西城秀樹はなぜ愛され続けるのか? 奥田民生が語る、同郷のスターがロックシーンに与えた多大な影響

奥田民生が語る“西城秀樹の魅力”

 西城秀樹デビュー50周年を記念した7枚組DVD BOX『THE 50 HIDEKI SAIJO song of memories』が3月25日にリリースされた。『ザ・ベストテン』『8時だョ!全員集合』『日本レコード大賞』などTBSの番組に出演した際の映像をコンパイルした本作は、西城秀樹の足跡を辿ることができる貴重な映像集となっている。

 1972年に『恋する季節』でデビューし、「激しい恋」「情熱の嵐」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」などのヒット曲を次々と世に放ちながら、一気にスターダムを駆け上がった西城秀樹。ワイルドな歌唱スタイルとアクション、ロックを取り入れた楽曲は、その後のアーティストにも多大な影響を与えている。リアルサウンドでは、西城秀樹と同じ広島県出身で、楽曲を提供したこともある奥田民生にインタビュー。“ヒデキ”の魅力について語ってもらった。(森朋之)

西城秀樹 / THE 50 HIDEKI SAIJO song of memories ダイジェスト Vol.1

「小学生の頃、校庭で遊んでいたら秀樹さんが現れた」

ーー西城秀樹さんが17歳でデビューしたのは1972年3月。民生さんが6歳のときですが、覚えていますか。

奥田民生(以下、奥田):デビューしたときから知っていましたね。すぐに「情熱の嵐」や「薔薇の鎖」がヒットしてスターになっていましたけど、広島の人だってことも知っていたし、うちのお袋も好きでしたから、勝手に親近感が沸いていたところはありました。実家も近所で、秀樹さんとは小学校・中学校が一緒なんですよ。同じ学区内の出身ですね。

ーー近所のお兄さんが全国区のスターになったと。

奥田:そうです。小学生のとき、秀樹さんが雑誌の取材で学校に来たことがあるんですよ。放課後、校庭で遊んでいたら秀樹さんが現れて、校門の前で生徒たちと写真を撮って、一緒に写ったんですけど、それが雑誌に載ったという(笑)。

ーー通っていた中学校では『ザ・ベストテン』の中継もあったそうですね。

奥田:それも見ましたよ。自分が通っている中学校の校庭で秀樹さんが「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を歌うんだから、当然、見に行きますよね(笑)。次の日、学校に行ったら廊下にチョークで秀樹さんのサインが書いてありました。

ーー今回リリースされるDVD BOX『THE 50 HIDEKI SAIJO song of memories』は、『ザ・ベストテン』や『8時だョ!全員集合』の映像をまとめたものなんですけどーー。

奥田:凄まじいものが出ますよね。ほとんど観たことあるんじゃないかな。

ーーやっぱり、70〜80年代に西城さんがテレビの歌番組に数多く出演していたことは印象的でしたか?

奥田:そもそも『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)といった歌番組は必ず観ていましたからね。でないと、次の日の学校の話題についていけないので(笑)。あと、秀樹さんは『8時だョ!全員集合』や『カックラキン大放送!!』(日本テレビ系)にもよく出てましたよね。『カックラキン』なんて、秀樹さん、郷ひろみさん、野口五郎さんが順繰りにレギュラーみたいに出ていて、すごく面白くて。役者として秀樹さんが出ていたドラマ『寺内貫太郎一家』(TBS系)も観ていたし、やっぱりお茶の間の大スターでしたよ。こっちが観ようとしなくてもテレビに現れるほど(笑)。しかも歌うとめちゃくちゃカッコいいという。そういう男性シンガー、今はいないですよね。

ーー小さい頃、西城さんの真似とかしていましたか?

奥田:してましたよ。外では恥ずかしくてやらなかったけど、テレビにラジカセを置いて録音しながら、家では真似していましたね(笑)。学校でも男子はみんなやってましたから。ただ、秀樹さんの動きは真似できても、歌い方までは真似できなかったです。やろうと思ったけど、全然似せられなかった(笑)。「ロックっぽいな」とまでは当時思っていなかったかもしれないけど、歌い方がワイルドだし、いわゆるアイドルっぽい感じとは違っていたんですよね。今になって思うと、ロッド・スチュワートのようなスタイルの音楽に近かったんだと思いますけど。

独特の歪んだ声で歌う、西城秀樹のボーカルの魅力

ーー西城さんは実際にロッド・スチュワート&フェイセズの来日公演を観に行ったみたいですからね。

奥田:そうなんですね。僕は中学生の頃からバンドやロックに興味を持ち始めたんですけど、「秀樹さんがコンサートでドラムを叩いている」という話を聞いて、「楽器やるんだ。カッコいいな」と思っていました。Rainbowの曲を演奏したっていう記事を読んだことがあるんだけど、「俺と趣味が似てるな」とか思ったり(笑)。球場(大阪球場や後楽園球場など)でコンサートをやったのも、確かソロでは秀樹さんが最初でしたよね。それもたぶん、海外のミュージシャンの影響を受けて「日本でもやれないだろうか」と考えたんじゃないかなと。それから日本でもスタジアムライブが当たり前になっていって、僕らの世代もやらせてもらえるわけで。ありがたいですよね。

ーーしかも1978年に行われた西城さんの球場コンサート(『BIG GAME’78 HIDEKI』)は、洋楽ロックのカバーがメインだったんですよね。「Don’t Let Me Down」(The Beatles)とか「The House of the Rising Sun(朝日のあたる家)」とか、「Love Me Tender」(エルヴィス・プレスリー)とか。

奥田:なるほどね。結局、秀樹さんのコンサートを生で観る機会はなかったんですけど、当時の雑誌を読んでいても完全にロックスターでしたから。

ーー民生さんが当時好きだった曲は?

奥田:「情熱の嵐」は今でも好きですね。あと「薔薇の鎖」かな。

ーー先ほど「歌い方がワイルド」という話も出ましたが、西城さんのボーカルについて、民生さんはどう感じていましたか?

奥田:まず印象的だったのはシャウトでしょうね。綺麗に歌うんじゃなくて、あえて歪んだ声を出しているというか。あれはやっぱり、ロッド・スチュワートとか、海外のロックシンガーの影響じゃないかな。独特な声の裏返り方に関しては、どこから来たのかわからないけど、声自体はロッドに似ている気もしますからね。僕は沢田研二さんも大好きですけど、やっぱり秀樹さんのワイルドな歌い方はすごいですよね。

ーー西城さんはインタビューでも「僕はウッドストック世代」(※1)とコメントしていて。西城さんは1955年生まれなので、10代の多感な時期に海外のロックの洗礼を受けたのかもしれないですね。

奥田:そうでしょうね。海外からロックが伝わってきて、その影響を直に受けて自分なりに表現して、テレビなどを通してたくさんの人に伝えていった。秀樹さんの頃ってちょうど時代が変わり始めて、日本にもロックバンドが増えてきた時期だったんですよ。僕らはその影響を受けた世代で、それが(80年代の)バンドブームみたいなものに繋がって、それを見ていた人たちがまたバンドをやって……という感じで繰り返しているんでしょうね。秀樹さんの前って、日本にロック音楽はほとんどなかったじゃないですか。日本のロックの始まりの世代だから、いろいろ研究もしただろうし、新しいことをやろうという気概もあったと思うし、それはすごいことだなと思います。僕らがロックをやりたいと思ったときは、すでに上の世代が作ってくれたレールがあったので、そこは秀樹さんの時代とは全然違いますよね。

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