「大学のトップが集まる会議や政財界のみなさんとのシンポジウムや会議等では、私が唯一の女性参加者であることが珍しくありません。周囲の男性たちはそのことに気付いてもいないようですけど」。
津田塾大学の髙橋裕子学長にとって、それは見慣れた光景だという。
昨年、世界経済フォーラムが発表した「ジェンダーギャップ指数」で、日本は144カ国中114位と過去最低を記録。この国の社会を厚い雲のように覆う停滞感と、この結果には関連がないと言い切れるだろうか。
女子に高等教育の場を与えることが今よりはるかに困難だった19世紀末、津田塾大学の前身となる女子英学塾を創立した津田梅子。
時代が大きく変わっても、女性たちにとって梅子が目指すべきロールモデルであり続ける理由、むしろ今だからこそ注目すべきその先見性について、髙橋学長に聞いた。
津田塾大学 学長
髙橋 裕子
1980年津田塾大学学芸学部英文学科卒業。89年米・カンザス大学でPh.D.取得。90年桜美林大学専任講師、93年から助教授。97年津田塾大学助教授、2004年から教授。16年4月から現職。アメリカ学会副会長。日本学術会議連携会員。著書に『津田梅子の社会史』など。
「女性たち自身が昇進を望まない」は本当か
―3月に行われたシンポジウムで、同席した日本有数の企業経営者の方々に、学長は「御社で女性のトップが誕生するのはいつですか」と問いかけておられました。(以下敬称略)
髙橋:あの場におられたみなさんの会社では、女性の力を生かすための先進的な制度や取り組みが多くあり、そのことは素晴らしいと思いますし、時代は変わりつつあると実感しました。そのうえで、「いつ女性のトップが」とあえてご質問したのは、これまでほかの多くの場で、経営側の方たちが用いる常套句を耳にしてきたからです。
いわく、女性たち自身が昇進を望まない。人材がいない。女性だからといって下駄を履かせるわけにはいかない。しかし、人材がいないと嘆く前に、どれほど充分な教育・訓練そしてインフォーマルなネットワークの機会を女性たちに与えているのか、将来トップになることをどれほど本気で期待されているかが大事なのでは、という問題提起のつもりでした。
―津田塾大学では120年の歴史の中で、政治・経済・学術などの世界で際立つ業績を残した多くの女性たちが育っています。
髙橋:そうですね、建学以来、輩出した卒業生が約3万人という、これほど規模の小さな大学としては異例なことだと思います。それは、本学の創立者・津田梅子のビジョンとスピリットが現在まで脈々と継承されてきたからだと思います。
―梅子の人生の中で、特筆すべき出来事として数度の海外留学があります。その体験が彼女の思想をかたちづくっていったのでしょうか。
髙橋:間違いなくそれは、決定的な影響を与えたと思います。最初のアメリカ留学に旅立ったのは彼女がまだ6歳の時、女性として日本初の官費留学生5人のうち1人に選ばれたからでした。以来約11年を異文化の中で暮らした彼女は、帰国して目にした祖国とアメリカの大きなギャップ、特に女性の置かれた立場のあまりの違いに愕然としたようです。
―2度目の留学は、華族女学校の教師として働き始めた後ですね。
髙橋:24歳の時のことです。官立女学校の教師というのは、当時の女性として望みうる最も高い地位と待遇の職業であったはずですが、彼女の中では「第一級の教師」となるためにもっと学びたい、アメリカの大学教育を受けたいという思いが日に日に強くなっていきました。
当初2年の予定で休職し、ペンシルバニア州のブリンマー大学で生物学を学びましたが、結局その滞在は1年ほど延びることになりました。その間に、彼女にとっても、そして津田塾大学に関わる私たちすべての人間にとっても、重要な出来事を起こすためでした。
後に続く女性のために〝仕組み〟を作った津田梅子
―どんなことでしょうか。
髙橋:梅子は、幸運にも自分に与えられた稀有な体験を自分ひとりのものにしておくわけにはいかない、自分の得た貴重な財産を同朋の女性たちと広く分かち合いたいと考え、そのための仕組みを作り上げたんです。
そもそも彼女の最初のアメリカ留学は、女子教育と異文化体験の重要性に理解のあった父親の存在があって実現したものでした。また、明治の新しい日本を築く人材を育てるには、「優秀な母親」を増やさなければならないという、時代の要請に後押しされた面もあります。
2度目の留学は、最初の滞米中に知り合っていたメアリ・モリスという敬虔なクエーカー教徒の女性の支援があって実現したものです。彼女はブリンマーの学長に掛け合い、梅子の学費と寮費の免除という、またとない好条件を引き出してくれました。
ブリンマーを離れ帰国する際には、M・ケアリ・トマス学部長から、このまま残って研究を続けてはどうかと強く薦められたほどですから、彼女には研究者として大成する道もあったはずです。
―それだけであれば、環境や時代のタイミング、彼女の優秀さがあったから実現した特異な例で終わっていたはずですね。
髙橋:そうです。しかし彼女はそれを良しとしなかった。メアリ・モリスに何か方法はないだろうかと相談し、募金によって奨学金制度を設立するというアイデアに至りました。当時のお金で8,000ドルを集めれば、その利子だけで4年に1人の日本人女性をブリンマーで学ばせることができる。彼女が実現・実行したこの取り組みは、「ジャパニーズ・スカラシップ」と呼ばれました。
募金の賛同者の中には、梅子の少女時代のホストマザーであったアデライン・ランマンや、ブリンマーのトマス学部長の名前もありました。そして彼女の帰国後は、こうした人たちの尽力によって奨学金は適切に管理され、梅子の夢をつなぎ続けてくれたんです。
―熱い想いをそれだけで終わらせず、形にしたのがすごいですね。
髙橋:もちろん、多くの人の心を動かし、共感を得るには最初に情熱があるべきなのは言うまでもありません。しかし梅子は、そのうえでお金を集め、情報とノウハウを集め、人を動かし、長く続く仕組みを作り上げました。彼女が、現代にも通用するグローバル人材であったことの証しだと思います。