今日は、THE BLUE HEARTSの「ロマンチック」を聞いている。
畑井弘「鍛冶王と天皇の伝承(現代思潮社)」(以下「畑井論文」という)による、日本の地名や古代の人名の朝鮮語による解釈の具体例を引き続き検討する。
系譜Bの⑤「歌凝比売(ウタコリヒメ)命」を検討する。
系譜Aから系譜Eまでの人名は、そのほとんどすべてが借音表記であるが、この⑤の氏名は訓読している。
そこで、訓読ではなく借音表記で⑤を読むと「カゲヒメ」となる。
この「カゲ」は、「銅」であり「高」や「香」とも表記される「カゴ」「カグ」が音転したものである。
だから、⑤の「歌凝比売命」は「カゴヒメ」「カグヒメ」、つまり「銅の姫」「鍛冶王の姫」という意味である。
また、「カゴ」が「カゲ」と同じであるので、「天之御影神」の「影」の「カゲ」も、「カゴ」と同じ「銅」の意味である。
系譜で御子伝承を伴わないのは、系譜Bの⑤と⑥、系譜Dの⑫と⑭である。
系譜Bの⑥と系譜Dの⑫は、表記は異なるが同じ名前であるので、系譜Bの⑤は、系譜Dの⑭に相当すると考えられる。
また、系譜Bの⑥には、相楽乙訓の地名伝承があるが、系譜Dでは、弟国の地名伝承は⑭になっている。
「乙訓(弟国)」の「乙」は朝鮮語で「イル」であり、「慰礼」はその借音表記である。
百済建国の始祖温祚王の都を「慰礼(イル)城」といい、温祚王が右輔とした族父は「乙音(イルソリ)」であった。
朝鮮語で「光明」の意味で、「百」「伐」「発」「貊」「扶余」などと表音表記された「パルク」は、「パル」→「アル」→「イル」と音転したので、「慰礼城」は「光明城」「国原城」「扶余城」という意味である。
「百済(パルジュ)」の「パル」は「慰礼(パル)」と同じく、「光明(パルク)」の音転で、「百済」も「慰礼城」も「光明(パル)」「城(ジュ)」となり、おなじ意味である。
朝鮮半島南部の洛東江流域は水流の分岐する「川派(かわまた)」の地であり、そこは、朝鮮語で「分」「岐」「派」の意味である「カラ」から、「加羅」「駕洛」「伽耶」と呼ばれた。
そして、そこから渡来した人たちが定住した、木津川・宇治川・鴨川が合流して淀川となる土地も、同じく「川俣」の地であったので、渡来人たちはその定住した土地を、「慰礼加羅(イルカラ)」、つまり、「慰礼(イル)の国」と呼んだ。ここから、「乙訓」は「イル国」であり、「慰礼加羅」であったと考えられる。
系譜Bと系譜Eで違うのは、系譜Bの⑤が系譜Eでは⑱になっていることである。
ここから、系譜Bの⑤は系譜Eの⑱のことであると考えられる。
系譜Eの⑱は「三川之穂別之祖」と注記されているが、この「三川之穂別」はここにしか出てこず、三河国宝飫郡との関係も不明である。
そうすると、この「三川之穂別」の「三川」は木津川・宇治川・鴨川の三つの川で、その三つの川が合流した「乙訓」の地に渡来して初めて国を作った人物を「三川之本王(みかわのほのわけ)」と呼んだと考えられる。
そうした伝承が、系譜Eの素材となっていたと考えられる。
系譜Bの⑥の「円野(マトヌ)」系譜Dの⑫「真砥野(マトノ)」系譜Eの⑯「真砥野(マトヌ)」は、同一人物のことであるが、この「マト」は「マテ」でもある。
この「マテ」は、敏達天皇の后の広姫の母と伝承されている「息長真手王」の「マテ」、物部氏の祖と伝承されている「宇麻志麻遅(ウマシマヂ)命」は「可美真手(ウマシマテ)命」ともいうが、この「マテ」でもある。
この「マテ」は、朝鮮語で「椎、槌」の意味である「マチ」の音写であるとすれば、「椎、槌」は鍛冶に係る道具であるので、「マトヌ」は「(鍛冶に係る)槌の姫」という意味である。
また、「マトヌ」の漢字表記は、「真砥野」と「砥石」の「砥」を使用しているが、朝鮮語で「砥ぐ」という言葉は「カル」という。
ここから、「真砥野」の「砥」は、鍛冶とその結果できた刀剣を磨くことを意味する。
朝鮮語で「砥ぐ」という言葉は、「ソトオル」というが、允恭天皇の寵姫であったという伝承がある「衣通郎(ソトホリ)姫」や、允恭天皇の太子の「軽皇子」が愛したという伝承のある同母妹の「軽大郎女」の亦の名の「衣通(ソトホリ)郎女」の、「衣通(ソトホリ)」も「砥ぐ」という意味で、「衣通郎(ソトホリ)姫」は、「砥(ソトオリ)姫」であった。
乙訓に係る人名も鍛冶とのかかわりが強い。
なお、允恭天皇の太子であった軽太子は廃嫡されて穴穂皇子が即位して安康天皇になったと伝承されているが、古い銅鏃のことを「銅」の朝鮮語の「カル」から「軽矢」といい、新しい鉄鏃のことを「穴穂矢」という。
そうすると、「軽太子」から「穴穂皇子」への移行は、銅鏃から鉄鏃への移行と重なるので、この伝承は、後世になってから対比的に構想された物語であったと考えられる。
