本当に期待にそぐわない試合を、いつも見せてくれて、溜飲をぐっと下げさせてくれるボクサー。
「100年に1人の天才」こと具志堅用高は、満を持して1976(昭和51)年10月10日。山梨学院大学体育館において、「リトル フォアマン」ことファン ホセ グスマン(ドミニカ)の持つWBA世界ジュニアフライ級への挑戦が決定。
なお、入場曲はメイナードファガーソンの「征服者」である。
21歳の具志堅はテクニック、スピード、そしてパンチ力でもグスマンを圧倒し、7RKOで破り、日本ボクシング史上に残る王座奪取劇を演じてみせた。
デビューからわずか9戦目、当時の日本人ボクサーの「世界タイトル奪取最短記録」。
グスマン戦後の勝利者インタビューで「カンムリワシになりたい」と言ったことから、以降はこの「カンムリワシ」が具志堅選手の代名詞となり、トランクスに絵柄が刻まれる。
その後、具志堅選手が打ち立てた世界王座連続防衛記録13回は、いまだに破られていない不倒の大記録(第2位が山中慎介選手の12回)。怒涛の「6連続KO勝ち」もいまだに日本記録。
20回防衛も夢じゃないと噂されていた1980(昭和50)年10月、13回目の防衛戦で伏兵ペドロ フローレスに苦戦。判定での薄氷を踏む勝利となるが、これが疑惑の判定とされ、再戦決定。
14度目の防衛戦は1981(昭和56)年3月8日。故郷沖縄での凱旋試合として具志川市(現在のうるま市)の具志川市立総合体育館で開催。
これまで年3~4回もの防衛戦をこなしていた具志堅選手は、約半年のインターバルを設け、万全を期してこのフローレスとの再戦に挑む。
試合開始早々から猛然とフローレスを攻め立て、早々にKO勝ちを予感。ところがである、5Rあたりから突如謎のペースダウン。8Rには見たことのない連打を浴び、遂にダウン。あまりにもしつこい連打。こんなシーンは初めてだった。
9R以降は毎回ロープを背負い12R、右ストレートをまともに浴びて2度目のダウン。
辛くも立ち上がり試合続行となるが挑戦者の追撃に襲われ、セコンドからタオル投入。
その後の検査でこのあたりの記憶がないことも判明し、また網膜剥離寸前とも診断。そして引退。
翌日のスポーツ新聞のタイトルにこんなのがあり、いまだに焼き付いている。
「香澄、すまん」。
この防衛戦後、ホテルニューオータニで4億円規模の挙式を控えていた具志堅。すっぱりと勝って、挙式の最高の手土産にし、そして華々しく引退...の予定だったのではと思う。
「毒入りオレンジ事件」があり、セレモニーはなかったことも残念だ。
具志堅を初めて倒したペドロ フローレスは初防衛戦で金煥珍に敗れる。
4年以上具志堅が防衛してきたベルトをたった4か月で失うという(笑)。
そして、この金を渡嘉敷勝男が破り王座を奪回するのだ。
セコンドにいた具志堅がリングに上がり後輩・渡嘉敷の手を挙げるシーンが懐かしい。
具志堅が敗れて9か月後のことだった。
渡嘉敷は金煥珍との再戦にも勝利。
金はプロ入り後2敗。
その相手はすべて渡嘉敷だった。
omake