街のPurvis Streetへ繰り出した。過日のヴェトナム料理より、もう少し先である。お店はたいそうな混雑で料理も◎。本番でも使える。
 お腹いっぱいになりYing Lei夫妻と別れた後、ホテルに戻り、倉知、宍倉は預けた荷物を引き取って帰国へ。

*林謀盛(Lim Bo Sen、1909-1944):日本軍占領下のマラヤで、林謀盛は東南アジア連合軍司令部136部隊という抗日軍に属し、国民党政府からは大佐に任命された。しかしイポー郊外で日本軍に逮捕され、バツガジャの刑務所で獄死。戦後、英雄の遺体はシンガポールに運ばれ、イギリス政府と華僑団体による公葬がおこなわれた。
**ブキティマの記念碑:1995年の戦後50周年を記念して、シンガポール政府が整備した記念碑の一つ(先述のKranji Beachや、Sarimbun Beachなども同じ)。シンガポール攻略のさいの激戦地である。
***フォード工場あとの記念館(Old Ford Factory):1942年2月15日、白旗をあげたイギリス軍のパーシバル中将と、第25軍司令の山下奉文中将が降伏調印式をやった会場跡。数年まえに開館された。
****Ying Lei:連合晩報の記者、出身は南京。2005年の2.15慰霊祭のとき取材を受けていらいのお知り合い。2007年、上海出身でCity Bank勤務のZheng Yu Dongと結婚した。



「中央がYu Dong、その右Ying Lei」


2月15日(日)午前、血債の塔記念式典
 ホテルの右斜め前にあるセント・アンドリュース教会の敷地をハスに横切って、残留組の瀧と小野木が「会社に行く格好で」血債の塔式典へ。集合時刻の午前9時に15分ほど前、まだテント下は2分ほどの入り。SCCCIのNancy Chewをさがして席を聞いたら、なんと左右中央と並ぶ椅子席のうち、左の最前列から3つ目。背もたれにはMPPCと書いたステッカー。前の2列は宗教代表、当方の右横ならびはおととい会ったSAFVLのモリス大佐とフォン少佐の席である。
 主賓たるDr. Lee Boon Yang, Minister of Information, Communications, & the Arts(情報通信芸術大臣)が10分ほども遅れて到着したあとの式典は、例年通りの運びで滞りなし。
 はじまる前と終わったあと、モリス大佐が同僚退役軍人の誰彼や、宗教代表のアドミのような人(当方の左横)などをつぎつぎと紹介してくれる。SCCCI議長Mr. Soon Peng Yamともはじめて握手した。大臣にも紹介してくれた。儀礼的な挨拶を交わし、一緒に記念撮影などしたが(撮ったのは先方)、それでも終わらず何か話しかけてくるので、得たりやと応じた。
 日本政府が、華僑虐殺について正式に謝罪していないのは、一民間人の立場ながらはなはだ遺憾である。きちんと謝罪し、必要な補償もしないかぎり、日本は国際社会にまっとうには受け入れられないものと思う、うんぬんと小野木。
 大臣はこう引き取る。たしかに。もっともシンガ政府としては日本に何も要求はしていない。だが人々は別の感情をもっているだろうね。
 謝罪と補償は日本政府、ひいては日本全体が自ら決めて、申し出るべきことだと思う。もっかそうはなっていない段階で、われわれのグループは少数ながら、この式典に民間人として参列しているしだいである、と当方。
大臣:たとえばドイツを見ると、大統領がナチによる虐殺について正式に謝罪し、また補償金も支払っている。それとの違いは、はっきりしているね。
 きさくに、よくしゃべる人だ。この見解、2003年の第5回MPPCで2.15式典に参加したとき、当時の同副大臣Mr. David Limがいったのと重なる(同報告集p-64右上写真の英文エトキ)。表向き、儀礼的な国家間の付き合いや経済関係はもつものの、「2戦」の総括がないかぎり心底打ち解けた関係にはならないよと、率直にいっているのにほかならない。これはシンガに限った話ではないであろう。


「2.15式典の最終調整をするモリス大佐(中央)と、SCCCIタンさん(その左)」

 Nancyにあらかじめ依頼して、70Sドルだかで用意してもらったMPPCの花輪は、いつもの塔の右側でも左側でもなく、塔の4本足の間、骨壷を守る位置に鎮座していた。他に相方の献花はない、これも破格の扱いといえよう。


