西部邁の最大の親友だった東大生が84歳になっても「中核派」議長を務めているワケ 対談 清水丈夫×田原総一朗(後篇)
「暴力革命」を掲げてゲリラ活動を行ってきた新左翼党派・中核派で議長を務める清水丈夫氏は、地下潜行活動を経て、2020年9月、実に51年ぶりに公然集会に姿を見せて人々を驚かせた。実はこの清水氏、かつて東大生時代は西部邁氏や青木昌彦氏と60年安保を闘っていた。前編に引き続き、田原総一朗による清水氏のインタビューを掲載しよう。
清水丈夫氏 Photo by Shinya Nishizaki
中核派議長 清水 丈夫
1937年、神奈川県生まれ。高校生時代に革命運動を志し、東京大学在学中に日本共産党に入党。58年に離党し、共産主義者同盟に参加。59-60年、全学連書記長として安保闘争を指導する。61年、革共同(革命的共産主義者同盟全国委員会=通称・中核派)に参加。97年、中核派議長に就任。69年4月より非公然活動に入る。2020年9月、実に51年ぶりに公然集会に姿を見せて人々を驚かせた。著書『清水丈夫選集』(全10巻予定)など。
中核派から国会議員誕生へのシナリオ
田原 アメリカやヨーロッパはこの30年、経済成長を続けてきました。90年代初頭のバブル崩壊以来、日本はまったく経済成長しなかった。こんな国は日本だけだ。今から30年前、日本人の平均賃金は韓国の2倍だった。今や平均賃金は韓国に抜かれている。なんでこうなったの?
清水 日本の帝国主義が、帝国主義間の競争で劣敗しているからです。
田原 なんで負けてるの?
清水 弱いからですよ。労働者・人民大衆の戦争反対、改憲反対の意識と闘いが強いから。
田原 だったら清水さんたちにとって大チャンスのはずなのに、あなたたちの政治勢力はなんで伸びないんだ。
清水 いやいや、伸びていますよ。
田原 国会議員を出してないじゃない。
清水 そんな単純な言い方はしないでください。
田原 国会議員を出せるくらいにならなきゃ。
清水 将来はそうありたいと思っていますよ。
田原 あなたたちは国会を否定してるのか!
清水 国会は直接には否定していません。しかし、あれは所詮、ブルジョア国会ですよ。
田原 そんなこと言ってたら、まったく展望がないよ。国会を否定してどうすんだ!! そんなこと言ってたら、いつまで経っても政権なんて取れっこない。議会制民主主義の内部に、あんたたちが現実に参加してないことが問題なんだよ!!
清水 我々はプロレタリア革命、暴力革命によって新しい社会を作ろうとしていますよ。
田原 ブルジョア国会だなんて言って国会を否定してるのに、新しい社会なんか作れっこないじゃん。あなたたちの暴力革命は、自分たちに反対する人間は全部敵だと思ってるんでしょ。
中核派の本拠地・前進社にて Photo by Shinya Nishizaki
清水 そんなふうには思わないですよ。
田原 デモクラシーというのは、自分たちと考えが違う人間たちの存在を認めなきゃいけないんだよ。
清水 頭から否定なんてしていません。認めていますよ。
田原 革マル派は認めてないじゃない。
清水 あれは左翼じゃないですよ。カクマルの問題はもうケリがつきました。それに「考えが違う人の存在を認めるのがデモクラシーだ」と言われたって、我々を抹殺すると言っている連中とどうやって手を組むんですか。そんなことはありえないでしょう。
中核派の現役活動家が区議会議員に当選した
田原 中核派から、区議会議員や県議会議員は出ているの?