系譜Bの③は系譜Eの⑮と同じ表記であるが、系譜Cの⑦では「氷羽洲比売(ヒハスヒメ)命」と表記されている。
「氷羽洲(ヒハス)」の「羽(ハ)」は、「~の」という意味で、「洲(ス)」は国という意味なので、「氷羽洲比売」とは、「氷の国の姫」という意味である。
「朝鮮語の古代・中世語では、天・地・山・川・方位・男女などの一部基本語の場合、各格形に「ヒイ」助詞が」使われる。
この「ヒイ」助詞は特格の助詞であり、「~の」という意味である。
日本の古代文献では、この「ヒイ」助詞の漢字表記には、「比」「日」「羽」「歯」「花」「化」などの漢字が使用された。
ここから、福井県の「気比(ケヒ)神宮」は、「気の神宮」であり、この「気」は朝鮮語で海の意味の「ケ」の借音表記であるので、「海の神宮」という意味である。
だから、福井県の「気比神宮」は兵庫県の「海神社」と同じ意味である。
なお、「歯」の字も「~の」という意味であるならば、反正天皇の名の「多遅比瑞歯別」は、「多治比の瑞の王」という意味で、履中天皇の皇子の「市辺押歯別王」の名は、「市辺の忍の王」という意味になる。
「羽」が「比」や「歯」と同じ言葉であるならば、「氷羽洲」の「羽」は、「~の」という意味で、「氷羽洲」とは「氷の国」という意味である。
それでは、「氷の国」の「氷」とは、どこなのだろうか?
「氷」を朝鮮語で「アリム」というが、この「アリム」を借音表記したのが「有馬(ありま)」である。
そして、摂津国有馬郡の北に接しているのが丹波国の氷上郡であるが、上を北と考えれば、有馬郡の北にあるので「有馬上郡」つまり氷上郡といったと考えられる。
氷の「アリム」は、同じような発音の朝鮮語の漢字の借音表記の読み方であり、朝鮮語の「アリム」の本来の意味は別にあった。
朝鮮語の「アリム」は、本来は、「アリマル」といった。
この「アリ」は、朝鮮語の「パルク」「パル」が変化したもので、朝鮮語の「光明」という意味である。
また、この「マル」は、「馬」でもあるが、「国」のことである。
そして、その意味から、新羅の王号の「麻立(マル)」や新羅の法興王の名前の「原(チャル)宗(マル)」、それに起源する日本語の「麻呂(マロ)」や「丸(マル)」などと同じように、高貴な身分を示す美称となった。
だから、「有馬」は朝鮮語で「光明国」であり、「百済国」である。
なお、「烏丸(カラスマル)」が「烏丸(カラスマ)」になるように、語尾のr、l音は脱落しやすいので、「国」を意味する「マル」は、「マ」となった。
ここから、「播磨」の「磨」、「当麻」の「麻」も、朝鮮語で国を意味する「マル」が変化した「マ」であり、朝鮮半島南部から渡来した人たちが付けた地名である。
「有馬」という地名は全国各地にあるが、それらの地名は、朝鮮半島南部から渡来した人たちが、「光明の地」として名付けた地名である。
なお、「播磨」も朝鮮語で「パルマ」であるので、「有馬」と同じ、「光明の地」である。
朝鮮半島南部の地名で、百済からの割譲要求があった「上哆唎」は「オコシタリ」と、「下哆唎」は「アルシタリ」と発音されているが、この「オコシ」や「アリシ」の「シ」は、「蘇那曷叱智(ソナカシチ)」の「叱(シ)」と同様に、特格側音である、意味を持たない。
ここから、朝鮮語で「オコ」「オケ」は「上」の意味で、「アリ」は「下」の意味であり、上が北なら下は南である。
だから、「有馬」や「播磨」とは、明るい光明に満ちた「南側の国」、つまり「山陽」の国という意味である。
そして、その「有馬」の国の北側にある国が「氷(=有馬)の上」=「氷上」国であり、後世の丹波国氷上郡である。
これらから、「氷羽洲姫比売」は、摂津国有馬郡や丹波国氷上郡に係る伝承であったと考えられる。
系譜Cの「氷羽洲姫比売」を系譜Dでは「日葉酢媛」という。
この「日葉酢媛」の「葉」は、先述したように、「~の」という意味であり、「日」は、高句麗神話の天帝の子「解慕漱(ヘモソ)」の「解(ヘ)」で、朝鮮語で太陽や日を意味する「ヘ」であるが、「ヘ」は朝鮮語では「海」「浦」という意味もある。
だから、「気比神宮」は、「海神宮」であり、「解神宮」でもある。
同様に、「日葉酢媛」も「海の魂(ス)姫」であり、「日の魂(ス)姫」でもあり、「「日輪の霊」と「海の霊」を併せ持つ姫」という意味である。
これが、系譜Dの「日本書紀」の系譜と物語で構想された名前の意味であるが、それまでの系譜の名前と比べると、高句麗神話の導入など、新しい要素が存在している名前であり、この名前が構想されたのは、新しいと考えられる。
元の伝承にあったのは、有馬国や氷上国の伝承であった、と考えられる。