FRESTA Bimi Smile presents 食卓ON楽

食卓音楽

2011年6月17日
「なんてったってアイドル/小泉今日子」

194回目の今日お届けしたのは、「小泉今日子/なんてったってアイドル」でした

「僕が彼女に初めて出会ったのは、1982年の秋だったと思います。
当時僕は、同じビクター音楽産業所属の山田邦子の制作担当ディレクターで、山田が出演していたTBSのバラエティ番組『パリンコ学園No.1』の収録スタジオで彼女に初めて会ったんです。彼女は、どこにでもいる普通の女の子というイメージで、一緒に出演していた同期の松本伊代や堀ちえみと比べても、印象度が薄かったんです」
後に、制作担当ディレクターを務めた田村さんは、小泉今日子との出会いについて、こう振り返ります。

1966年2月、神奈川県厚木市に生まれた小泉今日子は、歌手になることを夢みて、彼女が中学二年の時に、「スタ誕」の愛称で親しまれ、数多くの歌手を誕生させていた日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』に応募。番組予選を勝ち抜いた小泉今日子は、1981年春の決選大会で、ビクター音楽産業、現在のビクターエンタテインメントを含む3社のレコード会社から指名を獲得します。その中から、ビクター音楽産業と契約した小泉今日子は、1982年3月に1stシングル「私の16才」でデビューします。

「小泉今日子の1stシングル「私の16才」と、7月に発売した2ndシングル「素敵なラブリーボーイ」はいずれもカバー曲で、9月に発売した3枚目のシングル「ひとり街角」が、彼女にとって初めてのオリジナル曲だったんです。デビュー当初、なぜ、小泉今日子がカバー曲を歌うことになったのかは、僕も詳しい理由を聞かされていないんですが、恐らく、所属事務所とレコード会社は、彼女にどんな曲を歌わせたら良いのか、はっきりとした方針が決まっていなかったからだと思います」。

1982年の暮れ、田村さんは上司から、翌年の、1983年の春から、小泉今日子の担当に就くことを命じられ、早速5枚目のシングルの制作に取り掛かります。

「"花の82年組"と呼ばれていた、同期の中森明菜、松本伊代、堀ちえみらが既にヒット曲を放っている中で、小泉今日子は、一歩、二歩どころか、三歩も四歩も出遅れている状況でした。とりあえず僕は、彼女を、まずは、三番手にぐらいにしたいと考え、当時の音楽業界で、困った時の筒美京平とまで呼ばれていた、ヒットメーカーの筒美京平さんに、5枚目のシングルの作曲をお願いしたんです」。

「筒美京平さんは、小泉のために2曲作ってくれて、その曲の作詞を、当時、放送作家から作詞家として幅を広げようとしていた秋元康さんと、康珍化さんの二人にお願いしたんです」。

ディレクターの田村さんは、秋元康と康珍化、二人の作家が書いた歌詞を検討した結果、康珍化が書いた歌詞をA面の曲として採用することを決めます。こうして小泉今日子は、1983年5月に、5枚目のシングル「まっ赤な女の子」を、リリースするのでした。

1983年5月にリリースされた、小泉今日子の5枚目のシングル「まっ赤な女の子」は、自己記録更新となる、セールスチャート最高位8位、約22万枚の売上を記録します。
「康珍化さんが書いた歌詞は、キュートでポップ感に溢れ、筒美さんが作ったメロディとの相性も抜群だったんです。それから、アレンジは、筒美さんのオーダーで、プログレッシブ・ロックバンド「四人囃子」で活躍した佐久間正英さんが担当しました。佐久間さんは、当時流行っていたスティックスの「ミスター・ロボット」を参考に、曲の出だしのコーラス部分に、ヴォコーダーを使うなど、曲全体にテクノポップの要素を取り入れて、アレンジしてくれました」。田村さんは、当時をこう振り返ります。