清水 一時期は東京や大阪で、都議会議員と区議会議員や市議会議員など地方議員を何人も輩出しました。2019年4月の統一地方選挙では、我々の同志である洞口朋子さんが杉並区議会議員として当選しています。
清水氏と田原氏 Photo by Shinya Nishizaki
田原 そういう人をもっとガンガン出して、議会制民主主義を活性化してほしいんだよ。
清水 必要に応じて、議会政治活動はどんどんやりますよ。だけど選挙が革命運動の中心ではありません。議会で多数派を取るために選挙運動ばかりやるようでは、革命運動として本末転倒、ナンセンスです。
田原 じゃあ、あなたたちの運動の中心は何なの。
清水 労働運動と学生運動ですよ。反戦・反改憲の全人民の闘いです。
田原 何もやってないじゃん。
清水 そんなことないですよ。たとえば動労千葉(国鉄千葉動力車労働組合)は、国鉄分割・民営化の攻撃に対抗して勝ち抜きました。動労千葉は今も労働組合として生き残っています。「関西生コン」という労働組合(全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部)や大阪の(全国金属機械労働組合)港合同、それに動労千葉の三労組が一緒になって、毎年数千人単位で11月労働者集会に大結集します。私たちは、この三労組が呼びかける11月労働者集会の成功のために全力で闘っています。
韓国にある民主労総(全国民主労働組合総連盟)ソウル本部と動労千葉は連携契約を結んでいまして、ものすごく強固な共闘関係です。アメリカの教職員労組とも共闘関係にあり、彼らはあちこちの州で闘争をやっていますよ。中国、韓国、アメリカ、ブラジル、トルコ、フィリピン、ドイツ、イギリス、フランスなど、11月労働者集会には世界中から続々と来賓がやって来ます。
田原 そんなにあちこちに同志がいるんですか。それはすごい。
清水 ドイツの機関士の労働組合は、1000人単位の組合員がいる大きな労働組合です。彼らとは完全に共闘関係にあります。どの国でも、社会党や共産党といった既成政党の運動はどうしようもない。彼らは労働者を糾合できていません。社会党や共産党を乗り越える労働運動、革命運動という点では、我々の運動はものすごく前進しています。皆さんが考える以上に、我々の運動は国際色豊かに前進しているのです。
盟友・西部邁との決裂
田原 故・西部邁さん(元東京大学教授)には、「朝まで生テレビ!」にずいぶんたくさん出演してもらいました。東大ブント時代、清水さんは一番の親友だったと西部さんが本で書いています。でも西部さんは清水さんと袂を分かち、革命家をやめてまったく違う道に進みました。
清水 西部とは本当に親しかったのです。学生時代には、駒場寮でずっと一緒にいましたから。彼のことはすごく信頼して一緒にやってきました。でもブントが潰れたとき、彼は運動をやめてしまった。労働者階級のことが信頼できなくなってしまったのでしょうね。
田原総一朗氏 Photo by Shinya Nishizaki
田原 彼はずっと大衆を信用してなかったと思いますよ。
清水 ブントが破綻して潰れたときには、僕も揉みくちゃになって行き詰まりかけたものです。でも労働者階級の解放を目指す共産主義運動に参加したからには、ちょっとしたあれこれのことで苦しんだとしても、転向なんて考えられない。そんな生き方は僕にはできません。人生をかけて運動に参加したわけですから。
若いころ、西部が「大衆が信用できない」というようなことを口走ったことがありました。まさか本気だとは思わなかったので、「それは間違っている!」と徹底的に討論したことがあります。西部は納得して「わかりました」と言って、それから一緒に運動を続けました。
彼は運動に没頭するし熱中するし、大衆運動を作る力がものすごくあります。だから運動から離れてしまったときは、本当に惜しいことをしたと思いました。
田原 それから彼はアカデミズムの世界に入り、東大教授まで上り詰めました。
清水 テレビで発言している様子を見ると、ブントで活動していたころとはまったく逆の方向のことを言っていたものです。「なんとまあ」と悲しい気持ちになりました。転向し、若いころやっていた運動とはひっくり返ったことを今やっている。そのことについてどこかで納得がいかず、苦しんでいたんじゃないですか。だから最終的に、ああいう形で責任を取ったのだと思います(2018年1月に入水自殺)。
取材が行われた東京都江戸川区の前進社 Photo by Shinya Nishizaki
田原 西部さんは亡くなる2年くらい前から、僕に会うたびとにかく「死にたい」「死にたい」と言っていましたよ。
清水 潜伏活動を送る中、実はある場所で西部と偶然会ったことがあります。そのとき彼は「自分のやり方は失敗だった」と言っていました。資本主義経済は駄目だ。資本主義も資本家もまったく信用できない。とてつもない絶望感に陥ったはずです。何もかも信じられなくなってしまった。彼はアカデミズムの世界なんかに転向せず、僕と一緒に闘い続けるべきだったと思います。そうすれば今でもピンピン元気にしていたと思いますよ。
もう一人の盟友・青木昌彦のこと
田原 ノーベル賞候補とも言われた経済学者の青木昌彦さん(元スタンフォード大学教授)も、東大ブント時代に清水さんや西部さんと一緒に戦った同志ですね。青木さんは日経新聞の「私の履歴書」の中で、こう書いています。
《六一年の三月に東京・南青山にあった私の四畳半の下宿にプロ通派のメンバーが全員集まった。清水(丈夫)と北小路(敏)が、革共同に合流しようと切り出した。彼らは我々もすぐ同調すると思っていたらしい。だが即座に西部(邁)が「まっぴらごめん」と言った。私もこれまで思想的にも相容れず喧嘩してきた連中に、政治的便宜主義、ご都合主義で頭を下げるのはとんでもない話なので、一も二もなく同意した。他の連中もそうだった》
清水さんについて「後に革共同の中で凄惨な内ゲバを繰り広げる当事者になる。稀有の才能の持ち主だっただけに惜しいことだ」とも書かれていました。
