「食事は漬物2、3切れ」“地獄”の始まり…捕虜6万人が命を落としたシベリア抑留の記憶 零下30度の地での過酷労働【福井発】
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2021年8月15日、76回目の終戦の日を迎えた。
戦争を直接語れる世代は年々、少なくなっている。福井県の96歳の男性が、終戦後、旧ソ連によって過酷な労働を強いられたシベリア抑留の体験を語った。
15歳で満州へ 戦争末期に入隊、10カ月で敗戦
福井市江尻ケ丘町の山脇深さん、96歳。シベリア抑留を経験した。
山脇深さん:
収容所から逃亡した日本人が(ロシア兵に)連れてこられて、みんなの前で射殺された。「お前らも逃げたらこういう目に遭う」と言われた
1939年、15歳の時に当時、日本最大の企業だった「南満州鉄道」に就職。「国内よりいい生活ができる」と教師に勧められ、当時の日本領・満州の清津(せいしん)に渡った。
山脇深さん:
(満州鉄道)社員の生活必需品を販売する消費組合の“親方”だったんですよ。給料は良かったね
山脇さんは戦争末期の1944年10月、徴兵検査に合格し、陸軍に入隊。
朝鮮半島北部の会寧(かいねい)にあった陸軍病院で、衛生兵として兵役に就いた。
山脇深さん:
軍医のそばで1人1人、患者の容体を記録していた。病気で運ばれてくる人の方が多かった
しかし、戦局は悪化し、入隊から10カ月後に敗戦を迎える。情報統制が敷かれ、敗戦の知らせは、まさに寝耳に水だった。
山脇深さん:
当時はやっぱり、日本が負けるという考えはなかったね
敗戦で一転…シベリア抑留の地獄の日々
敗戦を契機に、満州にいた日本人の運命は一転する。
山脇さんは侵攻してきたソ連の捕虜となり、シベリアへと連行された。捕虜は累計60万人、零下30度の極寒の地で労働を強制された。
のちに「シベリア抑留」と呼ばれる、地獄の始まりだった。
山脇深さん:
(鉄道の)枕木が不足しているので、その伐採をしてほしいと言われた。ノルマは、直径1メートルの木を6本切ること。寒さがきつくて、防寒靴は履いたまま寝ていましたね。脱いでしまうと、寝ている間に足が凍傷になってしまう
抑留者たちは、激しい飢えにも苦しめられた。
山脇深さん:
おかゆも何もくれない。飯ごうに半分くらいトマトかキュウリの漬物を2、3切れ。それをスープにして食べた。仕事のノルマが100%の人だけ(食べることができた)。あとは何も与えられない。松の実がなっているのを見ると、あいつら(ロシア兵)がみんなとって行ってしまう。100個ほどなっていても、1つか2つしか自分のものにできなかった
60万人が抑留され、10人に1人、6万人が命を落としたとされている。
「今思い出しても涙が…」 1年半の抑留から帰国
常に死と直結する過酷な日々の一方、癒しのひとときもあった。零下35度以下になり作業が中止になったとき、演芸会を行ったという。
山脇深さん:
「踊る心さながらに へ先に描く返り文~」と歌ったりして…。そうするとみんな、面白がっていた
山脇さんは1年半の抑留を経て、1947年4月、日本への帰国を許された。
最初500人いた収容所の仲間は、栄養失調や病気などで亡くなり、1年半後には200人になっていた。
山脇深さん:
あぁ本当に帰れたんだなぁと、感極まったね。本当に何とも言えない、あれはもう。今思い出しても涙が出る。うれしかったねぇ…本当にうれしかった
インタビューの最後に、山脇さんは次の世代へ平和の大切さを訴えた。
山脇深さん:
一部の人たちは(戦争の)思想を持っているかもしれないけれど、僕らは戦争は一番嫌だし、二度としてはならんと、つくづくそう思う
(福井テレビ)
(FNNプライムオンライン8月22日掲載。元記事はこちら)
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