ケガレから生まれ清まりへ/なぜ被差別部落に白山信仰が多いのか?
『白山信仰の謎と被差別部落』河出書房新社 2013 前田速夫 著
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今週の本棚・新刊:『白山信仰の謎と被差別部落』=前田速夫・著
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毎日新聞 2013年12月08日 東京朝刊 (河出書房新社・2100円)
「白山神社は全国にある。奈良時代の僧、泰澄が加賀白山に登り、開眼したのが始まりとされる。
白山信仰は謎が多いという。一地方神が全国に広がっているのはなぜか。主神が女神なのはなぜか。被差別の民に信じられたのはなぜか。
『余多歩(よたある)き 菊池山哉(きくちさんさい)の人と学問』『白の民俗学へ』などで知られる民俗学者の著者は、白山信仰の謎を追い続けている。
先達である在野の民俗学者、菊池山哉に倣って日本各地の白山神社を訪ね歩く。旅先の民家の祠(ほこら)に白山姫神が祀(まつ)られているのを見て背中がぞくぞくしたというほどの熱意。
白山信仰は被差別民と縁が深い。柳田國男がつとにそれを指摘したが、その後、黙した。山哉が柳田の考えを受継いだ。
いま著者は山哉の考えをさらに受継ぎ、各地の白山神社を調べ歩く。小さな神社まで訪ねるその意欲に感嘆する。健脚の研究者。
白山信仰は、死、病い、ケガレを忌避しない。死からの再生を願う。だから権力に見捨てられ、既成の宗教からも落ちこぼれた人々が、白い神にすがったのではないか。筆は熱く、読者を白山神社へと誘う。(川) --「今週の本棚・新刊:『白山信仰の謎と被差別部落』=前田速夫・著」、『毎日新聞』2013年12月08日(日)付。
[元記事
http://mainichi.jp/shimen/news/20131208ddm015070128000c.html:title]
『余多步き菊池山哉の人と学問』前田速夫 晶文社, 2004 - 366 ページ
白山神こそ日本の原住民の信仰ではなかったか。被差別の地をくまなく歩き、前人未踏の学問をうちたてた知られざる民間学者をえがく初の本格評伝。
菊池山哉 きくちさんさい
菊池 山哉(きくち さんさい、1890年10月29日 - 1966年11月17日)は東京府出身の郷土史家、土木技師、政治家(東京市会議員)。本名、菊池武治。部落史研究としては被差別部落民を異民族起源とする説を唱え、賛否両論を呼んだが現在この説は退けられている。
1915年4月 - 『郷土研究』3巻6号に「平家の末と称する特殊部落」を初めて発表。
1920年8月 - 『武蔵野』3巻2号に「三股考」を発表。
1921年4月 - 『武蔵野』4巻1号に「牛島と庵崎に就いて」を発表。
1923年7月 - 『穢多族に関する研究』を自費出版。
1927年9月 - 『先住民族と賤民族の研究』を自費出版。
1930年12月 - 『旅と伝説』3巻12号に「甲州奈良田の人々」を発表。
1931年3月 - 『人類学雑誌』46巻5号に「岩手県二戸郡二戸町石器時代遺跡に付て」を発表。
1933年2月 - 『人情地理』1巻2号に「長吏に就て」を発表。
1935年8月 - 『沈み行く東京』を出版。
1946年4月~1947年10月 - 『多麻史談』13~16巻に「科野之長吏」、「甲駿豆之長吏」、「相模之長吏」、「武蔵之長吏」、「近畿之長吏」、「六十余州之長吏」、「別所と俘囚」、「長吏の研究」他を次々発表。
1953年 - 1月、『長吏と特殊部落』を出版。9月、『西郊文化』5輯に「乗潴駅所在考」を発表。
1956年 - 1月、『武蔵野』35巻1号に「白山神について」を発表。9月、『五百年前の東京』を出版。
1957年12月~1961年4月 - 『東京史談』25~29巻に「日本の特殊部落」を発表。
1961年1月~1962年2月 - 『信濃』13~14巻に「東国特殊部落の始源に就いて」を発表。
1962年6月 - 『日本上古史研究』6巻6号に「別所とエトリの問題」を発表。
1966年 - 9月、『天ノ朝と蝦夷』、11月『別所と特殊部落の研究』を出版。
1967年5月 - 遺著『東国の歴史と史跡』が没後出版。
Wikiより
さてようやく本論に入らせていただくわけだが、上記はそのための当座の資料である。
それにしても筆者はなぜ被差別を無謀にも扱って来たかを書いておかねばならない
