人は何を目的にして生きるのか。人生の指針と呼ぶべき目的はどこを向いているのか。それは人それぞれ様々な考えがあることではありますが、今回は私の考えを一つの例として提示してみましょう。
満足を得るか、後悔を避けるか
人生の目的、その方角は大きく分類すると二つあると考えています。
一つは【満足すること】。すなわち、こうありたい、こうなりたい、何を得たい、そういった「願望を満たすこと」。
一つは【後悔しないこと】。すなわち、こうではありたくない、こうはなりたくない、何を失いたくない、そういった「損失を避けること」。
人生における何らかの狙いに対して、前者はその閾値を上に置き、後者はその閾値を下に置いているとも言えます。このラインよりも上に昇りたいか、このラインよりも下に転げ落ちたくないか。もしくは両者のバランスが保たれていて現状を維持したいか。
これらは正邪曲直で判断する類のものではありません。人生におけるリスクをどの程度取るかは単にその人の好みで決めれば良いものです。
また信念として方角を固定化する必要もありません。満足と後悔の向きを状況やライフステージに応じて変えることは何もおかしなことではないでしょう。若さの力で満足を求めて邁進するも良し、守るもののために後悔しない道を選ぶのも良しです。臨機応変、柔軟な適応をすることは何も悪いことではありません。
もちろん硬い信念に殉じるのも満足の道とすればそれもまた良しです。指針に沿った結果であればそれがどうであれ納得することが出来るでしょう。
重要なのは指針の向きを固定することではなく、指針に沿って前へ進んでいるという実態です。
変節と姿勢の違い
人は言説の一貫性を尊ぶ傾向を持っています。立場によって信念や主義主張を変えることを一貫性を損ねた変節と謗ることもあります。
しかし立場によって言説を変えることは変節ではなく、それはただの生存の術です。むしろ違う椅子に座っているのに以前と同じことを言うほうがおかしな話です。その立場に求められている言動というものは間違いなく存在するのですから、それを変節と批難すべきではありません。
例えば東京都政に関わる政治家が総理大臣になったとして、それでも東京の事だけを語っていてはそのほうが問題でしょう?
人が一貫すべきは言動ではなく姿勢です。立場によって求められる言動をしつつも、目指すべき指針に沿って進む姿勢を崩さないことこそが重要です。姿勢を変えることこそが批難に値する行いです。
再び政治家の例で言えば、立場によって変わる言動を批難するのではなく、世のため人のためと活動していた姿勢が、口では同じことを言っていてもそうでは無くなったとした場合、それこそが批難に値します。
もちろん世のため人のために働かない政治家は別の意味で批難に値しますけどね。
これは個人の人生においても同じです。言動を変えずまっすぐ同じ方向に進むことを良いこと、そして蛇行することを悪いことだと批難したり恥じるべきではありません。どのような足跡を描こうとも状況によって刻々と変わる指針に沿って、目的地に向かって歩き続ける姿勢こそを尊ぶべきです。
針はくるくる変化するほうが自然であり、だからこそどこを向いていたっていいのです、針の向きは状況やライフステージによって変わるのですから。
むしろ針を固定してしまうほうが危険です。それは確かにまっすぐ歩くことが出来るかもしれませんし、その足跡はまっすぐで一貫性を持っているように見えるかもしれませんが、方位磁石の針を固定するのと同様にそれでは目的地へ辿り着くことができません。
大切なのはまっすぐした足跡を残すことではなく、蛇行してでも歩き続けて目的地へと辿り着く姿勢だと思っています。残してきた足跡も大切かもしれませんが、歩いているという状態こそを私は尊びたいのです。
余談
少し話がごちゃごちゃして分かりにくくなってしまったため、分かりやすい事例として個人的な経験談を書きます。
ある工場長が物凄く品質に厳しく、製品設計で大変な苦労をした経験があります。しかしその人が異動で営業部署の事業部長に異動したところ、言っていることがコロッと変わって品質よりもコストと納期をなんとかしろと言い出したのです。
当時は「なんだこのおっさん、品質重視はどこいったんだ」と苛立ったのですが、少し考えると営業屋の言い分としては尤もであり、売上の数字を出さなければいけない部署の責任者として安くて早い売りやすい製品を求めるのは当然のことです。
座っている椅子、立場に合わせて言動が変わっただけであり、求められている仕事に専心し会社の利益を最大化するため真剣に働くという彼の姿勢は変わっていません。それは尊敬に値するものです。
もちろん設計部署として品質に妥協する気は無いと突っ返しましたが。こちらの椅子からすればそれは必要な言説ですので。