1. 意味の通る日本語にする。
2. 我が国家の伝統的な成り立ち(国体ないしは国柄)を明確にする。
3. 国防の基本を明示する。
4. 国民の権利を実態に即したものとするとともに義務も明示する。
5. 憲法裁判所の設置
6. 憲法改正規定の改正
自由な経済活動の領域を広げ、
不必要な規制を撤廃して活力ある社会を目指す。
自由な経済活動の領域を広げ、不必要な規制を撤廃して活力ある社会を目指す古代ローマは、失敗した者を尊重する社会であったから繁栄できた。
失敗は、チャレンジしなければ起こりえない。そのうえで失敗したということは、そのチャレンジから最も多くを学んだ者とローマ人は考えたのである。そして、ローマ人は失敗した者に再度重要な地位を与えることを常とした。これが、ローマが多くの人材を結集して偉大になったソフトである。我が国戦国時代も、人材を集めた織田信長が勝ったのである。
我が国も、規制を撤廃して自由な創意工夫の領域を広げようとするなら、このローマ人がもっていたソフトを根付かせるため、幼児教育からチャレンジを尊重する気風を育まねばならない。
それと共に、「創意工夫を尊重する社会」と「弱肉強食の社会」とは違うのであって、このことを周知徹底するためにも幼児教育段階から「礼節」と「奉仕」の観念を育むことは不可欠である。
明治政府の最大の功績の一つが、教育制度の整備であった。為政者は、まず教員を養成した。その為の全寮制の師範学校を全国につくった。これに習えば、現在の教員養成はどうなっているのか。
「日教組の教研集会」でやってきた。この戦後教育の結果が今我々の眼前に現れている。
教育の再建の鍵は、明治維新同様に優れた教育者の育成にある。
まず、教育者が「礼節」と「奉仕」の観念を血肉化させていなければ、子供達にそれを実践で示すことなどできるはずがない。
しかし、現在においても教室における優れた実践者が多くいる。私はそのような真人を知っている。だから、かろうじて教育の全面崩壊が起こっていないのである。よって、従来のように、文部省の役人や日教組の幹部や文化人だけの意見を聞くのではなく、教育実践者だけの権威ある委員会を設置してその意見を政治が断固実現するという政治のイニシアティブがどうしても必要な時に来ている。
だいたい真の教育実践者は、組合活動をしたりテレビでご高説を述べたりする暇はないのだ。まず、政治は黙々と各教室で教育実践に携わる真人の声を直接聞くことから始めねばならない。そうすれば、今の政治家がこれらの先生方の万分の一も「天下国家」のことを考えていなかったことがわかるであろう。
真の教育実践とは、民族の将来をみすえた努力だからである。この意味で、文部省は必要ない。
ところで、あるべき教育を支える前提としての社会のあり方であるが、真の教育実践を可能とする税制をもっていなければならない。それは、国民が教育を物心両面でサポートできるということである。その為には、まず江戸時代の教育を可能とした前提を調べることが必要だろう。日本国と日本人が世界から賞賛の眼をもって迎えられたのは、明治時代であるが、江戸時代に教育を受けた人々がその時代を担ったことを思い起こすべきである。
さらに教育には、「良き納税者」を育てるという観点も必要である。納税者がなければ国民は成り立たない。したがって、教育に対する有効な税金投入は、国家と社会の存続にとって不可欠の投資である。
税制とは簡単に言えば、国民の金を行政組織が使うためにある。その正当性は、行政組織が「公共のため」にその国民の金を使うというところにしかない。税で、勝手に馬を買ってはならないのである。
では、何が「公共のため」なのかを誰が決めるのか。現状では、ほぼ100パーセント「お上」が決める。つまり、税を使う行政組織だけが何が「公共のため」かを決定するという前提である。しかし、行政組織は「公共のため」を決定してそのためにしか動いてはならないということと、行政組織だけが「公共のため」に金を使えるということとは、全く異なるのである。
私は、国民が自分の金を行政組織を介さずに直接「公共のため」に使える制度を確立しなければならないと考える。それには、国民が「公共のため」に使う自分の金は、行政組織が使う税金と同じ扱いをしなければならない。
つまり、国民は税を払って行政組織に使わせることによって「公共のため」に奉仕する手段と、自分で直接「公共のため」に奉仕する手段の二つを自由に選択しえることが必要なのだ。そして、行政組織に税を渡して使う金の意義と、国民が直接公共のために使う金の意義は全く等価値と考えねばならない。ということは、国民が払わねばならない税の総額のなかで、税務署に三分の二を支払い、直接残りの三分の一を自分の納得する教育をしている学校に支払う、あるいは養老院に支払うということが自由にできなければならないのだ。この場合、学校や養老院に払われた金額は、既に税を支払ったものとして控除されるのである。