ディレクターの田村さんは、その後の小泉今日子のシングル曲を、筒美京平さんと、当時、アイドルの曲を多数手がけていた馬飼野康二さんの二人に、交互に依頼していきます。
「二人にお願いした理由は、一人の作家に固定すると、どうしてもマンネリ化するし、精神的な負担を掛けてしまうと思ったので、一曲ごとに作家の組み合わせを変えることにしたんです。当時は、レコード会社のディレクター主導でアイドルの個性を作っていく手法が当たり前の時代だったので、当然、僕も、自分自身の力で小泉今日子の個性を作っていきたかったんです。アイドルの良い子が松田聖子、悪い子が中森明菜ならば、小泉今日子は、どこにでもいるような普通の女の子というイメージを作って、彼女のポジショニングを確立させようと思ったんです」。

その後、担当ディレクター田村さんが組み立てた戦略の下、小泉今日子がリリースした曲は、ヒットを連発し、1984年3月に、康珍化が作詞、馬飼野康二が作曲した9枚目のシングル「渚のはいから人魚」は、小泉今日子にとって初のセールスチャート1位を獲得するのでした。

1984年3月にリリースされた、9枚目のシングル「渚のはいから人魚」以降、小泉今日子がリリースするシングルは、全てセールスチャートの1位を獲得し、彼女は一躍日本のトップアイドルとしての地位を確立していきます。
しかし、ディレクターの田村さんは、翌年の1985年春、女子高生を中心としたテレビバラエティ番組『夕焼けニャンニャン』が始まると、小泉今日子をはじめとした、女性アイドルの勢力図が変わっていくことを感じるようになります。
「秋元康さんが、普通の女の子をコンセプトに作ったおニャン子クラブは、番組開始と共にジワジワと人気を集めて、7月に発売した1stシングルがいきなりチャート最高位5位を記録しました。僕は、このままでは、小泉今日子の存在が危うくなっていくと感じて、これからは彼女達を上回るインパクトのある作品が必要だと考えたんです」。
ディレクターの田村さんは、より刺激の強い曲を求めて、小泉今日子が11月に発売を予定していた15枚目のシングルの作詞を、敢えて、おニャン子クラブの仕掛け人として脚光を浴びていた秋元康さんにお願いすることを決めます。
「「まっ赤な女の子」以降、小泉今日子のシングルのA面の作詞を秋元さんにお願いすることは無かったですが、彼は、企画力や発想力に優れた人物だったので、シングルのB面曲や、アルバムプロデュースをお願いして、付き合いは続けていたんです。実は、秋元さんに作詞をお願いしたほぼ同じ時期に、当時、小泉がCM出演していた富士フィルムが、一般の人達から、小泉今日子が歌う曲の歌詞を募集する企画が進んでいて、秋元さんにお願いした歌詞の完成と、ほぼ同じ時期に、一般公募の中から「私はスターよ」と言う曲が選ばれたんです。
実際にこの歌詞が使われることはなかったんですが、秋元さんも、「私はスターよ」という曲を書いた一般の人も、偶然にも当時の小泉今日子に関して、同じイメージを持っていたことに、僕らスタッフも驚いたんです。」

こうして、小泉今日子15枚目のシングル「なんてったってアイドル」は、1985年11月にリリースされるのでした。

1985年11月にリリースされた、小泉今日子の15枚目のシングル「なんてったってアイドル」は、セールスチャート最高位1位、約28万枚の売上を記録します。
「最初は、曲のタイトルに関して、"こんなに安易なネーミングでも良いのか"という意見が、レコード会社内部でもあったんです。しかし、結果的にはヒットし、女性トップアイドル小泉今日子の健在ぶりを、あらためて示す曲となったんです。しかし、小泉今日子のシングル連続1位獲得は、この曲を最後にストップし、翌年に入るとおニャン子現象が絶頂期を迎え、それまで僕らが関わってきた女性アイドルの作り方が、大きく変わっていくことになっていくんです」最後に、ディレクターを務めた田村さんは、こう振り返ってくれました。

女性アイドルブームの頂点が、次のアイドルブームへの分水領となった、
時代を代表する、J-POPアイドルソングが生まれた瞬間でした。

今日OAした曲目
M1.私の16才/小泉今日子
M2.まっ赤な女の子/小泉今日子
M3.渚のはいから人魚/小泉今日子
M4.なんてったってアイドル/小泉今日子

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