7.豊臣秀吉の出兵

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不気味なジンクス
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7.豊臣秀吉の出兵
8.西郷隆盛の出兵計画

 豊臣秀吉は安土桃山時代の武将・権力者である(「花見味」「芸人味」参照)

 天正十八年(1590)、秀吉は小田原(おだわら。神奈川県小田原市)攻めを行い、最後まで抵抗していた関東の北条(ほうじょう)氏を屈服させて天下統一を成し遂げた。
「天下統一、おめでとうございます」
 お祝いに来る諸大名に、秀吉が言った。
「天下統一? 日本本土だけを天下だと誰が決めた。朝鮮・天竺
(インド)南蛮、全世界を征服して初めて、天下統一と呼ぶのじゃ」

 秀吉は、天正十五年(1587)の九州平定後から、対馬の島主・宗義調(そうよししげ)・義智(よしとも)兄弟や、和泉の豪商のボンボン・小西行長を通じて朝鮮に服属を命じ、攻めを先導するよう強要していたが、朝鮮は断固拒否、交渉は決裂した。

文禄の役日本軍陣容
隊 名 武 将 兵 力
一番隊
(18700人)
宗義智 5000人
小西行長 7000人
松浦鎮信 3000人
有馬晴信 2000人
大村喜前 1000人
五島純玄 700人
二番隊
(22800人)
加藤清正 10000人
鍋島直茂 12000人
相良頼房 800人
三番隊
(11000人)
黒田長政 5000人
大友吉統 6000人
四番隊
(14000人)
毛利吉成 2000人
島津義弘 10000人
高橋元種ら 2000人
五番隊
(25100人)
福島正則 4800人
戸田勝隆 3900人
長宗我部元親 3000人
蜂須賀家政 7200人
生駒親正 5500人
来島通之 700人
六番隊
(15700人)
小早川隆景 10000人
小早川秀包 1500人
立花宗茂 2500人
高橋統増 800人
筑紫広門 900人
七番隊 毛利輝元 30000人
八番隊 宇喜多秀家 10000人
九番隊
(11500人)
羽柴秀勝 8000人
細川忠興 3500人
  合計 158800人

 天正十九年(1591)、秀吉は来年三月に朝鮮に出兵する旨を諸大名に表明、加藤清正らに本営・肥前名護屋城(なごやじょう。佐賀県唐津市)の造営を命じ、関白を甥の豊臣秀次(ひでつぐ)に譲って身軽になった。

 文禄元年(1592)三月、秀吉は十六万の大軍を九軍に編制、順次朝鮮へ渡海させ、自身も肥前名護屋に赴いた。
 いわゆる文禄の役である。

 四月、宗義智・小西行長ら率いる一番隊は釜山城(プサンソン。韓国慶尚南道釜山市)・東莱城(トンネソン。釜山市)城などを攻略、加藤清正率いる二番隊、黒田長政(くろだながまさ)ら率いる三番隊も上陸北上、以降の隊もこれに続き、五月には朝鮮の首都・漢城府(かんじょうふ。ソウル)を占領し、朝鮮国王・宣祖(せんそ)は逃亡した。
 その後も行長が平壌城
(ピョンヤンソン。北朝鮮平壌市)を落とし、清正がオランカイ(中国東北地方間島)まで侵入するなど、朝鮮全土を蹂躙(じゅうりん)したが、各地で義兵が決起、水軍の武将・李舜臣の奮戦や、軍の来援を得てよみがえった朝鮮軍が反撃を開始、日本軍は平壌を追われ、漢城府に撤退した。

「こいつはやばいぞ。の大軍がやって来る前に和平をしたほうがいい」
「何を弱腰な」
 行長は、反対する清正の意見を退け、の外交家・沈惟敬
(しんいけい・ちんいけい)と和平を画策、戦いを止めて兵の大半を引き上げさせ、日、互いの都合のいいように和平文書を偽造したが、使来日の際にウソはばれ、秀吉は激怒した。
「何が『なんじを日本国王となす』じゃ! わしはに服従したわけではない! わしが提示した和平条件も完全に無視しているではないか!」
 無視ではない。伝わっていなかったのである。
 秀吉が提示した和平条件とは、の皇帝の娘を天皇の后にする、日本に南朝鮮を割譲する、日明貿易を復活する、などであった。

慶長の役日本軍陣容
隊 名 武 将 兵 力
一番隊 加藤清正 10000人
二番隊 小西行長 14700人
三番隊 黒田長政 10000人
四番隊 鍋島直茂 12000人
五番隊 島津義弘 10000人
六番隊 加藤嘉明 13200人
七番隊 蜂須賀家政 11100人
八番隊 毛利秀元 30000人
宇喜多秀家 10000人
釜山浦城 小早川秀秋 10390人
安骨浦城 立花宗茂 5000人
加徳城 高橋直次 1000人
竹島城 小早川秀包 1000人
西生浦城 浅野幸長 3000人
  合計 141390人

 慶長二年(1597)二月、秀吉は再び十四万の大軍を朝鮮へ派兵した。
 いわゆる慶長の役である。

 日本軍は藤堂高虎(とうどうたかとら)らが巨済島(コゼド。慶尚南道巨済)の海戦で朝鮮水軍を破り、加藤清正が蔚山城(ウルサンソン。慶尚南道蔚山市)で奮戦するなどしたが、寒さや兵糧不足などで苦戦、翌年六月、秀吉の死によって、全軍撤退を余儀なくされた。
 こうして秀吉の出兵も失敗に終わったのである。

 それにしても、秀吉が出兵を開始した年から、彼の近親者はバタバタと死んでいる。
 開戦の年に豊臣秀長
(とよとみひでなが。羽柴秀長。弟)が死んでいるのに始まり、豊臣鶴松(つるまつ。長男)・天随院(てんずいいん。大政所。母)・豊臣秀勝(ひでかつ。羽柴秀勝。甥・養子)・豊臣秀保(ひでやす。羽柴秀保。甥・養子。「仙谷味」参照)・豊臣秀次が役中に没している。
 ただでさえ少ない豊臣家の人々なのに、このありさまはもうたたられているとしかいいようがない。

 役後も悲劇は続く。
 秀吉の元養子・宇喜多秀家は、関ヶ原の戦で西軍に属し、敗れて島流しにされた。
 同じく元養子・小早川秀秋
(こばやかわひであき)は、東軍に寝返ってその勝利に貢献したが、戦後わずか二年にして二十一歳で怪死している(「変節味」参照)

 そして、豊臣家を継いだ継嗣・秀頼にも破滅は訪れた。
 慶長二十年(1615)、大坂の役
(大坂冬の陣夏の陣)徳川家康に敗れた秀頼は、母・淀殿(よどどの。淀君)とともに炎上する大坂城にて自害して果てたのである(「籠城味」参照)
 こうして豊臣家もまた、二代のうちに滅んでしまったわけである。


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