「MPPCからだした式典用の花輪」

 高嶋伸欣先生(*)が、琉大の院生松田浩史さんとともに来ていた。このあと「ペラ」へ移動し、翌日、劉道南先生に案内されて美羅ジャングルの孤墳(**)まで行く由。ことし8月に予定している「マレー半島戦争追体験の旅」の下見とか。「7MPPCの報告集が、大変参考になった」とのこと。川崎市出身の松田さんも熱心な研究生のようで、サラクウタラにおける虐殺の模様を細かく当方に確認してくる。報告集に、先方の証言を丁寧に記録したのが役に立ったのですね。

*高嶋伸欣先生:琉球大学教授。先生には、MPPCの事前学習会などで一再ならずお世話になっている。毎年8月、「マレー半島戦争追体験の旅」というのを実施しておられる。くわしくは、www.geocities.jp/afyokohama128/
**マレーシア、ペラク州の孤墳:ビドーというジャングルの中にある華僑虐殺慰霊碑。くわしくは、MPPCの第7回報告集参照。


2月15日(日)午後、市内の遺跡等めぐり
 ホテルに戻ってお色直し、チェックアウト、荷物預け。それから徒歩で中華街、スクチン(Sook Chin=粛清。じつは大検証という「不逞」華人の首実験のことだが、こういい慣わされている)跡の銘板へ向かう。North Bridge Roadをとり、シンガポール川を渡ればSouth Bridge Road。少し進んだ歩道上にまず案内看板。ところがUpper Cross Streetとの交差点にきたら、角地がそっくり囲われていて工事中。銘板はしばし移設されているのか辺りには見当たらなかった。しかし、いくらなんでも2010年2月には修復されていることでしょう。


「サウスブリッジ通りにある、大検証の予告看板」

 しゃーない、飯にしようとChina Townを行きつ戻りつしたのち、看板と人の波につられて飲茶酒楼(Yum Cha Restaurant)へ。South Bridge Road とNew Bridge RoadとをつなぐTemple Street沿い(登婆という当て字だが、笑ってはいけない)。狭い階段を上がると、広い2階と3階。2階のほーは一般客用で、目の前にきたワゴン車から積み荷を発注する仕組み、3階は整然とした予約席。ホンチャンでもダンコ2階がお薦めですね、飲茶の騒然かつ雑然たる醍醐味を味わうには。お値段、品揃え、雰囲気、まずまず。


「飲茶酒楼の看板がみえるチャイナタウン・登婆通り」

 こんどはNew Bridge Roadをホテル方向に進む。シンガポール川を渡り戻してHill Streetに入れば、左手はFort Canning Parkを裏から攻める階段である。


「Fort Canning Parkへの裏山からの入り口」

 山形の山寺には程遠いが、合計70-80段はあったか。木々が茂り、眼下に川など見下ろして、なかなか風情もよろしい。道々、辺りの歴史を解説する道標も点々と建てられている。
  Battle Box(*)で、最近展示に大きな変化はありますかと聞いたら、ないとの答え。でもホンチャンでは必見でしょうね。小山を反対側に階段で降りる。国立博物館の左斜め前がYMCAビル。チューダ朝の建物はやり替えられているものの、同じ場所にかつての東部憲兵隊本部はあり、エリザベス・チョイさん(**)などもここに拘束され、拷問された。ビルの端に、その銘板はある。


「YMCAビル前にある銘板」

 ホンチャンでも、概ねこのように動くのがよいのではないか。つまり、2月15日(2010年は月曜)の式典参加のあと、お色直し、歩いて(またはバスで)以上のところを回り、仕上げに飲茶などたしなんだあと中華街を各自ひやかし、ホテルで荷物を回収して空港に向かうのである。今回行かなかったところでは、海寄り、エリザベスウォークのなかにある林謀盛(Lim Bo Sen)の記念碑も、必見であろう。

*バトルボックス(Battle Box):フォートカニング公園の丘の上にある、英軍の地下司令部跡。1942年2月15日、日本軍に降伏するかどうか、最後の検討会をやった模様などが展示されている。
**エリザベス・チョイ(1910-2006、Elizabeth Choy)さん:1943年10月10日、日本占領下のシンガポールで、イギリスなどの民間人抑留者や、一部の中国人とともに逮捕された(双十節事件)。同年9月、シンガポール港で突然おきた船舶合計4万トン弱の爆破事件の容疑者とされたもの。憲兵隊のすさまじい拷問にも耐え抜き、生還する。戦後明らかになった真相では、船舶の爆破はオーストラリア・パースから小舟で渡ってきた英豪特殊部隊によるジェイウィック作戦の結果だった。MPPCは第4回のとき、SCCCIでチョイさんにお会いしている。