以前当ブログ「石棚のある石室と紀氏海民」で奈良平群谷の紀氏分析を予定していてそのままになっていたので、今回改めて紀氏と石棚石室、海人族がいつから海部になっていったかなどを再調査した。主とする参考文献は理数系出身の歴史考証学者・中村修の最新作『海民と古代国家形成史論』日本史研究叢刊23 和泉書院 2013.
1 海部と海人 あまべとあま
「あま」は当初は海人と表記し、これは個人、集団である「人」であり、部ではなかった。海人が海部になるのは『日本書記』記述では5世紀を遡らない。ということはヤマト政権が海部を置いたのが5世紀以後だったわけで、それはヤマト政権が蝦夷と隼人を除く列島の大半を「朝廷の傘下に収めた時期」も5世紀を遡れないのだということになる。部は大和政権がまつろわぬ海人族や山岳部族などを治めるために置いた管理された政治的臣下集団であり、それに管理されたものどもが「人」である。これは山部と山人もまったく同様であるが、海人に比較して「山人」という言葉はほとんど歴史上使われない。一般的に「山の民」である。
であるから当然、ヤマト朝廷というものは5世紀以後に成立すると考えるべきなのであろう。森博達の『日本書記』分析でも、『日本書記』は雄略紀から書き始められたというのであり、五世紀後半の雄略からこそが大和朝廷の始まりという伝承が八世紀の朝廷には存在していたと言える。
では5世紀までまつろわなかった海人族の版図とは?
これは紀伊半島に入る海人以前の中国地方の吉備(岡山県)にあって、その版図も記紀記述から類推可能である。
筆者の個人的観測では、吉備以前は弥生時代の北部九州にその震源地があったと見るが、ここではひとまず中村の分析を書いておこう。
吉備海人族の版図類推可能な記事
1 記紀記述でのヤマト政権の津・水門(みなと)・浦の記載には備中・安芸・讃 岐・豊後の記載はない。
2 備前・備後・伊予の記載は敏達・斉明朝からである。
3 西播磨の記載がない。
よって、これらの地域は5世紀~斉明期までは、吉備(王国?)の版図だったと考えられる。瀬戸内、四国北部、そして東九州太平洋沿岸である。その構成人員のすべてが隼人系・安曇系などの海人族であろう。このつながりは考古学的にも、稲作伝播の上からも弥生時代以前にまで遡れる。米も鉄も吉備は弥生時代最古の遺跡を持っている。また前方後円墳の最初も吉備盾築に求められ、弧文を中心とする吉備型埴輪もそれを語っている。ヤマトも最初は吉備の海人族が首都としていたのであろう。
これが斉明天皇以後までに徐々に吉備から裂かれてヤマトの版図になってゆく。
全国に点在した海人族の「人」集団が、徐々にヤマトに取り込まれて部に変化してゆく。その最初は雄略大王の吉備王権簒奪から始まるが、飛鳥時代中盤までは、まだまだ吉備海人族はヤマトから独立した存在だったと思われる。
最初にヤマトに飲み込まれていったのは葛城政権の一派であった紀伊半島の紀氏、次いで東海の尾張氏、日本海の安曇氏、宗像氏らである。彼らから海部が選ばれ、地方海人族居住地からまずは吉備の版図が海部管理地へと飲み込まれていくのである。
この吉備勢力海人族の制圧にともなって広がったのが紀伊の古墳群に顕著な古墳石室構造の「石棚」だったと思われる。ただし、石棚の広がりは最初、それとは逆に九州から吉備を経て紀州北部に入っていた。各地の石棚石室の到達順序は古墳の成立年代によってそれは見極めねばならない。
ヤマトからは紀氏、安曇氏、尾張氏などが海部として送り込まれることで、各地に新しい紀州モデルの石棚が広がるが、それ以前から原初的な石棚風習はすでにあったと見なければならない。それは世紀を経た逆輸入であった。
例えば6世紀まで独立性を存続していた北部九州では紀州型の複数段の石棚はほとんど存在していない。逆に4~6世紀に北部九州で流行した装飾のある石室様式は、吉備まで到達したが、近畿を飛び越えて東海・東国・福島県まで広がっている。しかし同じ海人集団であった尾張地方に装飾古墳はない。こうしたことから同時代でも同じ海人族集団でも、ヤマトにまだ服属しない集団と服属した集団があったことがわかる。つまりそもそもの海人族とは、このように個の小集団であり、地域的に地縁的結合はして中集団へと発展して行くが、政権に加担する集団もあれば、独自のテリトリーを持つものも多かったということになり、結果的にそれらをすべてヤマトが治めることができたのは、実に平安末期の源平合戦以後のことになるわけである。それはつまり縄文的地縁集団の存続だったわけであろう。
山部と海部が置かれていくことは、大王・天皇にとって海山=国土の保有者=大王であることの証明でもあり、だからこそ天皇紀にはまず最初に天皇が狩猟や漁業を行う儀式として記録され、結果的にそれが税=ニエ=山海の産物の献上へと組織化されていくことになったわけだろう。
「あま」とはそもそも中国海岸部における白水郎を指す読み方だが、おそらく日本の海人族ははるか古代から彼らとも交流、混合していたのだと考えられる。
また彼らの首長をある地域で「耳」としたと考えられ、その信仰は海洋民族に多い太陽信仰、月神信仰であり、記紀の死生観や祭祀に多大な影響を与えたと思われる。この「耳」は朝鮮語で「クイ」と読む(中村)ので、各地の耳=首長だったであろう「クイ」がつく地主神・・・例えば大山クイ、摂津の三島溝クイ、あるいは百舌鳥耳原などの人名・地名は、海人族集団の長を示しており、それら地域に今も残るアマテル御霊信仰の神社も、海人たち個の信仰だったものが7~8世紀の「大和政権」により取り込まれたのがアマテラス信仰=国家信仰に発展したと断言してよいと筆者は考える。
耳を朝鮮語変換して音声表示させるとqwiで、qはほとんど発音しない「ウイ」と聞こえる。古代発音ではおそらくクイだったのだろう。『木簡研究』第20部では
、八世紀のものと思われる木簡に「耳中部百」の人名があるが、この読みは「きべの・ひゃく」であろうという。耳をクイと読み、クイのベの百=木部の百と読むということは、『続日本紀』宝亀四年条に「耳を紀(き)とし」とあってまず間違いない。これは吏読(りどく。朝鮮渡来系官吏独特の訓)という。耳原がそもそも墳墓のある場所と言う意味であるなら、それを作った住民が紀氏あるいはその配下となった海人族・木部氏だった可能性が高まり、ひいては古墳とは(前方後円墳と言い換えてもよい)海人族の吉備から直接持ち込んだ様式だった可能性が出てくるのかも知れない。いずれにせよ木部は耳部であり、弥生時代の投馬国などの首長であるミミも、吉備=投馬国には有力な証拠であろう。(ただし朝鮮の木氏(もくうじ)と木部が同じとは言えない(辰巳和弘など)。)
なお「中」が「~に」「~の」であることは稲荷山鉄剣にある「辛亥年七月中」が「七月に」と読まれることからも間違いない。中=助詞「に」「の」である。(石和田秀行)
なぜ海人を取り込む必要があったか?
当然、海外貿易などの産業・国力のためと、租庸調のためであろう。
つづく
次回、石棚の全国分布と年代別移動。
平群紀氏と古墳と竜田川
全国「木部」と紀氏
などの予定
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