この件です。 こんな初歩的な内容を解説するのは時間の無駄な気もしますが、動画のネタになりそうなのでまずは文章で整理しようかと思います。

 なお、ここで論じる内容は本当に初歩の初歩です。ですから、自力でこの程度の考えに至れない場合は、古典的な言い方で「半年ROM」る必要がマジであるといえるでしょう。いや、表現の自由戦士の主張をROMっても何の役にも立ちませんから、もっとちゃんとした立場の人の書いた文章にあたるべきです。

 ともあれ、解説を始めましょう。なお、解説の都合上、性的(というか性搾取的あるいは性暴力的)な表現を公に公開することは非難されうる行為であるという点は自明として扱います。その辺の話は以下の動画でも軽くやったので、わからない場合は見ておくといいでしょう。

前提:0か1かではない

 まず議論の前に、表現がアウトかセーフかの議論が「0か1か」の話ではなく、よりグラデーション的なものであることを理解する必要があります。

 これはどういうことでしょうか。仮にある表現Aがあったとして、それが性暴力などの観点から「セーフな表現だ」と判断されるとき、それは絶対にどんな人でもセーフであると判断するのではなく、100人いれば例えば80人はセーフと判断するだろう、みたいな確率論的な話になる、という意味です。

 ですから、青識の質問はそもそも前提が誤っています。左の表現がよくて右がダメなのはなぜか、というのではなく、左がよいと思われやすくて右がダメだと思われやすいのはなぜか、と質問すべきなのです。「よい」と「よいと思われやすい」は似て非なる概念であり、ここをまず正確に把握する必要があります。

 そして、その前提を正しく踏まえて質問に答えるのであれば、回答はこうなります。「ananのセックス特集は月曜日のたわわよりも性暴力的ではない(つまり、セーフだと思われやすい)。なぜなら~」以下、理由を説明することになります。

 もう少しわかりやすく表現すれば、表現の評価は左をアウト(性暴力的である)とし、右をセーフ(性暴力的ではない)とする数直線上に配置されるかたちで行われると思ってください。例えば数直線が0から100の範囲をとるとして、『月曜日のたわわ』をどの数値のところに置くかはその個人の判断によります。

 しかしながら、表現を性暴力の観点で評価するのであれば、妥当な評価であればですが、誰がどう評価しても、「ananのセックス特集」は『月曜日のたわわ』より左、つまりセーフ側に置かれます。この順番は揺るがないのはなぜか、というのが今回のメインの内容です。


 青識の示す写真は、ananのものが電車の中吊り広告であり、『月曜日のたわわ』が新聞広告のものです。中には、ananの特集が中吊りになることは「アウトだ」と思う人もいるでしょう。それは個人の価値観によるところです。しかしここで重要なのは、仮に前者をアウトだと思うのであれば、『月曜日のたわわ』が中吊り広告になってもやはりアウトだと思うだろうし、アウトだと思う程度は後者のほうがより強いはずだということです。

 表現の評価が0か1かで決まらないのは、当然ですが、表現が量的に規定しにくい性質を持つからです。仮に表現へ絶対にぶれない点数をつけれたとすれば、0か1かの評価は可能ですが、実際はそうではありません。

性暴力か、それ以外か

 ではなぜ、ananはよくて『月曜日のたわわ』はダメだと思われやすいのでしょうか。最も大きな要因は、後者が性暴力である一方、前者はそうではないという点です。

 この2つは性的なものを扱っているという点が共通していますが、その性質は大きく異なります。ananの特集はあくまで成人同士の同意ある性行為を前提としています。そのことはキャッチコピーからも明らかです。

 一方、『月曜日のたわわ』はそうではありません。そもそものコンセプトが「女性を鑑賞物として扱い、週の初めの憂鬱を忘れる道具」とするものであり、広告に関するインタビューでもそれは明確になっていました。内容も未成年者女性に対する痴漢的行為、窃視、グルーミングといったものを扱っており、かつ否定していないあるいは肯定的な願望として描かれています。少なくとも、成人同士の同意ある性行為を前提としていないことは明確です。このようなコンセプトや内容は広告だけではわかりにくいという側面はありますが、インタビューでコンセプトが明確に公開されていることや、イラストや一部の漫画は無料で読めることなどから、ある程度は広告に付随すると理解しても構わないでしょう。

 性的搾取とかジェンダーバイアスといった話をいったん抜きにして考えても、加害行為(しかも、未成年に対するもの)を肯定しかねない内容のものは、そうでないものより慎重に扱われるべきである、ということくらいは即座に、感覚的にでもわかるところだと思います。

 裏を返せば、『月曜日のたわわ』が成人女性との暴力的でない性的関係を描く作品であったなら、批判される要素はかなり少なくなったとも思われます。

男女はコインの裏表ではない

 最大の要素を説明してしまったのでここからは蛇足なのですが、性別が違うというのもそれなりに影響するところではあります。

 仮にananを性暴力的でないとしても、広告において男性を性的に利用している点は『月曜日のたわわ』と同じです。女性がそうされた場合は、それ自体が性暴力的でなくとも批判される場合があるわけですが、ではなぜ男性なら許容されやすいか気になる人もいるでしょう。

 まず押さえておくべきなのは、男女はコインの裏表ではないということです。つまり、男性と女性では日本においてもおかれる立場が大きく異なり、単に入れ替え可能な同様の存在ではないということです。

 性暴力においてもそれは顕著です。もちろん男性の被害者もいますが、性暴力の被害者の多くは女性です。ですから、広告において女性を性的に扱うことは、男性を性的に扱うよりも当人にとっての脅威になる可能性が高く、より慎重に扱わなければなりません。

 このことは、実は皆さんも実感を持って理解しているはずです。シス男性の多くは、仮に男性を対象とする性的な、あるいは性暴力的な広告を見てもあまり脅威には感じません。男性が性暴力の被害にあう可能性が低く、実際に脅威に感じていない人の多くは被害にあっていないからです。

 しかし、これが「オタクが犯罪者予備軍」であるかのような報道、例えば「100万人の宮崎勤」みたいな話であれば違うはずです(この記事の読者の多くがオタクだろうと思いこの例えを出しています)。なぜ「100万人の宮崎勤」に危機感を覚えるかといえば、私を含むオタクの多くが、自身の趣味に対する否定的な反応を経験しているからです。そういう経験をする社会で、「100万人の宮崎勤」という「フィクション」が流通すると碌なことにならない、殺人犯だと疑われることは稀であったとしても色々と嫌な目にあいやすくなるだろうと思うからです。

 こういう状況で、「オタクが否定的な評価を受けること」と「シス男性が性暴力にあう」ことを入れ替えられると思う人はいないでしょう。ネガティブな経験だという点は一致していても、遭遇率その他の要素があまりにも違うからです。女性と男性の性質の差異も、これと似たようなものだと思ってください。

 以上でこの論点に関する大筋の説明は終わりです。重要なのは、表現への評価がグラデーション的であることを理解しつつ、それぞれの表現における「似ているけど全然違う要素」に着目することです。解像度という言葉がまさにしっくりくるでしょう。ぼやけた画像では同じものに見えても、クリアにすると全く違うということはよくあります。

 こうしたことを理解するには、自分の中の解像度をあげるほかありません。最初に「半年ROM」るということ言いましたが、大切なのはやはり、時間よりもROMった情報の質でしょう。解像度の低い画像ばかりで学習しても、碌な視点は得られませんから。