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ギムレットの心臓は汚れない
会わないように避けていた、といえばそれが正解なのだろう。
社長が出席していそうな集まりには顔を出さずに、用事があると断り続けた。事務所でもできるだけすれ違うように外回りのスケジュールを入れた。かといって気にならなかったといえばまたそれは別の話。時折思い出したように探りを入れてしまうのは、あの日に置き忘れた言葉が引っかかっていたせいかもしれない。
社長から連絡があれば逆らえなかっただろう。けれど、俺のプライベート用のスマホが着信を鳴らすことは一度もなかった。それもまた正解なのだ。どこかで区切りをつけたかったのかもしれない。いつまでも女々しく心の端っこで息をしているのならば、いっそのこと捨てられていれば良かった。無責任にも、身勝手に。
だから今日、2年ぶりに社長が海外から帰ってくるのだとしても。俺には笑っておかえりなさいと言う資格もないのだ。
だって俺は、もう社長と別れているんだから。
◇
長かった冬も終わり、春の足音が聞こえようかという時期のこと。283プロダクションにパーティーの招待状が届いた。どうやら広告業界大手の会社が主催するパーティーのようで、はづきさんから聞いた限りでは社長も帰国してすぐ出席するらしい。
とはいえ、会場に一緒に行くわけでもないし。と自分を安心させようとしていたのだが、どうやらそうもいかないらしい。
きらびやかなその催しが始まって1時間、息抜きにとテラスに出たところで――その人はいた。
「……社長」
吸っていた煙草のフィルターを、無意識のうちにきつくつまんだ。ぐしゃり。
「久しぶりだな」
こうして呼ぶことさえ久しぶりで、心の真ん中が懐かしさに震えている。しんみりとする歳でもないのだから、とわずかに茶色く染まったフィルターを唇に添える。
すうっと煙を吸い込んで、吐く。
「お久しぶりです。元気でしたか?」
「ああ。いろいろなところでお前の担当アイドルを見かけるせいか、懐かしいという気があまりしない」
「ははっ……嬉しいです、それは」
濃い色の液体が入ったグラスを持って、社長の横に詰める。苦々しい気分をごまかすための爽やかなカクテルだ。
パーティーに出席していた人も半分ほど帰宅の途についたようだが、それでもまだ会場は賑やかさを残している。
一通り挨拶も終えて、静かに呑みたかった俺は端っこへと移動した。その様子を見て追いかけてきてくれたのか、社長隣に続いたのだ。わいわいがやがやとうるさいのに、ここだけが隔離されたように音が消える。
俺と話がしたいと思ってきてくれたのだろうか。都合良く考えて、調子が狂った。
「煙草、吸うんだな」
「……仕事が忙しくて。ストレス解消みたいなもの、かもしれません」
「結構きついものを吸っているんだな」
「――ええ、まあ」
慣れ親しんだ苦味で肺を満たすと、溜まっていたいた澱を吐きだすよう煙に混ぜた。くたびれているのに魅力に溢れている微笑み、少しだけ色気を漂わせる声音。
楽しさばかりが主張してくるあの頃の面影が残っているようだったけれど、どこにも残っていなかった。数年で人は随分と変わるらしい。これならば世の中の女性が放っておくはずがない、とひとり納得をした。
思い出とともに舌に乗ろうとしてくる甘い言葉を誤魔化すよう、呑みかけの酒に手をつけた。
ギムレットなんて以前は飲まなかったけれど、これもまた社長がいない時間に俺が変わった証拠のひとつ。優柔不断で、甘え下手で、臆病だった俺はどこにもいなくなった、はずだ。
あの頃一生懸命天に向かって羽ばたいていた翼は、いつしかニコチンとタールで汚れてしまっている。
「……雰囲気、変わったな」
「2年ぶりだからかもしれません」
「まあ、仕事が変わればお前も変わるものだろうが」
吐いた煙が霧のように視界を包んで、社長の表情を曇らせた。
いっそこうやって、なにもかも見えなくなればいいのに――と俺が口から煙草を離した瞬間、俺の指からするりと煙草が抜き取られていく。
「彼女でもできたか」
いやらしいような、からかうような。そんな笑みを作って、それから俺の吸いかけのそれに口をつけた。お前には作れないだろう、といったニュアンスがどこかにあった。
たしかに、社長が知っている俺ならば作れなかっただろう。しかしもうその"プロデューサー"は、いまとなっては過去の遺物だ。彼が思い描いている純情な青年はどこにもいない。
「まあ、それなりに経験を積んだとは思います」
奪われた煙草を取り返し、それからぐいっと吸い込んだ。じりじり燃えて、灰が増えていく。味はしない。苦さも、重さも、いつの間にか感じなくなった。
「たくさんの人を抱きました」
社長の眉間の皺が、ぐっと濃くなる。お望み通り答えた。社長はといえば、聞きたかったはずなのに、聞くのをやめればよかったと後悔をしている。現実とは違った回答だったのだろう。そういう顔をしていた。
そうか、と興味がなくなってしまったような声を落とされた。聞いておいてと思うけれど、知りたかったのだろう。興味ゆえだ。俺だって気になったけれど、社長も聞くまでもなくいろいろな経験をしてきているだろう。
そう思うと自然と会話がなくなった。あたりは変わらずざわざわとしているのに、ここだけが静かだ。けれども不思議と気まずさはなかった。グラスに残ったカクテルを胃に流し込むと、アルコールで喉がじりじりと焼けて頬が熱くなる。
