ウォロディミル・ゼレンスキー氏が2019年、ウクライナ大統領に選出されたとき、いささかの失望を感じ、当惑せざるを得なかった。「職業に貴賎なし」とはいえ、まったくの政治、行政経験がない素人が、大統領の重責を担うことになったからだ。
ゼレンスキー氏が人気を博したのは、「国民の僕(しもべ)」と題する政治風刺ドラマで破天荒な大統領役を演じたからだった。ドラマの中で立派な大統領を演ずることと、実際によき大統領として振る舞うことは異なる。子供でも理解できる道理であろう。
だが、ウクライナ国民はドラマの中の大統領を、実際の大統領に選び出した。私は「衆愚政治の極みではないか」と考えたのだ。
しかし、危機の際に本質は顕現する。ゼレンスキー大統領は類い稀(まれ)なる偉大な指導者だった。ウラジーミル・プーチン大統領率いるロシア軍の全面侵攻を受けて、米国から国外退避を勧められた際、彼は言下にこれを否定した。
「戦闘が続いている。必要なのは弾薬であり、(退避のための)乗り物ではない」
闘うウクライナ国民を、何よりも鼓舞した言葉だろう。
仮に、ゼレンスキー氏が国外に逃げ出していたならば、ウクライナ国民の士気は消沈し、プーチン氏による傀儡(かいらい)政権が誕生していた可能性も否定できない。
彼の不屈の闘志が、プーチン氏の野望を打ち砕いた。指導者の胆力が一国の運命を左右した好例といってよい。
英国議会における演説も、掛け値なしで出色の出来だった。英国が誇る劇作家ウィリアム・シェークスピアや、名宰相ウィンストン・チャーチルの言葉を巧みに引用し、英国国民の心をわしづかみにした。
『ハムレット』のあまりに有名な問い、「生きるべきか、死ぬべきか?」に対して、「われわれは生きるべきだ」と言い切ったゼレンスキー氏の意志は、多くのウクライナ国民の意志でもあったはずだ。
誰が見ても、大国ロシアに侵略されたウクライナは不幸である。だが、彼の国の指導者、国民の闘う気概を目の当たりにして、「羨望の念」と「不安の念」がわが胸を去来した。
果たして、わが国が亡国の危機に陥った際、ゼレンスキー氏のような胆識ある指導者が現れるのか。そして、わが国の国民は、かの国民の如く祖国のために闘う意志を持つことができるのか。
敵が侵攻してきた際、逃げ出せばよいというのは1つの立場である。生命第一主義の考え方からすれば、それは正解なのだろう。だが、わが国の歴史に思いを致したとき、どれだけおびただしい人々が、わが国を守るために殉じていったことか。彼らの犠牲の上に平和で繁栄した日本がある。
祖国の為に闘う人々は気高い。国民国家の常識を忘れたわが国の将来が不安である。
■岩田温(いわた・あつし) 1983年、静岡県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、同大学院修士課程修了。大和大学准教授などを経て、現在、一般社団法人日本歴史探究会代表理事。専攻は政治哲学。著書・共著に『「リベラル」という病』(彩図社)、『偽善者の見破り方 リベラル・メディアの「おかしな議論」を斬る』(イースト・プレス)、『なぜ彼らは北朝鮮の「チュチェ思想」に従うのか』(扶桑社)など。ユーチューブで「岩田温チャンネル」を配信中。