プーチンの戦い

「なにを考えているか判らない」

「言動や様子から次の行動の予測がつかない」

プーチンについて書かれたものを読むと、「頭のなかが窺い知れない人だ」という言葉がよく出てくる。

その結果は、プーチンに好意的な人にしろ、「あれは悪魔だ」と考えている人にしろ、次に何をするかが判らない、という結果になっている。

2014年のウクライナ侵攻が、より大規模な今回の全面戦争の予行演習だったことも世界の目は気付かなかった。

プーチンの政治家としての原点は、ベルリンの壁崩壊時の、東ドイツ勤務だった。

KGB支部に向かって押し寄せる群衆に向かって、プーチンの側の証言によれば、たったひとりで立ち向かって、威圧して追い返したという。

現代日本語には「漢(おとこ)」という、いかにも漫画/劇画調の語彙があるが、もとは通りの不良で、柔道と巡りあって、生涯の指針として、いまでも公然と柔道は自分の人生哲学だと述べる体格の小さな人らしい人生のスタートであるとおもう。

このとき、プーチン、37歳。

ネット上では記事を読んでいて、おや、この人は誤解しているのだな、とおもうことがよくあるがプーチンは共産主義を呪うことで政治的な人生を準備した。

この人の共産主義嫌いは大変なもので、なにしろKGB時代ですら、親しい友人たちが相手だとは言え、「我々は共産主義と決別しなければならない」と説いてまわったくらいで、ソ連時代の「親しい友人」の危なさを思えば、俄には信じがたいほどの、なんと呼べばいいのだろう、勇気とも言えるし、無鉄砲な向こう見ずぶりとも言えるし、とにかく一身の危険を顧みない行動をとっていた、

エリツィンの時代には、プーチンは「ロシアの西欧化」に向かって、必死に働いている。

KGBをやめたころ、彼の頭には構想がすでに出来上がっていて、非共産化したロシアは、自らの手で開放した傘下の共和国と、東欧諸国にも共産主義的考えを払拭させて、1993年にEUとして結実する「ひとつの欧州」に祖国を参加させるべきだと考えていた。

東欧人は、当然に、「ロシアが我々を共産主義から解放した? とんでもない。我々は瓦解寸前に陥ったロシアから自らの自由を勝ち取ったのだ」と述べるが、異なる観点から歴史的瞬間を眺めていたプーチンにとっては、「ロシアが与えた自由」で、解放後、あろうことか後ろ肢で砂をかけるようにして西側に魂を売り、ロシアを敵役に仕立てて敵対的な国家指針を取り始めた東欧諸国を観て、あまりのやりかたの汚さに呆然としたもののようでした。

「ロシア人は、もともと欧州人だ。アジアに住んでいても、ロシア人が欧州人だという絶対的事実は変わらない」といまでも繰り返し述べるプーチンにとって、自分たちを「半欧州人」と見下して、決して助ける手を伸ばさず、あまつさえ敵とみなす西欧諸国は、目を疑うような薄汚い国家集団に見えた。

「裏切られた」と、何度も述べている。

まるでステレオタイプなロシア人のようだ、というか、一宵、エリツィンがウォッカを飲み過ぎて急性アルコール中毒で昏倒して、生死の境を彷徨い出すと、クレムリンの権力者たちは、マジメで、疑いもない祖国愛に燃え、なんだかスラップスティック漫画染みているが、極めて重要な要件として、お酒もほどほどですませられる、おとなしくて目立たないプーチンに白羽の矢が立ちます。

そのときから、プーチンの頭にあるのは、ずっと「偉大なロシア」「母なるロシア」の復興だった。

かつて自分たちの手で共産主義を崩壊に追い込んだときに、卑怯にも西欧が盗み去った東欧諸国とソ連共和国、なかでも穀倉地帯のウクライナを取り返すのがプーチンの至上命題になった。

初めは軍事手段に訴えるつもりは全く無くて、舞台をG8にとって、ロシア人が欧州人であること、いま小さな援助を受けられればロシアはアジアに呑み込まれることのない欧州のキープレーヤーとして歴史を築いていけることを力説したが、欧州人を文明の精華のように思いなしていたプーチンのイメージとは遠く異なって、日本の人ならば伝説の京都人を百倍食えなくしたといえばいいのか、複雑で、意地悪で、自己中心的な考えしかもたない「食えない」西欧人たちの壁にぶつかって、いくらもがいても、壁に向かって拳を叩きつけても、簡単にいえば「なんだ、このイナカモン」という態度で、毎度毎度あしらわれた。

