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私たちのセカイ

 投稿者:園主メール  投稿日:2009年 9月22日(火)09時50分18秒
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  みなさま、あいかわらず書き込みをサボっている私でございますが、読書の方は快調に進んでおります。いまはアウトプットよりもインプットの時期なのではないかと、新たな言い訳を思いついたりしている今日この頃でございます(笑)。

最近読んだ小説のなかでは、秋山瑞人の『イリヤの空 UFOの夏』(全4巻・角川電撃文庫)が面白く、かつ興味深い作品でございました。
見てのとおり、この小説は若者向けの文庫レーベルである「電撃文庫」から刊行されている、いわゆる「ライトノベル」でございまして、表紙には可愛らしい女の子のアニメ絵(セル画風イラスト)が描かれており、四十を過ぎたオジサンには、ちょっと買いにくい文庫本だと申せましょう(笑)。
私がこの作品を読むことにしたのは、かねてより本作がいわゆる「セカイ系」作品の代表作として、東浩紀や笠井潔周辺の評論家の論文にしばしば言及されていたからであり、直接的には先月、笠井潔が結集した評論家グループである限界小説研究会による編著評論集として刊行された『社会は存在しない ― セカイ系文化論』(南雲堂)を読んで、この作品がくり返し言及されているのを確認したからでございます。

『社会は存在しない』のなかで「セカイ系」の代表的な作品としてくり返し言及されていたのは、新海誠の短篇アニメ『ほしのこえ』、高橋しんの長編マンガ『最終兵器彼女』、そして秋山瑞人の長編小説『イリヤの空 UFOの夏』の3作でございました。私の場合、『最終兵器彼女』は連載時(すなわち「セカイ系」という言葉がまだ一般化していなかった頃)、それと知らずに単行本で3巻くらいまで読み、その展開の鈍さに興味が持続せず途中で放り出してしまったのですが、とは言え、どういう作品なのか、その雰囲気はつかんでおりました。また『ほしのこえ』については、短篇(25分)ということで観てはいないものの、あちこちの紹介文からおおよその内容は把握しておりましたし、その気になればいつでも観られると思っておりました。ですから、「セカイ系」とはどのようなものなのかを、作品に直接せっすることで理解するため、まずは『イリヤの夏 UFOの空』を読もうと思っていたところ、ブックオフで4巻揃いを見かけたので、この機会にと購読したのでございます。

『イリヤの空 UFOの夏』(以下『イリヤの空』と略記)を一読した感想は、おおむね次のようなものでございます。


 1、優れた「青春小説」である。

 2、なるほど登場人物の描き方は、従来の自然主義文学的なものではなく、
  まんが・アニメ的リアリズムに依るもので、往年の純文学読者なら抵抗
  のある描写も見られ、その意味で本作は、たしかに「ライトノベル」で
  あるが、それは作品としての弱点とは言えず、時代の嗜好の変化と理解
  すべきであろう。

 3、なるほど本作は、「セカイ系」の形式は備えているが、「セカイ系」
  の弱点として語られる「社会性の欠如」があるとは言えず、その意味で
  は「普通に優れた青春小説」であり、この小説を「セカイ系小説」の側
  面だけで語るのは片手落ちであり、作品にとっては不幸なレッテル貼り
  でしかない。


ここで、簡単に「セカイ系」とはどういう作品なのかを、その平均的な意味を紹介しておきたいと存じます。

「セカイ系」とは、「キミとボク」(しばしば若い男女)の二者関係が「世界の運命」や「世界の終わり」と直結しており、中間項としての「社会」が描かれていない作品を指します。――こう書いても、実作を読んでいない方にはわかりにくいでしょうが、例えば、前記3作品『ほしのこえ』、『最終兵器彼女』、『イリヤの空 UFOの夏』に共通するのは「語り手である少年が出逢った少女は、じつは世界の運命を担った特別な戦士としての運命を担わされており、そのために少年と引き裂かれる運命にある」というような設定でございます。

つまり、これらの作品に共通するのは、罪もない(純粋な)少年少女が「世界の命運を賭けた戦い」という圧倒的な「運命」に暴力的に巻き込まれて翻弄される「悲劇性」だと申せましょう。
ですから、これらの物語には「せつなさ」「痛ましさ」といった側面が色濃く、ある意味では「不治の病が恋人たちを引き裂く物語」である『世界の中心で愛をさけぶ』(片山恭一)と共通する「雰囲気」をたたえており、若い読者ほど、そうしたものに純粋に感動することができるのだと存じます。

