古代史シンポジウム「騎馬文化と前方後円墳の拡がり」 [2015年06月29日(Mon)]
昨日(6/28)、古代史シンポジウム(発見・検証 日本の古代)の第二回目が大阪(御堂会館)で開催され(主催:角川文化振興財団、共催:朝日新聞社)、聴講しました。 今回のテーマは、「騎馬文化と前方後円墳の拡がり」でした。古代遺跡から出土した馬具に関しては、これまで、韓国では大成洞古墳博物館(金官加耶の遺跡出土品)や国立慶州博物館(新羅の馬具)で、国内では、橿原考古学研究所付属博物館(藤ノ木古墳出土馬具)で展示物を見る機会があり、このシンポジウムには興味がありました。 藤ノ木古墳関連記事は、 https://blog.canpan.info/inagawamanyo/archive/962 プログラムは、基調講演2題、3つの基調報告と討論(うち2つは韓国の研究者による)および全体討論で、午前10時から午後5時までの長丁場でした。 戦後間もなく(1948年)、江上波夫氏が「騎馬民族征服王朝説」を提起されましたが、今では過去の一学説となっています。ここでは、白石太一郎先生の基調講演と配布資料からメモを残しておきます。 ・古墳時代前半期の倭国には馬の文化は認められず、後半期になって初めて成立 (5世紀の王墓級の大型前方後円墳やその陪塚だけでなく各地の中小規模の古墳にまで広く馬具が副葬) ・馬匹生産のための大規模な牧も5世紀段階には営まれたとみられる(九州から関東地方に至る各地) (牧近接地に営まれたこの時期の小古墳に馬の犠牲土壙を伴うものが知られている) ・長野市大室古墳群などに百済に起源するとみられる合掌形石室を持つものが認められる (馬匹生産のために北信濃に定着させられた渡来人が営んだとみられる) ・4世紀末葉から5世紀にかけて馬の文化を伝えたのは百済やその影響下にあった加耶諸国であったとの見解 それでは、なぜ百済が倭国に馬文化を伝えたのか? ・ 4世紀になって始まった東アジアにおける民族移動が契機 中国北方や西方の遊牧騎馬民族が中国本土に大挙侵入 前燕(五胡の一つ鮮卑が建国)による高句麗侵攻、高句麗の南下政策 百済は武力で高句麗に対抗 → 360年代後半に百済は倭国と同盟 倭国が半島に出兵して高句麗と戦うために、百済や加耶諸国から渡来人が倭国に送られ、馬具の生産技術や馬匹の生産方法を教えたとみられる ・この時期王権のリーダーシップを握るようになったのが大阪湾岸の和泉北部や南河内の勢力 (この時期に大規模な古市・百舌鳥古墳群が営まれる) なお、シンポジウムのまとめは、3回目(9/27、東京)が終わってから、朝日新聞社より報告されるとのことです。 |
Posted by
katakago
at 20:34