政治家としての見識が低すぎて問題にならない、あの男は教養がない、と、当時、なんど陰口を言われたか。

G8のユニークな点は、例えば国連の各種組織と異なって、個人と個人が信頼関係をつくって、指導者同士、お互いの個性を理解するための私的な親睦会の趣があることで、滅茶苦茶な指導者があらわれても排除決議などは出さないし、実例に挙げて気の毒だが、あまりの無見識と教養のなさで失笑を買い続けた安倍晋三のような人が紛れ込んでも、自分でメンバーを辞退しなければ、そのまま遊ばせておく。

そういう緩い結合の親睦の場であるのに、プーチンはクリミア侵攻を機に、言わば世界最高の権力をもったお茶飲み会を「脱退」してしまう。

このあたりの行動は、まるで大人の世界に絶望した純真な心を持つ不良少年のようで、うっかり読んでいると、プーチンに心情投企しそうになります。

プーチンという人は、いくつかの王宮のような邸宅に住み、若い愛人と贅沢そのものの生活をしている割に、金銭に恬淡としていて、愛人に関しても、実際に恋に落ちてしまっていたようで、「刎頸の友」のベルルスコーニやトランプとは、人間の純粋度が根っから異なるもののようでした。

プーチンの指導者としての成果は、あんまり報じられないが、赫々たるもので、共産主義を捨てたあと、社会としてのロシアのナイーブさに付け込んで、新自由主義に喰い荒らされた瀕死の経済を引き継いだプーチンは、大統領職に就いた初めの8年間で、ロシア市民の賃金は3倍、失業率は半減、

アフリカ諸国並と表現された貧困は激減して、プーチンが思い描くとおり、ロシア人は「貧しい白いアジア人」から「欧州人」としての相貌を取り戻していきます。

プーチンという人は、ほぼ典型的なアスペルガー族で、極端なくらいマジメで、不正を忌み嫌い、自分が正義と信じるものに、人生を賭けて打ち込む。

当然、怠惰で、自己中心的で、無責任に勝手なことばかり言い募る人間は生理的に嫌いで、このタイプの人が権力についたときの常として、

もう、あんまり手に負えない、こいつは腐ってると感じた人間は、手っ取り早く「始末」してしまう。

プーチンの悪名を高くした「自由の弾圧」は、プーチンからすれば、自分の手で「偉大なロシア」を取り戻すための必要悪ということになるのでしょう。

西欧人と、その清教徒的な巨大な分派であるアメリカ人に対して、プーチンは次第に激しい嫌悪と憎しみを感じていったように見えます。

こいつらは腐ってる、と何度つぶやいたか知れない。

欧州に新しくやってきた人は、初めは文明の底の深さ、まるで文化の伝統そのものが社会を運営しているような欧州独特の個人主義社会に酔ったようになるが、1020年と住んでいるうちに、まるで底冷えがするような冷たさ、

人間性は上辺だけで、自己以外の人間は「洟もひっかけない」と判って

冷え冷えとした気持に囚われてゆく。

故国の人間の温かさを思い出して、なんて腐った国だと考える人もたくさんいそうです。

日本語ネットで、「プーチンは、そこそこドイツ語も分かるし」と書いている人がいたが、プーチンのドイツ語は準母語に近い水準です。

日本の政治家では森喜朗とウマが合うことで有名だが、心から解りあえる友人だと述べたのはゲアハルト・シュレーダーで、あまりアルコールを飲まないプーチンには珍しく毎晩のように地ビール「ラーデベルガー・ピルスナー」を飲み過ぎて酔っ払っていた、個人としては多分、最も楽しかった人生の時期であるはずのドレスデンでのKGB勤務時代を考えてもプーチンが最も理解しやすい「欧州」はドイツであるはずです。