しかしまた、そうした「大きな力に翻弄される弱者の悲劇」というものには、ややもすると「お涙頂戴」的なものや「ボクって可哀想」的な自己陶酔・自己憐憫が感じられることもあり、「セカイ系」という言葉は、当初そうした雰囲気を揶揄する言葉だったものが、後に(価値判断を含まない、形式を指すものとしての)批評・文芸用語に転化したものなのでございます。


ここまで説明して、やっと私の『イリヤの空』の感想の意味がご理解いただけると思います。
たしかに『イリヤの空』は、典型的な「セカイ系」の「形式」を、表面的には備えております。すなわち、「セカイ系」の先駆的な作品であるテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』と同様、少年少女の学園生活と世界を揺るがす宇宙からの未知の侵略が、直接的に隣り合って存在し、中間項としての「社会(機構)」が描かれていないのでございますね。
しかし、『新世紀エヴァンゲリオン』とは違い、『イリヤの空』の場合には主人公である少年少女の運命の悲劇性を強調し、当事者たちの困惑や焦燥を読者にも共有させるために、「社会的な位相」が「裏設定」として物語の終盤まで隠されているだけであり、最後に明かされる「社会状況の現実」については事前にきちんと伏線も張られていて、決して「社会性が欠落している(=二者関係が世界と短絡している)」ということではないのでございますね(『新世紀エヴァンゲリオン』では、最後まで裏設定の一部しか明かされない)。ですから、『イリヤの空』は決して「セカイ系」という言葉が連想させる「ひきこもり的自己憐憫妄想」のような作品ではなく、私たちの現実世界や現実社会を考える契機となり得るだけの中身を備えております。――例えば、終盤で語られる「世界の真相」としての「異星人からの侵略を受けて戦争をしているのだが、それが一般には隠されている。なぜならば、それを一般に知らせることは、無用の混乱を招くだけで、実際的なメリットがないからだ」とか「異星人の侵略という局面に直面しても、人類は一致団結するということができない、度しがたい党派生物であることがハッキリした」というような「フィクション」は、私たちが生きるこの現実社会を色濃く繁栄しております。

例えば、私たち一般市民の多くは、「9.11」が発生するまで、アメリカが世界政治において、どんなに卑劣で暴力的な謀略を「現に用いてきたか」ということを知らなかったのではないでしょうか。世界貿易センタービルが旅客機による自爆攻撃をうけて崩壊するという、アクション映画のワンシーンさながら映像を目の当たりにするまで、私たちはそれに値する悲惨と暴虐がこの世界に存在するという事実を、子供たちが戦車に投石で立ち向かい、時に自爆攻撃も辞さないというリアルな現実を、どこかで忘れていたのではないでしょうか? また、日本が平和で豊かな国だと言っても、それは他国や後進国の犠牲のうえに築かれた豊かさだという現実を、どれほどの人が自覚していましょう? 例えば、日本人は勤勉だったから、一生懸命はたらいて戦後の焼跡から奇跡の復興を成し遂げたのだという「手前味噌な物語(=神話)」からは、ベトナム戦争や朝鮮戦争の「特需」によって日本が潤ったのだという「汚い事実」は隠蔽されております。
つまり、私たち自身には「キミとボク」の二者関係もあれば「世界」もあり、その中間項としての「社会」もあるというのが自明の前提となっておりますが、実際のところ、私たちが知っている「世界」も「社会」も、その「実相」の多くは、隠されているか、目を背けているかで、多くの人にとってそれは、実際には無いにも等しいものなのでございますね。私たちの多くは、「キミとボク」の世界に生きながら「社会や世界というフィクション」を夢見ているだけだとも言えるのでございます。

ですから、『イリヤの空』は決して、若者の引きこもり的自己憐憫妄想が結実した「社会の欠落した物語」なのではなく、その意味では「世界と社会の不条理に翻弄される、若い恋人たちの悲劇の物語」として「普通の青春小説」だと評価できるのでございますね。

