スレッド一覧

  1. ひらがなプロジェクト(261)
  2. アルベア論(975)
  3. 虚構の大石寺疑惑(3)
  4. 掲示板の注意事項(1)
  5. 2015年安保法制(977)
  6. アラシ行為記録(21)
スレッド一覧(全6)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:12/133574 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

(改革) 良心的不服従 2/4:様々な抵抗活動

 投稿者:ClearSky  投稿日:2022年 4月10日(日)19時58分5秒
  通報
  (2) 様々な抵抗活動

「服従を拒否する行動」を「不服従」と呼びます。
不服従と言えば、ガンジーの「非暴力不服従」運動が有名です。
中でも「塩の行進」を知っている人も多いでしょう。
なぜ「塩」なのでしょうか。なぜ「行進」が不服従なのでしょうか。

詳しい人は是非解説して欲しいので、よろしくお願いします。
以下に、私の理解の一端を記しておきます。

当時のインドで「塩」は「専売制」でした。
英国植民地政府が製造や販売を支配していました。価格や販売量を統制されるだけでなく、英国政府の塩以外を所有すれば違法となりました。
当時のインドは、塩の他にも資源の搾取、産業化の妨害、課税など、英国の支配を受けていました。
『塩』はインドの人達にとって「支配の象徴」だったと思います。
もともと、海に溶け込んでいる塩はすべての生き物が自由に摂取することができるものであるはずです。
それを支配者が支配のために使う。そして支配者は私腹を肥やしていく。
支配者にそんな権利はありません。当たり前のことです。

インド人が必要な塩は、インドの海でも採れます。インドの海の塩を他国が取り仕切り、インド人が金を払って買うのです。
「塩」はまさに「服従」「隷属」の象徴だったと思います。
支配されることに疑問を持たないインド人に、「塩はインドの海で採れる」「インドの海から作られた塩はインド人のもの」であることを教えるために、ガンジーは「塩」を求めて海まで「行進」したのだと思います。

「塩は(英国から)買うのが当たり前」と考えていたインド人に、「支配されていること」「不当な支配であること」に気付かせ、「目覚めよ」と呼びかけるためにガンジーは海に向かって「行進」したのではないでしょうか。
「塩」を通して「不服従」を、最終的には「インド人の自立」「インドの独立」を促したと考えます。

私たちの活動に当てはめてみます。
私達の活動は「広宣流布のため」「立正安国のため」と公言しています。日常活動も支援活動もです。
しかし、本当にそうでしょうか。おかしな活動を推進して、広宣流布と立正安国への流れに逆行してないでしょうか。
人と社会を不幸にする活動に手を染めるべきではありません。
もし間違いがあれば、それを指摘し、相手を諫めるべきです。これが最善の策です。

しかし、やるべきだと分かっていても現実には難しいかもしれません。
多くの人が一歩を踏み出せないのはこの状態なのではないかと想像しています。

幹部の過ちを指摘し、正義を主張するのはなかなか骨が折れます。
また一人では難しいこともあるでしょう。
だからこそ、対話が必要なのですが、最初から全てが上手くいく訳ではありません。

悪と戦うには覚悟が必要です。そして、悪を追放するには犠牲が伴う可能性があります。
多くの会員が悪と戦うのに躊躇・逡巡しているのは、この「覚悟」と「犠牲」によるのではないでしょうか。

但し、「このままではいけない」「本当に変えないといけない」と思うなら、何かを始める必要があると思います。

ここに一つの提案です。

「従わない」

と言う、「ささやかな抵抗?」から始めてみてはどうでしょうか。
幹部からは追及されるかもしれませんが、うまく理由を説明できなくてもいいではないですか。

「おかしなことには従わない」

とだけ言えばよいと思います。
幹部は宥(なだ)めすかしにかかるでしょう。しかし、「おかしい」と感じるなら、あなたの良心は何か気付いているのだと思います。
上手く説明できるかどうかよりも、あなたの「良心」に問うべきだと思います。
上手く説明できないからと言って、「おかしなこと」に従うべきではありません。
上手く説明できなくても、断ち切るべきものは即座に止めるべきです。

私の知人は実験しました。幹部から言われたそうです。

「(君、)変わったね」

そうです。変わったのだと思います。
私は「自分の頭で考えてみたらどうでしょう」とだけ何年も言い続けました。彼は、既に「おかしいこと」を感じ取っていました。
そして「どうすればよいのか」迷っていただけでした。実際は「やるべきでない」ことは感じていたのだと思います。
答えは、私に聞くまでもなく、既に自分自身で分かっていたのだと思います。
彼の「良心」は答えを知っていたのだと思います。ただ、「良心が指し示したもの」に従えるまでには、「納得」が必要でした。そのためには「自分で思索する」必要があったのだと思います。
そして「今では『おかしなこと』に『おかしい』と言えるようになった」との報告がありました。

そのプロセスを整理してみます。
先ず、「① 自分の良心に問うてみる」ことです。未だ「まともな心」が残っているなら、「良心」は何かを感じているはずです。
次に、「② 自分の頭で考えてみる」ことです。思索すれば、必ず答えは出てきます。
そして、「③ 心ある人と対話する」ことです。独善を排するためにも、より効果を得るためにも、「まともな人」がいるなら語り合ってみるべきです。
決して、「おかしな人」に相談してはいけません。狂ってしまいます。「つくべき人を間違えてはいけない」との指導通りです。

今回は、最初の一歩として、「自分の良心に従って」おかしいと思うことには「それはできません」とだけ言えばよいと思います。
これで十分だと思います。

ここでは、「良心的不服従」として話を進めましたが、自分にできる様々な方法で良いと思います。
何らかの取り組みを始めてみてはどうでしょう。
 
》記事一覧表示

新着順:12/133574 《前のページ | 次のページ》
/133574