清水 いやあ、青木は自分が転向したことについて、ルーズな言葉で説明してゴマカシているだけですよ。60年安保の闘争をやっている最中から、彼はいつもどこかに逃げ道があるような中途半端なスタンスをとっていました。だからブント時代の最後には、ほかの活動家から信用がだんだん失われていったのです。
取材が行われた前進社の前には警察車両が常時配置。前進社では、ガサ入れを警戒するため、24時間でモニターで監視している Photo by Shinya Nishizaki
田原 二つの道とはどういう意味? 青木さんはブント時代から、革命家として生きる道以外にどこかで「学者になろう」という志向があったということですか。
清水 自分の能力を生かせるのであれば、革命運動ではない道にブレたっていい。心のどこかでそう思っていたから、ちょっとした振れ方の違いでどんどん違う道を進んでしまったのでしょう。西部にしろ青木にしろ、革命運動にはいろいろな波があるものです。
田原 ほかの仲間がどんどん転向していくのに、60年以上も変わらず運動を続けてきた清水さんがすごいですよ。
清水 人間がとても単純なんです。
田原 そんなことないです。ちょっとでも展望が見えなくなったら、普通は運動なんて続けられなくなるものですよ。
清水 子どものころ目撃した2.1ストの熱気は強烈でした。あの経験は大きかったです。
田原 1947年2月1日にあるはずだったゼネラルストライキですね。何百万人も参加するはずだったのに、マッカーサーの指令によって潰されてしまった。
清水 結局は中止に追いこまれてしまいましたが、「労働者階級が次の社会を担うのだ。働いている人が社会の中心にならなければ、本当の社会なんてできない」と子どもながらに確信しました。
清水氏 Photo by Shinya Nishizaki
田原 2.1ストはなんで失敗したんですかね。
清水 共産党が裏切ったせいです。彼らには進駐軍と闘う方針がありませんでした。
田原 共産党は進駐軍の味方だもん。
清水 そうですよ。
田原 共産党だけは進駐軍のことを「解放軍」と呼んでいた。
清水 まったくそうです。
田原 ほかのところは全部「進駐軍」とか「占領軍」と呼んでいた。共産党だけは「解放軍」と呼んでいて、徳田球一も野坂参三も進駐軍とは仲が良かったですよね。
清水 あのとき共産党さえ裏切っていなければ、2.1ストは決行できたはずです。労働者階級が団結して、革命運動の中で力をつけて生産手段を自分の手にしっかり握れば、社会経済を回していくことは難しくありません。革命運動といっても、そんなに難しいものではないのです。大きな意味での歴史の必然ですから、絶対に勝てると昔から思ってきました。
ラジオ体操が一番の健康法
田原 世の中はみんな「中核派は極めて危険な暴力集団だ」と大宣伝してきました。労働者たちから信頼を得るためにはどうすればいい? そこがあなたの一番の仕事だと思う。
清水 そのために地下活動をやめて、こうして公然化したわけです。これから本当の大衆運動を巻き起こしていきますよ。
田原 ほとんどの人間が途中でねじ曲がるわけですよ。その点、あなたは途中で一度もねじ曲がっていない。
清水 そこだけが取り柄ですから。
清水氏 Photo by Shinya Nishizaki
田原 なんであなたはねじ曲がらなかったんですか。
清水 このようにしか生きようがなかったからですよ。幸いなことに、僕と同年代の同志は日本中にいます。高齢化は悪いことのように言われますが、良い面もあるわけです。若い時代に正義感に燃えて、全力を挙げて60年安保や70年安保、沖縄で闘った。高揚した大闘争に参加した経験がある60代、70代、80代はいっぱいいます。彼らは今も元気でピンピン活動する力があるわけです。
新聞の「声」欄を読んでいると、10人のうち5人くらいは必ず政府や内閣に対する鋭い批判を書いていますでしょう。70代、80代に限っては、十中八九がかなり強固な反政府じゃないですか。
自民党内閣がやることに対して反対する人たちが100万人単位どころか、1000万単位で存在する。我々はそういう人たちに囲まれて運動をやっているのです。60年安保も70年安保も問題にならないような、圧倒的で大規模な大衆運動を大爆発させたい。それができれば、革命はそんなに遠くないと思っています。
田原 それにしても、このような立派なビル(前進社)を中核派がもっているのはすごい。感心しました。シンパがたくさんいてカンパが集まらなければ、これだけの建物はもてませんよ。清水さんは前進社に住んでいるんですか。
前進社の食堂 Photo by Shinya Nishizaki
清水 そうです。2020年7月からここで暮らすようになりました。
田原 ブントで戦っていた20代のころと比べて、さすがに体力の衰えを感じていると思います。老いについては自覚されていますか。
清水 さすがに80を過ぎてから、だいぶ体力が弱ってきました。健康には相当注意してがんばってきたつもりですが、しょうがないですね。
田原 生涯現役で革命運動に取り組むことが、清水さんにとっての一番の健康法ですよ。
清水 健康法をほかに一つ挙げれば、ラジオ体操をやっています。ラジオ体操はすごく効きますよ。田原さんもやってください。
田原 東大で学生運動をやっていたころの清水さんは、革命はもっと早く成就すると信じていたはずです。その清水さんが今や84歳になられた。革命家として80代まで現役で活動する人生になったのは、まったくの想定外でしたか。
清水 もっと早く運動が爆発すると思っていました。大変な闘いですから、長い時間がかかるのは当然だと今は思っています。
田原 もしかすると、清水さんが生きている間に革命は成就しないかもわかりません。
清水 今の情勢を見ていると、意外とわかりませんよ。僕が90歳まで生きられたら、革命の始まりと言えるものが起こる可能性はあると思っています。そう願ってがんばりますよ。(2022年3月13日、前進社本部で収録)