そんなわけで、「セカイ系とは何か?」ということ語りたいがために、『イリヤの空 UFOの夏』を「典型的なセカイ系作品」としてのみ語る評論家の姿勢には、私は作品に対する不実を感じずにはいられません。なぜなら、彼らのそのような態度には「時代の感性を理解することは重要なことであり、そのためにはセカイ系といわれる作品の分析批評は急務である(だかその場合、素材として扱う個々の作品の評価が、形式的でとおりいっぺんなものになったとしても、それは仕方のないことだ)」というような権威主義的事大主義を感じるからでございます。――私に言わせれば、「セカイ系」の問題がそれほど大切なものなのか、ということでございます。
たしかに、それも大切なことではございましょうが、世の中には大切なことがたくさんあって、多くの人は、自分の関わっている問題が「いちばん重要な問題」だと考えがちでございますが、客観的にいえば、それは一種の「ひきこもり的自己肯定」に過ぎません。「セカイ系を論ぜずして、現代日本は語れず」というような調子でご高説を垂れている評論家を見ると、私は彼らの自身の方が、よほど「セカイ系」のように思えてならないのでございます。



さて、がらりと変わって次にご紹介するのは、蓮池透と太田昌国の長編対談『拉致対論』(太田出版)でございます。
太田昌国は、民族問題や南北問題にくわしく『「拉致」異論』という著書もある(大雑把にいえば、左翼に分類される)評論家であり、蓮池透は「北朝鮮による拉致被害者家族会」の元事務局長でございます。

「北朝鮮による拉致被害者家族会」と言えば、安倍晋三や中川昭一などの右翼政治家と結びついて、拉致被害者の奪還運動と北朝鮮攻撃を同一視した、右翼的政治圧力団体というイメージがございまして、そこで当初事務局長をつとめ、マスメディアに登場することも多かった蓮池にも、同様のイメージを持たれた方は多かろうかと存じます。その蓮池がどうして、対極的な立場にあると見える太田のような評論家と対談をしたのでございましょうか? この対談は「拉致問題」をめぐって、左右が罵りあうような内容のものなのか?
 ――そんなことはございません。じつは、現在の蓮池は、北朝鮮攻撃を要求する政治圧力団体と化した「拉致被害者家族会」の政治的なあり方に疑問を感じ、当初の目的であった「拉致被害者の奪還」を実現するには「制裁」を振りかざして居丈高に北朝鮮を脅迫するばかりではなく、まずは話し合いの(政治的交渉の)場を作るよう努力すべきなのではないかと考えるようになった結果、「拉致被害者家族会」の事務局長の座を逐われた人なのでございますね。つまり、「家族会」の現在の(政治的)立場から言えば「蓮池は変節した(左翼化した)」ということになる一方、蓮池からすれば「家族会は初心を忘れて、傲慢な政治圧力団体になってしまった」ということになるのでございます。


本書のなかで蓮池は、家族会事務局長としてマスメディア上に突出していた当時の自分を、次のように振り返ります。


『 拉致問題について太田さんのような方と対話するのは初めての経験なので、今日は緊張しています。これまでは家族会や救う会(※  家族会を支援する外部団体であったが、現在は実質的に一体化しており、家族会を政治的に導いたのも、この「救う会」であった)の関係者といった、いわゆる「同じ陣営」の人たちばかりだったので、私には自由な対話というのはなかったのかもしれません。
 私は最近、変節者だとか、立場を変えたとか言われます。変わったということを大きくクローズアップされるのは私としては嬉しくありません。突然変化したというわけではなくて、徐々に、時間が経つにつれていろいろなことを深く考えながら現在にいたっており、結果として、周りから見ると変わっている。同じことを言っているのかもしれませんが、そういう風に捉えていただければと思います。(中略)
 二〇〇二年九月一七日に拉致が明らかになった(※ 日朝国交正常化のためのピョンヤン宣言において、金正日が日本人拉致の事実を公式に認めた)時には、私はものすごいパニック状態の中にいて、時間の経過がものすごく速く感じられたんです。これから何をしようとか何を言おうとかいうことを、その場その場で瞬時に考えながらやっていくという状態がずっと続いていましたので、(※ 日本と朝鮮の歴史的な)過去のことを振り返ってそれを糧に今後につなげていくということができる状態ではありませんでした。悪く言えば、調子に乗っていました。それまで「拉致なんてでっち上げだ」とか「疑惑に過ぎない」と言われていたのが急に日の目を見て、誰も相手にしてくれなかったのが急に注目を集めるようになって、舞い上がったところもあったと思います。自分たちが社会の中心にいて、自分たちが言うことはすべて理があり、それをマスコミが取り上げてくれて、政府もその通りにやってくれるんだという、ある種の錯覚に陥っていました。
 私たちは、「自分は被害者だ」ということのみを前面に出して、胸を張っていたんです。今になって考えてみると、それは被害者とは言えない姿だったと思います。日本中にも世界中にも様々な被害者がいます。にもかかわらず、拉致被害者の家族というだけで、自分たちが一番の悲劇のヒーロー、ヒロインだという錯覚に陥っていたところがあると思います。時間的余裕がありませんでしたし、周りに煽られたということもありました。
 時間が経つに従って、そういう言動をとっていたら世間の信用や支援を受けられないのではないかということに気がついたんです。(以下略)』(P22~23、※は引用者)



