忘れん坊の外部記憶域

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理性と感情は対立するのか~理性的と感情的の差異

 この駄ブログで時々テーマとしている理性と感情、対立的に取り上げることが多いのですが実際のところこれはどのような関連性を持つのでしょう?今回はその点について考察してみます。

 まずもって理性と感情を定義することは難しいのですが、何かを語るのであれば定義しなければ話が進みませんのでやってみましょう。

 理性と感情の差異が取り扱われるのは「なんらかの判断を下すとき」である場合が多いものです。その際に合理性を重視する判断を理性的心を重視する判断を感情的であるとします。

 

最終的な決定は理性でも感情でも無い

 さて、意思決定を行う場合の心理機構ですが、これはそもそも理性によっては行われません。どちらかというと感情、より厳密には無意識的に行われます。

 これは哲学者や生理学者によって語られている「自由意志なんて存在しない」という話を例にすると分かりやすいかもしれません。

「貴方の目の前にボールが置いてあります。貴方の自由意志で、好きな方の手で取ってください」

「じゃあ右手で取ろう」

「なぜ右手で取ったのですか?」

「いや、なんとなく・・・」

 なんとなくで選んだのでは自らの自由意志とは呼べません。その意志の理由が説明できないのですから。自由意志という以上、なぜ自分がその選択を選んだかは説明できなければいけません。

 しかし説明できた場合はどうなるでしょう?

「なぜ右手で取ったのですか?」

「僕は右利きで、右手で取る方が合理的だからさ、僕は合理性に従うことを良しとしているんだ」

「なぜ今回は合理的な選択を選んだのですか?非合理的な左手で取るという自由もあったのに」

「いや、なんとなく・・・」

 合理性や効率に従って行動するというのであればそれは機械的に決まるのであって自由意志では無いでしょう。さらにはなぜ合理性に従うかというところを突き詰めれば結局は理由の説明が付かなくなります。

 なんとなく分からない理由がある以上は自由意志ではなく、しかしそのなんとなくが無いほど説明が付いてしまえばそれは機械的選択となる。

 結論、何をどう選択しようが人に自由意志は無く、最終的には「なんとなく」という無意識的なものが支配している、というのが論理的な帰結となります。

 理性的と感情的は反対語として扱われてはいますが、実際の判断のベースにあるのは無意識的なものであり、実のところ理性と感情を対立として扱う必要は無いのかもしれません。人は理性や感情ではなくどこからか浮かんできたなんとなくそうしたいという意志によって判断を下します。

 

合理性の基準から感情を除外することは出来ない

 もう一つ、別の例を提示しましょう。

 ある事実が存在するとします。例えば、

事実:地球の資源は100年後に枯渇する

こんな事実があったとして、これをどう捉えるかは人それぞれです。

まだ100年あるからガンガン資源を消費してでも技術革新をして新しいエネルギー源を開発しよう」

もう100年しかないからなんとか節約する方法を模索しよう」

 どちらも合理的な判断と言えそうですが、事実から導き出される合理性というものは楽観や悲観といった様々な感情によって左右されます。理性的判断には必ず感情的判断が付属するということです。

 

 また何らかの判断をする場合、それが全体的な合理性であれ個人的な損得であれ当然何らかの利得計算が当事者には存在します。

 例えば「あいつがむかつく!ぶん殴ってやる!」という感情的判断があったとしても、その裏には”むかつくあいつを殴ることによって溜飲を下げる”という個人的な利得を求める合理性が働いているのですから、感情的判断の裏にも同様に理性的判断が隠れていると言えます。

 

選択肢の準備に対する姿勢の違い

 以上より、理性と感情は対立的かつ独立的ではなく相互に作用するものであり、また判断のベースにあるのは理性や感情ではなく無意識的なものだということになります。

 しかし理性的判断と感情的判断という違い自体は明白に存在しているでしょう。その差異は何かと言えば、実のところ判断そのものではなく判断の前段階にあります。

 事実や情報を突き合わせて効率的な複数の選択肢を模索しようとする、よく言えば冷静で慎重、悪く言えば臆病で受動的な姿勢が理性的と呼ばれます。

 対して思うままであることを重視し直感的な選択肢を取ろうとする、よく言えば能動的で活発、悪く言えば浅慮で向こう見ずな姿勢が感情的と呼ばれます。

 

 この差異は良し悪し・善悪・賛否で語るようなものではありません。入念な下準備と調査が必要な時もあればドラスティックな行動が必要な時もあります。どちらも状況によって功罪と適否があり、都度是々非々で取り扱うべきものです。

 また、理性的であればよい、感情的であるべきだ、というような対立構造として取り扱う一辺倒の決め付けはあまり意味がありません。理性と感情は相互に作用するものであり、切り離せるものではないのですから。

 

「これは理性的判断、それは感情的判断」と明確に区分することは難しいということです。人はなぜ合理に従うか、もしくはなぜ感情に従うかを説明する術を持っておらず、突き詰めてしまえばどれも無意識的な「なんとなく」の意志が働いているからです。理性と感情で分けるよりもまだ慎重か大胆かくらいで分けたほうが良いかもしれません。それもまた大雑把な分類ではありますが。

 

 

余談

 私自身は落ち着いて慎重に全体最適となるような理性的判断をしたいと常々思っていますが、ではなぜ理性的判断をしたいかと言えば皆が幸せになる方が好みだからという好き嫌いの感情が理由だと思っています。理性的判断をしたいという感情的判断をしているわけで、なんとも、区分するだけ無駄な気がしてきますよね。