スーパーカブ、頭文字D、ゆるキャン△、それぞれが描いた景色

 
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先日、アニメ『スーパーカブ』を見始めて、描かれている景色にガツンとやられた。物語が進展していくうちに少し和らいだと思いかけたけれども、修学旅行編を見るにつけても、いやいや、やっぱり『スーパーカブ』は2021年のある側面を上手にデフォルメした作品だと思い直した。
 
 

滋味深い作品が描く、富が失われたロードサイドの今

 
アニメ『スーパーカブ』の美質・美点はたくさんあって、たとえばバイクの駆動音、好ましい脇役たち、滲んだようでクッキリとした描画などは、視聴すればするほど好きになっていった。この作品の風景の切り取り方が、今は楽しみでしようがない。
 
もとより主人公の小熊が女子高校生だったり、ご都合主義的なデフォルメがついてまわる作品ではある。でも、それで否定しまったらあの作品もこの作品も否定しなければならないわけで、そこで減点するのはナシだろう。
 
『スーパーカブ』の主な舞台は、2010年代後半とおぼしき山梨県北杜市の国道20号線沿いの地域だ。ひとことで地方と言っても色々あるが、ここで描かれているロードサイドは大規模ショッピングモールの賑わいとは無縁の過疎ったロードサイドだ。よくある地方の田舎、と言って差し支えないだろう。
 
主人公・小熊は、集合住宅で独り暮らしをしている。必要最低限のものだけを取りそろえた殺風景な部屋には、メディアと呼べるものがラジオしかない。携帯電話はいちおう持っているがガラケーで、いわゆるスマホ的な使い方をしているそぶりもない。白米に温めないレトルトをかけて昼食としている点、スーパーカブ乗りである点、さまざまな生活用品をホームセンターで間に合わせている点なども含めて、まるで地方の田舎の独居老人のような暮らしぶりだ。
 
その、地方の田舎の独居老人のような暮らしぶりが、好ましい雰囲気の女子高生アニメとして描かれ、アニメ愛好家から好評を得ているのが2021年であるなぁ……と思わずにいられない。地方の田舎の独居老人のような生活をしていた女子高生が、スーパーカブをとおして世界を広げていくのである。
 
こんなロードサイドの暮らしが、こんな風にデフォルメされて描かれることが、たとえば1990年代にあり得ただろうか? いや、あり得なかったに違いない。たとえばロードサイドの暮らしがデフォルメされた作品として『頭文字D』と『スーパーカブ』を比較すると、時代の違いに気が遠くなりそうになる。
 

 
『頭文字D』は大きくジャンルが異なる作品だけれども、(多分に美化された)マシンをとおして主人公の世界が広がっていく点、それに伴ってロードサイドの暮らしぶりが描かれている点は共通している。でも、『頭文字D』で主人公たちが乗るのはスーパーカブのような生活臭を伴ったマシンではなく、男子のロマンを乗せて疾走する国産車だった。実際、『頭文字D』がヒットした90年代後半は生活臭の乏しい国産車が憧れの対象になっていた時代で、ローンを組んで購入している男子も珍しくなかった。
 
『スーパーカブ』で耳にするエンジン音を聞いていると、私は地方のロードサイドで鳴り響いていた、もっとカネのかかったエンジンの音を思い出さずにいられない。地方のロードサイドでスポーティーな国産車のエンジン音を聞かなくなったのはいつ頃からだっただろう? 地方のロードサイドを潤していたあの富は、どこへ行ってしまったのだろうか。
 
それと、『頭文字D』の主人公・拓海には地元の人間関係があった。拓海の父親にしてもそうだ。『頭文字D』にも90年代ならではの疎外は(デフォルメされていたとはいえ)描かれていたが、マシンをとおして世界が広がっていく以前から拓海には地元の人間関係があり、地元の世界があった。それと比べると、礼子に出会う前の小熊にはそういった地元の人間関係に相当するものがない。小熊は、ぽつねんと、あたかも社会制度やレトルト食品によって生き・生かされていたかのようにみえる。
 
地方のロードサイドの、あまり豊かではない圏域を舞台としたコンテンツとして、もう、『頭文字D』のような作品はなかなか成立しないようにみえる。高価なマシンをローンを組んで買うのが無理になったのもあるし、豊かではないさまの内実が変わったのもある。2020年代の地方のロードサイドで豊かではない圏域といえば、地元の人間関係に相当するものが欠如し、なおかつ生活に直結したマシンしか買えない・乗れないような圏域だろう。
 
原作者やアニメ版制作陣がどこまで意図しているのかわからないけれども、『スーパーカブ』には、この「2020年代の地方のロードサイドで本当に豊かではない圏域」らしさが漂っているように思う。いかにも過疎った風景だけでなく、その過疎ったロードサイドに暮らす小熊が地元の人間関係から隔絶され、社会制度やレトルト食品によって生き・生かされているさまが描かれているのが、とても印象的だった。
  
でもって、そんな小熊がマシンとの出会いをとおして世界を広げていくというファンタジーを大勢の視聴者が楽しみ、訴求力あるコンテンツとして成立していること自体も、どこか生々しい。『頭文字D』がコンテンツとして成立していた頃だったら、『スーパーカブ』のような作品がつくられることも、訴求力を持つことも難しかったのではないだろうか。
 
 

『ゆるキャン△』と好対照をなしている

 
ところで、地方のロードサイドがおしなべて豊かさを失った……なんてことはない。地方のロードサイドにも相応の豊かさが残っていて、それもそれでデフォルメされた作品が人気を博している。
 
同じ山梨県を舞台にした『ゆるキャン△』は、地方のロードサイドの豊かな圏域をうまくデフォルメ・コンテンツ化していると私は思う。
 

 
『ゆるキャン△』は、その名のとおりキャンプが主題の作品だが、キャンプを楽める程度には登場人物たちにはゆとりがある。登場人物たちは女子高生だから、もちろんキャンプ費用には四苦八苦している。けれども生活臭のある四苦八苦ではなく、志摩家や各務原家の描写からは、精神的にも文化的にも豊かな暮らしぶりがみてとれる。親族や友人との繋がりという点でも、デジタルディバイドという点でも、『ゆるキャン△』の登場人物は恵まれている。そうした地方の豊かさを土台として彼女たちの楽しいキャンプ生活が描かれている。
 
『スーパーカブ』と同じく、『ゆるキャン△』もさんざんデフォルメされたコンテンツ──主要メンバーが全員女子高生であることも含めて──に違いない。だとしても、『ゆるキャン△』で描かれている景色は『スーパーカブ』で描かれている景色とはだいぶ違う。どちらも山梨県の過疎ったロードサイドを舞台にした作品であり、旅が描かれる作品でもあるので、両者は見比べ甲斐がある。どちらが良いとか悪いとか、どちらが本物でどちらが嘘といった比較はナンセンスだ。両作品が描いている景色がそもそも違っていて、それぞれに見応えがあるのだから。
 
2021年5月現在、アマゾンプライムでは『スーパーカブ』と『ゆるキャン△』の両方が視聴できるので、興味をおぼえた人は両作品を見比べてみたら楽しいと思う。そして描かれている景色を心に刻み付けよう。『頭文字D』の景色が過去のものになっていったのと同じように、四半世紀もすれば、両作品が描いていた景色もまた、過去のものになっていくに違いないからだ。
  

スーパーカブ、頭文字D、ゆるキャン△、それぞれが描いた景色

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