このように「自身の過去」を冷静に反省することのできる蓮池透が語る、「無謬の被害者団体」と化した「北朝鮮による拉致被害者家族会」の変遷とは、いかなるものか?

本書には、その現実が、さもありなんという「あっけなさ」をもって証言され、現在の日本の政治と外交の薄っぺらさとともに、人の弱さというものをリアルに伝えて、たいへん興味深い対談となっております。
拉致被害者は無論のこと、その家族にも同情を感じながら、その一方で、事あるごとに「北朝鮮問題の専門家」のようなコメントを発している拉致被害者家族の姿に、ある種の違和感や不快感を感じたことのある人なら、本書はその違和感や不快感の真相を明かすものとして、必ずや興味深く読むことができるものと存じます。また、その意味で、本書は多くの人にとって読む価値のある本として、私はつよくお薦めしたいと存じます。


ところで、上に引用した蓮池透の言葉で、私が特に共感したのは『日本中にも世界中にも様々な被害者がいます。にもかかわらず、拉致被害者の家族というだけで、自分たちが一番の悲劇のヒーロー、ヒロインだという錯覚に陥っていたところがあると思います。』という部分でございます。
この言葉は、私が先の「セカイ系」関連評論について書いた『私に言わせれば、「セカイ系」の問題がそれほど大切なものなのか、ということでございます。/たしかに、それも大切なことではございましょうが、世の中には大切なことがたくさんあって、多くの人は、自分の関わっている問題が「いちばん重要な問題」だと考えがちでございますが、客観的にいえば、それは一種の「ひきこもり的自己肯定」に過ぎません。「セカイ系を論ぜずして、現代日本は語れず」というような調子でご高説を垂れている評論家を見ると、私は彼らの自身の方が、よほど「セカイ系」のように思えてならないのでございます。』という人間認識とぴったり重なるのでございますね。

つまり、『「セカイ系を論ぜずして、現代日本は語れず」というような調子でご高説を垂れている評論家』というのは「『拉致解決なくして国交正常化なし』(※ 近年の自民党政府の見解)などと国内(=身内)向けの強気の発言をくり返して、現実には拉致問題解決の回路(=現実との接点)をつぶすしか能のない右派ポピュリズム政治家」と大差のない、極めて視野が狭く独善的な「セカイ系・ひきこもり」だということなのでございます。



 Keenさま

Happy Birthday

> 竹本健治&中井英夫の生誕記念日(※ 9/17)でございます。


お書き込み、ありがとうございます。
今年も、Keenさまの書き込みを見て「ああ、そうだ! 今日だった(^-^;)」と、例年のパターンをくり返してしまいました。


> 園主さまのマックちゃんが調子いいらしいのに、こんな時しか出て来れなくてゴメンナサイ。


とんでもございません。私の方こそ、たまたまマックちゃんが調子の良いのをいいことに、パソコンの購入をサボっております。
ここ数年、パソコンの購入にかぎらず、しばしば口にするのは「面倒くさい」となっております。ちょっと「もったいない」に似た言葉でございますが、なかみはぜんぜん違いますね。(^-^;)





それでは、みなさま、本日はこのあたりで失礼いたします。


 初出:2009年9月20日
 改訂:2009年9月22日
   (誤記訂正:誤『イリヤの夏 UFOの空』→正『イリヤの空 UFOの夏』)

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm

 
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