繰り返すが、何が公共のためであるかは、官僚が百パーセント決めるのではなく、国民が決めるのである。これは自分の稼いだ金であるから当然であろう。
税をこのように捉えるならば、「お上」が求める税額や税制のあり方は、少なければ少ない程良いとともに、シンプル イズ ベストを旨とすべきである。
従って、相続税などは廃止すべきである。相続税こそ、国民が一生かけて残した財産を、「お上」がどういう理由か取り上げることを前提にした極めて不合理なものである。国民は生きているとき税を納めることで十分なのだ。また、子供達が親の財産をもらってはならないという思想が相続税の根拠ならば、これは既に私有財産を否定した共産主義国家ではないか。
税制の改革は、経済のみならず文化、福祉、教育の総ての分野に影響を与えるものである。現在、歌舞伎や浮世絵などの日本文化といわれるものは、江戸時代に誕生したものである。その理由は、税制にある。当時は篤志家が、文化活動に教育に土木工事に財産を拠出できる制度であった。相続税などはない。もっと遡っても、今に残る奈良の大仏も東大寺南大門も、総て「勧進」つまり国民からの自主的拠出によって建てられた。その当時に比べて、まさに格段に豊かになった現在の日本が、後生にこれほどの文化財を残せるのか。現在のがんじがらめの税制では無理だ。これを豊かさの中の貧困という。鍵は、税制の改革にある。
福祉は、結局は金だけでは実現できない。その人の生き甲斐を見つけることができる社会であるとともに、相互に助け合うことができる社会でなければならない。
そして、安心の最低限の保障は、国家が行うべきである。消費税という税は、子供から老人まで総ての国民が支払う税である。従って、この消費税を福祉の基盤確保に当てる。それによって、子供を含めた国民相互の助け合いという福祉の基礎が税制によっても確保されることになる。
この福祉の基礎は、介護、医療、基礎年金である。
そして既に税のあり方で述べたように、国民が税を納める替わりに自由に助け合いのために財産を支出できる体制が整えれば、役所の福祉ではない国民の福祉が実現する。税制は、福祉、教育、文化そして当然に経済活性化など総ての分野に、影響をもつ鍵である。
私の尊敬するチャップリンの「ライムライト」という映画に、主人公が若者を勇気付けるために、「人生に必要なのは、意欲とイマジネーションと、少々の金だ」という言葉が出てくる。
真の福祉を支えるものは、このような生き方をする活力ある国民である。
民間の活力を増強することを略してよく民活といわれるが、私に言わせれば官活つまり官吏・行政組織の活力の増強もそれに劣らず重要である。そして、民活と官活は不即不離であらねばならない。官の活力は民の活力から生まれ、民の活力は官の活力から生まれる。
それ故、現行の科挙のような公務員試験制度を抜本的に改革するときだ。つまり、キャリア制度の廃止である。現在は、学業を終える際に、公務員として生きる者と民間で生きる者が分離され、両者の世界はそのまま交わることはない。これを両者がお互いに人材を供給しあうように改める必要がある。これは、我が国が活力を勃興させた明治の前半の姿である。
まず、現行法制でできるところから始める。それは肝心の行政組織の長である国務大臣を出来るだけ民間人から登用するということである。現行憲法六八条には、国務大臣の過半数は国会議員のなかから選ばれねばならないとある。これはそれ以外の大臣は民間から選ぶことができることを示している。
現在のように、当然のように派閥力学で国会議員から大臣を選んでいるのは「陋習」である。例えば、経済関係の各大臣は、企業経営において卓越した民間の人材から抜擢するということが恒常化していれば、どれだけ日本経済が助かっていたことか。
まず、国務大臣の登用から官活・民活の融合の成果をだすべきだ。
自衛隊を「国民の軍隊」つまり国防軍として、陸・海・空軍にそれぞれふさわしい法制を整備する。軍務に服することは、国民の保持すべき徳育である「奉仕」に含まれることを確認する。
外交に、国家としての威厳と誇りを取り戻し、国益のため「万民保全」のための積極外交を展開する。
なお、情報の収集とその保持は、国家の運命を左右する重要な事項であるとの認識のもとに、外務・国防・警察の各部署からなる総合的な情報収集機構を創設する。また、戦後放置されてきた「機密保護法制」を整備する。
情報は、国防、外交、治安維持の成否を決する重要事項であることを認識すべきである。特にこの分野においては、情報なき組織は、絵に描いた餅、張り子の虎である。