逆に、ドイツの指導者たちにとってもプーチンは理解しやすいロシア指導者で、その事情はプーチンを「あれは別世界の住人だ」と突き放したメルケルにしても、読んでいて、正しくプーチンを把握していたと感じる。

欧州指導者たちは、プーチンがウクライナで止まらないのを、よく知っている。

旧ソ連共和国を挽回したあとは旧東欧、その次は北欧、と止まらないのを共通の理解の基盤としているのは、北方戦争以来、ロシア人という不思議な民族と付き合ってきた長い歴史の結果で、アメリカとの危機感のおおきな違いも、ここから生まれている。

…. 日本語で、ひさしぶりに文章を書いてみようと考えて、取りあえずtwitterのタイムラインで話の種になりそうなプーチンについての英語人の平均理解を並べてみたが、いつものこと、なんだか飽きてきてしまった。

そのうちに書き直すか削除するかするとおもうが、乱暴に結論に飛ぶと、

プーチンは2014年のクリミア侵攻の時点で、すでに核の使用が「侵攻を問題にされるようなら」現実のものとなりうると述べている。

なにしろプーチンの頭のなかを見てみないと本当のところは判らないが、

フルシチョフやケネディ、金正恩を含めて、歴史上の指導者のなかでも、最も核ミサイルの使用に抵抗感を持たない人物であるのは、世界中の指導者が判っている。

効果的に使う恫喝だけで終わるのか、プランAのブリッツクリークが失敗して、いまはプランBの民族浄化をめざしたジェノサイド作戦に切り替えたところだが、これもうまくいかなければ、選択肢は核しかない。

それも戦術核ではゲームチェンジャーにはなり得ないので、戦略核で、世界の主要都市のジェノサイドを目指すことになりそうです。

ロシア人の友だちがいる人は、「最後は核に頼るしかない。核戦争ならばロシアが勝つ」と無邪気に述べる相手の顔を観てボーゼンとした経験があるとおもうが、ヒロシマを体験した日本の人や核実験の後遺症でいまも苦しむ南太平洋の環礁人とは、「核」というものへの認識がまるで異なっていて、

「桁違いに強烈な爆弾」に近い認識に留まっている。

そうではない。

核は人間性と人間の存在を根底から破壊するものなのだ、とうまく説明できたのは日本の人だけだったはずだが、核を使った当のアメリカに、飼い犬のようにして、すり寄るしかなかった国の悲しさで、十分に世界に届く声にはなっていかなかった。

自分の意見などは当てにならないので、プーチンとロシア人政治家たちに詳しい友人に訊くと、「五分五分」という、おっかない応えが返ってきて、

なんだ、世界が亡びる確率が半分もあるのか、と20世紀末の、結局なまけて降臨しなかった「恐怖の大王」どころではないデモクレスの剣が、自分たちの頭上にあるのを知って慄いてしまう。

そもそも絶対暴力が君臨する世界で、言葉に意味性が保てるのか。

どんな言葉も核という究極の暴力の前では無意味なのではないか。

日本の人らしい独自さというか、プーチンのウクライナ侵攻を米と欧州対ロシアの代理戦争だとトンマなことを述べる人が日本語ではたくさんいるのを知っているが、日本語人の図式遊びの極みで、相手にするのに足らない。

現実は、どうしても図式を持ち込みたければ、スペインの人民戦争のほうが

まだ近いでしょう。

民衆の予期できなかった激しい抵抗に正規軍がタジタジとなるところまで似ている。

スターリンとヒットラーの加担を考えれば「代理戦争」という知識人好みの図式も、ちゃんと存在する。

もっとも、なにを説明したって、武器を取って起ち上がったウクライナ市民を「武器を持っているのだから私服でも軍人」と述べる言葉遊びのプロが相手では、ただの時間の無駄でしょうけど。

我々の文明が、文字通り、存続の価値があるかどうかを問われているので、

プーチンがロシア版のヴァルキューレ作戦で葬られるか、愛国運動で盛り上がる世論を観ると、到底期待できないが、ロシア人友たちが信じているように、目覚めて、民衆の力で排除されるか、どういう方法にしろ退場しなければ、遅かれ早かれ、プーチンの戦争は世界の破滅につながってゆくものであるようです。



Categories: 記事

Leave a Reply

%d bloggers like this: