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この作品「形骸の王国で」は「小説」のタグがつけられた作品です。
形骸の王国で/よふかの小説

形骸の王国で

3,758文字8分
2021年12月5日 11:34
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螺旋階段の真ん中を通ってアンデルセンが落ちて来た。
 正真正銘教科書で見た著名な童話作家だ。ひどくながいラブレターで知られる孤独な男の死に顔は驚くくらい安らかで、ぼくには少なくとも、この男の最後の目覚めが地中の棺であった様には思えない。
 ベロニカの擦れ切った叫びを聞いたフロムもぼくと同じ悲しい思いに駆られた事だろう。ぼくら三人が今よりずっと仲の良かった頃、愛娘の悲鳴を聞くやアパートの何処へでもすっ飛んできていたベロニカの親父さんは、ここアメリカでいうおなじみのマスターキーに頭をかち割られて自室の廊下に転がっていた。
 お袋さんらしき人も死んでいる。らしき、というのは、ベッドの上で事切れていたその女は、死者に変わった親父さんが顔を食い荒らしてしまった事もあって、はっきりした身元の確認がまだ済んでないからだ。
 お父さんが連込んだ愛人に決まってるさ、と誰に言うでも無く呟いたフロムは、この状況にこの作家先生を寄越すなんてひどいジョークだよな、なんて顔でアンデルセンと一緒に落ちて来た鞄を手際良く漁る。それからベロニカに目配せして、「このロープを使えばどっかの窓から逃げられるぜ。今はこの作家さんのびびりに感謝だ」
「どうかな」とすぐにベロニカがレスポンスを寄越す。ぼくと違ってちゃんと高校に進んだ二人は、普段から人と話し慣れているせいか会話がとてもスムーズだ。「玄関が封鎖された時に見たでしょう、防護服の奴等どころか警察まで居た。ウィルスのことを知ってるのよ。簡単に逃がしては貰えないわ」
「此処にずっと居るよかましだろ、ええ」中学の辺りで不良とつるみ始めたフロムは十八になった今でもそういう言葉遣いが抜けない。「此処はまるで死者の国だ。うかうかしてたら俺等も仲間入りだぜ」
 死者の国、なんて言葉にびくりとしたぼくは、思わずイヤホンを耳に突っ込んで、聴き慣れたオーケストラの旋律に没頭しようとする。
 そこには母さんや父さんも居るのかな。ご機嫌に二人の貯金で買った新車を運転している最中、まるでスティーブン・キングの小説みたいに、杜撰に放置された工事現場の穴へと落ちてしまった両親は、死者の国でさえ日曜日になるたびミサに持っていくクッキーを焼いたりしているのかな。ひとり取り残された息子のことなんて考えもせずに。
 肩を叩かれ、その手の方を振り返る。背後に立っていたのは夢の国からやってきた両親ではない。馴染み深い紺色の制服を着込んだ男だ。
「なあ、こんな事信じられるか。静かなんだ、静かすぎる、無線機がぶっ壊れたみたいなんだ。まるでしけた湖……親父と一緒にボートで漕ぎ出して釣りしてたよ。家のすぐ傍にあったんだ。はは、懐かしい」と最初の通報に駆け付けた警官。「おれら多分、なにか有毒なガスを吸ったんだ。アパートのどこかからガスが漏れて、集団ヒステリーってやつだ」
 言われ、ぼくはみんながクール=エイドを飲む光景を想像しそうになる。ジム・ジョーンズに唆された人民寺院の信者のように、自ら死者の輪に混じっていくフロムやベロニカの姿。不活性の世界へのラインを踏み越えて、不変の存在へと変わる彼等の背中。
「昔遊んで怒られた下水道があったろ。あっこから逃げられないか」フロムはぼくを見て言う。「なあカフカ、もうずっとひきこもりのお前でも昔の事ぐらい覚えてるだろ」
 警官が叫んだ。「下水道だと。そんなもんあるなら、なんで今まで言わなかった」
 フロムはそれを無視して、「ベロニカの親父さんがキレて、えらいでかい南京錠ができたっけな……あれの鍵の場所、どうせ管理人室だぜ。まあ一人で行くのはごめんだが」
 唐突に見つめられて咄嗟に視線を外したとき、たまたま寄り掛かっていた階段の手摺にナイフかなにかで彫られた文字を見つけて、ぼくはなんだかおかしくなる。
 死人の友達
 不器用な字。彫ったのはフロム、たぶんぼくが夢の事について打ち明けた頃にちがいない。乱暴な斜線で文字を消そうとした痕跡を見るに、たぶん何日か経ってから後悔したんだ。
 心を満たす懐かしさの意味がようやく分かり始めて来た。五歳の時に引っ越してきてからずっと住んでるこのアパートに今更どうしてノスタルジックを感じるんだと一瞬感じたけれど、結局簡単なことだった。
 みんな仲の良かったむかしを思い出したんじゃない。
 ここは、毎晩ぼくの脳がぼくに見せる情景に余りにもよく似ていた。
「お前、まだあの夢を見るのか」
 階段を上る最中に耳元で囁かれる。フロムの低い声。
 死者たちが廃墟の街のそこら中でお気に入りのコント番組やら音楽やらについて語り合ったり、本人にも訳の分からない抽象的な事を呟いたり、下品な事を喚き散らしては誰にも気にも留められずに放っておかれている夢。
 それは決してキリストの説いた復活なんかでは無い、ただぼくたちが勝手にゼロだと思っていた死という概念が、どこまでも抽象的な見た目の実数として動く非現実の王国。
 コメディみたいな、シリアスも生産性もまるで無くて、つまり何処までも厭世的で退廃的なその夢は、この変化と進歩の催促を喧しく喚き立てる世界と対比してみると、あまりに異質じみた形骸化された者達の国。
 ぼくはもう何年も、起きている間ですらその夢の事が頭から離れない。
「もしかすると、これもお前の夢かもな……ははは、そうなると生者の俺達こそ異物だな。お前の作った死者の世界に入り込んじまったんだ。こっちにゃ友達が少なくて辛くなるよ」フロムはぼくの背中に呟き続ける。「ははあ、それでお前さん、夜な夜な死人に混じってる訳か。学校をやめちまって生者と喋くるのが難しくなったってんで、死人の愉悦にうっとりしたくて夢の世界って訳だ。さすがそこらのぼんくらとはちょっと違うな」
 居心地が悪くなって口を噤むしかなかった。背後でフロムが得意げな顔をしている気がして、昔みたいに父さんや母さんの居る部屋に逃げ込みたくなる。
 フロムの言う通りだ。ぼくはこのうるさい世界にひどい疎外感を感じている。
 その理由は簡単だ。単純に、明確に、ぼくはみんなに着いて行くことが出来なかったんだ。優しいフロムや純粋なベロニカが思春期を迎えて、だんだん知らない人間に変わっていくのを見るのがこわかったんだ。父さんや母さんがぼくを置いて墓の下に埋まったのもいやだったし、世界がいまだぼくに変化を促し続ける現実にもうんざりしていた。
 みんながずっと何処にも行かなければ良いのに。そんな世界を作る事が出来るならぼくは何処までやれるんだろう。
 管理人室の鍵は開いていた。フロムがぼくを追い越してずかずか廊下の先へと消えていく。
 泣きそうな気持ちを楽にさせようと見下ろしたホールには、死者の国が広がっていた。起き上がったアンデルセンがベロニカの手首にむしゃぶり付いていて、ベロニカは顔しか知らないお爺さんの腰に噛み付いていて、知らないお爺さんはその嫁さんらしき知らないお婆さんの太腿にかぶりついている。コメディコントみたいな、ホラー映画のムカデ人間みたいな光景が回り回って、最後には四歳くらいの男の子が器用に自分の母親の女性器の辺りに乳歯を突き立てていた。
 みんな死のうとしている。みんなが死のうとしていた。ぼくはひょっとして、死者は自分達の国の良さを知ってもらおうとして襲ってるんじゃあないかとさえ思った。そんな思考に至ったのは、他でもないぼくが昔同じ事をベロニカやフロムに対してやっていたからだ。
 認めよう。認めなくちゃあならない。この地獄を生み出したのはぼくなんだ。生者の行進に置き去りにされない世界を願う、ぼくの精神が世界を狂わせた。
 背中の後ろで悲鳴が聞こえる。振り返るとフロムが管理人室に逃げ込んだ挙句に死者に変わったらしいお隣のコールフィールド夫妻に組み伏せられていた。
 もうじきみんな死者になる。騒がしく、常に互いに変化を促し、情緒に突き動かされ傷付け傷付き合う生者の立場を捨てる事になる。もう誰も誰かを置き去りになんてしなくなる。
 ぼくは自分の部屋に忍び込み、いつもみたいに毛布をかぶる。中学校の頃の教科書が足元の床で埃を被っているのが目に入った。十二歳の頃の置き去りにされたばかりのぼくがまだずっとこの部屋に居る事に、ぼくはまだまともに向き合う事すら出来ていない。
 今頃外じゃ、生者の馬鹿笑いが死者の卑屈でおどけた笑いに変わっているだろう。子供なんて作れないんだから、もう誰もセックスしたくてかっこつけたりなんかしない。これからは無為で徒労な自己完結型の恋煩いの時代がやってくるってんで、みんな月光に照らされた真っ白な花畑で自己陶酔に笑ってる。
 相変わらずパトカーのサイレンが鳴り響いていた。ぼくはおかしな寂しさを感じながらソファに躰を沈ませる。
 こんな世界を現実にする為に、はたしてぼくはどこまでやれるんだろう。
 両目を捧げることも、アメリカを丸ごと地獄に叩き落す事もぼくにはできない。
 だからぼくは願う。だれもぼくを置いて行かないで下さいと願い呟く。
 世界がぼくを置いて、知らないどこかへ去っていくのを感じながら。

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