。当然、正規の歴史学者たち、常識的な研究者はこの問題を避けて通ろうとする。そうしてきたために不明になり、解明できずに迷宮入りしている難問が学問には山積している。この問題を彼らはなぜ避けてきたのか?それは恐れと穢れをタブーとし、またタブーとさせたがってきた集団があったためであろう。いわゆる本末転倒と錯綜、と本人たち自身の中に内在し続ける矛盾、自己欺瞞が研究者の行く手をはばみ、かつ、自分たち自身の心の開放までもはばんでいる。
だからといって、永遠にそうした欺瞞の蜂蜜の沼の中で、傷つけあいを恐れていては、歴史の方程式は解けないことも事実である。たとえば朝鮮民族がなぜいつまでも慰安婦問題にこだわり、被害者意識の権化になりたがって前に進もうとしないかと同じ次元の大問題である。
心の中に国境がある。
越境せねばならんばい。いつかは。
会津がいつまでも薩長を憎む。越境せねばならんばい。超越せねば前は見えてこない。
だからでしかない。
幸い、同盟からも連盟からも今のところ筆者自身への「やめろ」の糾弾は及んでいない。これは古代史や歴史の宿命であり、邪馬台国の謎などもその奥に潜んでいる。
もうひとつのブログのほうに、今日、ざっとしたことは書いておいた。
菊池が言っている「長吏」とか「印地」とかいういわゆる俗称に、実は差別が潜んでいる。「別所」「院内」ももちろんそうである。
あっちのブログに筆者はこう書いた。
「
四国と言えばいまいましい原発のある伊方の方角。
原発だろうが、危険な施設、あるいは原発以外のエネルギー施設、さらには往古からの官幣農作物(たばこ・シットウイなどなど)の産地は地名では「印地」・・・つまり全国的には別所とか院内などと呼ばれてきた主として蝦夷俘囚らが入れられた別区地帯に置かれるのであるが、この説は古くは明治~昭和初期民俗学者・菊池山哉や南方熊楠なんぞが力説してきた。環境劣悪ゆえに、往古反駁を繰り返した民族がわざわざ連行され、そこに入れられ、「別所」とされて代々、鉱山開発(別所銅山は有名すぎるほど有名)蝦夷や渡来系職能の民、政治犯、犯罪者たちが、まるでちょっと前の東北の出稼ぎを排出した村々のごとき、飯場(はんば)の3K労働力として、政治的には骨抜きにされ、「もののけ姫」のたたら飯場の呈で、してやられてきたところを、戦後の社会主義的方向性が彼らにあらたな報酬をあたえんがために鉱山開発が鉱毒でだめになったり、たばこ有害説によるえせ健康ブームでだめになった官幣作物の代用品として超危険な原発や処理作業を与えたため、確かに出稼ぎはしなくてよくなって宮沢賢治の夢は達成したかもしれないが、その利権争いの結果が結局は放射性汚染物質をくまなく海に空に垂れ流してしまうという、前代未聞の国賊的大失態に至ったことは、諸氏ご納得のこととと思う。
わが豊の国がそう呼ばれてきた最大の所以は、そこ産物であった小麦やたばこや七島い(しっとうい、畳表=イグサ)の一大産地が国東半島やお隣熊本県南部や鹿児島県にあり続け、そこが熊襲・隼人・筑紫の540数名の記録にある俘囚たちの囲い込まれた「別所」であり、地名にその証拠である院内・湯布院・安心院などの「印地」地名が残存することで明白なのであり、「いんち」地名の出所が平安時代の京都北白川の「印地」であったことなどは前田速夫ら民俗学のあきらかにしているところなのである。
蝦夷俘囚は、そもそもは東北の縄文世界では頭目だったものどもで、実力者だったから、遠隔地に放り込み、残った地域には逆に西日本から農民やらが屯田開拓民として放り込まれたのが奈良時代である。つまり血脈をシャッフルすることで、原住民族の怒りや祟る思いを押さえつけ、首謀者は分断したわけである。その俘囚たちが実は技術もたいしたもので、もとよりリーダーだったから各地で逼塞などしておらず、どんどん開拓・開発・生産を始めたために、弥生文化は縄文の一万年以上の知恵に驚き、影響されていった。その結果が今の日本文化の大本であろう。
それは聖なる宗教者でさえもほとんどその多くがそうした聖なるひじりと呼ばれ、出身が正反対の「穢 え」の血脈のいるところから出てくることでも証明できる。世界中で、聖人はむしろ穢人部落で発生し、被差別こそが聖なる宗教・宗派・そのリーダーを生み出してきた。なぜなら圧迫されたからである。天草四郎を出す島原などその代表。一向宗、時宗の聖人たちもみな、被差別世界から飛び出してきた。
たいがいが鶴姫伝説だの、炭焼き伝承だの、長者伝説だの、白鳥伝説だの、貴種流離譚だののメッカで、戦国時代には信長当たりが危機感でもってそれらをぶっつぶそうとした地域である。足利将軍などはあほだったのか、これをとりこんで大事に扱い、観阿弥世阿弥や歌舞伎やが出てくるわけで、信長でも秀吉でもやはりもとはそうした「阿弥」のこせがれゆえに、千利休やら本阿弥光悦やらの穢人出身者を大事にしてしまったりした。秀吉が利休を殺した最大の理由は、おのれの出自が暴露するのをおそれたからなのである。
むしろいやしき出自こそが勝者が塗り固めてきたコモンセンスのうそを堂々と暴き、分解し、止揚してきた。聖なるとはつまり本性はこれなのだった。
きたなひとこそが審美眼を持つものになれた。官僚などではなく、底辺の技術者こそが真に世界を突き動かす。本当に役に立つものを、時の政治は奪いこそすれ、自分のものとして、発案者を闇に葬った。それが敗者の歴史学、いやさ歴史そのものだった。そして彼らは押し黙った。ここが日本人が朝鮮人などとまったく異なった美学を持つ世界に冠たる偉大さなのだった。文句もいわず、もくもくと、被差別は差別に耐え、新たな技術を作り出した。これが江戸時代に職人文化と花開いた。その源流は列島の南北縄文文化にこそある。
往古より、武家も平民も米は食わされず、貧しい麦や雑穀によって生きながらえ、子孫の細い糸をつなぐようい生き延びた。だから遺伝子から彼らの血潮はうすれていくしかなかった。少数派になっていった。しかし現代でも、3Kのうしろどを支え続けている縁の下の力持ちはこの遺伝子であり、そこから真のヒーローは生まれてくるのである。」
民俗学が柳田國男以来ずっと提示してきたのはここである。
これが日本人の人間行動学の原理である。
これが畏れや祟りを生み出す。それは防御策としての巫術(ふじゅつ)を生み出し、つまり遡っていけば卑弥呼や直弧文(ちょっこもん)にまでいきつくのである。
敗北の歴史学と言い換えてもよかろう。
政治は確かに形骸的な援助は、常に、営々と彼らに施してきた。けれどそれらはみな上から目線の福祉策だった。
文献には勝者の論理でしか歴史は描かれていない。だから勝者の視線でしか歴史はこれまで解明されては来なかった。だから何もわからないままでやってきた。
ところ『平家物語』のように平家という敗者の視点で描こうとした史書もある。いずれにせよどちらも主観的な歴史物語でしかなくなる宿命にある。軍記もそうである。すべての記録は、つきつめれば客観的ではなく、歴史物語にならざるをえない。人間が描くからだ。であるかぎりはいつまでたっても歴史学は文学でしかなくなる。
では冷徹な過去の事実はどうやれば表現できるのか?
考古学は真に科学的だったか。物証でありえたか?
いや、人間が判断する限り、どんな客観資料も絶対に客観資料にはなりえないのである。たとえば青谷の戦争遺跡をあなたはヤマトと出雲の争いと見るだろうか?筆者はそうは見ない。『日本書記』の国譲りだけが出雲・日本海を攻めたと書いたわけではない。アメノヒボコも出雲と争っている。また北部九州の甕棺からも戦争の痕跡のある遺骸は山ほど出ている。出雲とヤマトが喧嘩した痕跡などは証明できない。まして弥生時代のヤマトに実用鉄器の遺物はほとんど出てこない。戦争ができたはずがない。ならば代理戦争をよその人々にやらせたという選択肢もありえてしまう。
いつまでたっても答えなど絞り込めない文科系論理はここでは役に立たないのである。そんなものは学問ではない。科学ではない。
見極めるノウハウはいったいなんなのか?
その答えのひとつが実は、明治の民俗学者の偏見の中には満ちている。
別所が生まれ出る背景は差別と暴力による異民族排斥にある。それが白山信仰を生み出す。仏教はほとんどの地域では、ヤマトとは違ってただの外国からのまれびと、訪問客だったに過ぎない。日本に仏教など実は存在していない。それはインドで仏陀の死とともに終焉しているのである。キリスト教もそうである。イエスの磔刑とともに終わっていた。それが伝聞によって形を変えて広まって来たに過ぎない。変形仏教、変形キリスト教しか今この世界にはない。しかし白山信仰にはまれびと精霊信仰としての「多神教」ではない「多種信仰」(上田正昭)としての原始からの変わらない神として永続している。本当の信仰とは仏教でもキリスト教でも回教でもなく、これである。
それが唯一、中央の権威によって隔離されてきた別所の中にのみ培養されてきた国が日本である。この形態はインドの原始信仰ヒンドゥーに非常に近い。
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国東仏教の根源には「豊国法師」たちが伝えてきた、日本最古の仏教の到来があった。それは中央の百済仏教よりもはるかに古い。信仰は教義や国家宗教のごとき政治的に利用され続けてきた形骸化された信仰などよりも実は真の仏教に近いものだっただろう。民衆と差別の民の中にこそ本物はありつづけた。