はあと吐いたため息は、温度がついていた。
社長が出席していそうな集まりには顔を出さずに、用事があると断り続けた。事務所でもできるだけすれ違うように外回りのスケジュールを入れた。かといって気にならなかったといえばまたそれは別の話。時折思い出したように探りを入れてしまうのは、あの日に置き忘れた言葉が引っかかっていたせいかもしれない。
社長から連絡があれば逆らえなかっただろう。けれど、俺のプライベート用のスマホが着信を鳴らすことは一度もなかった。それもまた正解なのだ。どこかで区切りをつけたかったのかもしれない。いつまでも女々しく心の端っこで息をしているのならば、いっそのこと捨てられていれば良かった。無責任にも、身勝手に。
だから今日、2年ぶりに社長が海外から帰ってくるのだとしても。俺には笑っておかえりなさいと言う資格もないのだ。
だって俺は、もう社長と別れているんだから。
◇
長かった冬も終わり、春の足音が聞こえようかという時期のこと。283プロダクションにパーティーの招待状が届いた。どうやら広告業界大手の会社が主催するパーティーのようで、はづきさんから聞いた限りでは社長も帰国してすぐ出席するらしい。
とはいえ、会場に一緒に行くわけでもないし。と自分を安心させようとしていたのだが、どうやらそうもいかないらしい。
きらびやかなその催しが始まって1時間、息抜きにとテラスに出たところで――その人はいた。
「……社長」
吸っていた煙草のフィルターを、無意識のうちにきつくつまんだ。ぐしゃり。
「久しぶりだな」
こうして呼ぶことさえ久しぶりで、心の真ん中が懐かしさに震えている。しんみりとする歳でもないのだから、とわずかに茶色く染まったフィルターを唇に添える。
すうっと煙を吸い込んで、吐く。
「お久しぶりです。元気でしたか?」
「ああ。いろいろなところでお前の担当アイドルを見かけるせいか、懐かしいという気があまりしない」
「ははっ……嬉しいです、それは」
濃い色の液体が入ったグラスを持って、社長の横に詰める。苦々しい気分をごまかすための爽やかなカクテルだ。
パーティーに出席していた人も半分ほど帰宅の途についたようだが、それでもまだ会場は賑やかさを残している。
一通り挨拶も終えて、静かに呑みたかった俺は端っこへと移動した。その様子を見て追いかけてきてくれたのか、社長隣に続いたのだ。わいわいがやがやとうるさいのに、ここだけが隔離されたように音が消える。
俺と話がしたいと思ってきてくれたのだろうか。都合良く考えて、調子が狂った。
「煙草、吸うんだな」
「……仕事が忙しくて。ストレス解消みたいなもの、かもしれません」
「結構きついものを吸っているんだな」
「――ええ、まあ」
慣れ親しんだ苦味で肺を満たすと、溜まっていたいた澱を吐きだすよう煙に混ぜた。くたびれているのに魅力に溢れている微笑み、少しだけ色気を漂わせる声音。
楽しさばかりが主張してくるあの頃の面影が残っているようだったけれど、どこにも残っていなかった。数年で人は随分と変わるらしい。これならば世の中の女性が放っておくはずがない、とひとり納得をした。
思い出とともに舌に乗ろうとしてくる甘い言葉を誤魔化すよう、呑みかけの酒に手をつけた。
ギムレットなんて以前は飲まなかったけれど、これもまた社長がいない時間に俺が変わった証拠のひとつ。優柔不断で、甘え下手で、臆病だった俺はどこにもいなくなった、はずだ。
あの頃一生懸命天に向かって羽ばたいていた翼は、いつしかニコチンとタールで汚れてしまっている。
「……雰囲気、変わったな」
「2年ぶりだからかもしれません」
「まあ、仕事が変わればお前も変わるものだろうが」
吐いた煙が霧のように視界を包んで、社長の表情を曇らせた。
いっそこうやって、なにもかも見えなくなればいいのに――と俺が口から煙草を離した瞬間、俺の指からするりと煙草が抜き取られていく。
「彼女でもできたか」
いやらしいような、からかうような。そんな笑みを作って、それから俺の吸いかけのそれに口をつけた。お前には作れないだろう、といったニュアンスがどこかにあった。
たしかに、社長が知っている俺ならば作れなかっただろう。しかしもうその"プロデューサー"は、いまとなっては過去の遺物だ。彼が思い描いている純情な青年はどこにもいない。
「まあ、それなりに経験を積んだとは思います」
奪われた煙草を取り返し、それからぐいっと吸い込んだ。じりじり燃えて、灰が増えていく。味はしない。苦さも、重さも、いつの間にか感じなくなった。
「たくさんの人を抱きました」
社長の眉間の皺が、ぐっと濃くなる。お望み通り答えた。社長はといえば、聞きたかったはずなのに、聞くのをやめればよかったと後悔をしている。現実とは違った回答だったのだろう。そういう顔をしていた。
そうか、と興味がなくなってしまったような声を落とされた。聞いておいてと思うけれど、知りたかったのだろう。興味ゆえだ。俺だって気になったけれど、社長も聞くまでもなくいろいろな経験をしてきているだろう。
そう思うと自然と会話がなくなった。あたりは変わらずざわざわとしているのに、ここだけが静かだ。けれども不思議と気まずさはなかった。グラスに残ったカクテルを胃に流し込むと、アルコールで喉がじりじりと焼けて頬が熱くなる。
はあと吐いたため息は、温度がついていた。
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