125cc未満の車両は日本車には今は
あまり無いカテゴリー車種が外国車
には百花繚乱だ。
それはスクランブラー。
スクランブルという英語は、緊急発進
とかごちゃまぜという意味がある。
戦闘機のスクランブル発進や、卵料理
のスクランブルエッグ等がそれ。
オートバイの場合には、まだ未舗装路
でのレースが主体の1950年代に、横
一列のスターティンググリッドで
よーいドン!でスタートするレース
で使われた二輪車をスクランブラー
と呼んだ。
これはまだオフロード車専用車が
登場する前にオンロード用をオフ
でも使えるように改造した物だ。
だが、そもそもオートバイはすべて
オンロード用しかなかった。道路
自体に舗装路が無いので、道は
オフしかない。
舗装路が登場してから、二輪車も
四輪車も初めてオフロード専用
の車両が開発された。
つまり、スクランブラーは、そう
したクルマの過渡期にあって、
それまでのロードモデル(しか
なかった)にダートでも走破性
を持たせるように改良された二輪
だった。
日本では浅間火山レースが山岳
オフロードレースの嚆矢だが、
クローズドサーキットでのレース
は多摩川スピードウェイという
サーキット(巨人軍グランドの
反対側の川崎寄り多摩川河川敷)
のオーバルコースで戦前から開催
されていた。
戦争により一時期スポーツとして
のレースは中止されたが、戦後は
再び、多摩川スピードウェイで
二輪・四輪レースが開催され、
大観客で盛況だった。
日本初の純国産者の四輪車を作った
のは東工大卒の人で、大正時代に
官費留学でフランスに渡米し、その
足でアメリカに留学して自動車工学
を学んできた。
そして、10数台の日本初の試作車
を昭和初期に製作した。(皇族に
納車)
昭和初期の時代は日本で初めて
地下鉄が上野-浅草間に建設された
頃だった。
走行テストは箱根超えにトライ
した。
ビス一本に至るまで純国産の自動
車だ。
史上初のテストランでは、箱根の
峠で標高が上がり、初の純国産車
ヤナセ号はエンストした。
やむなく、プラグのみチャンピ
オンにその場で換装して箱根の山
を乗り切った。
ここに日本の歴史の中で初めての
純国産車の完成が成功した。
その人の書生として私の父は戦後
世話になり、洋式テーブルマナー
から学術的な支援から仕事まで
指導を受けた。
私の食事作法は間接的にその人
仕込みだ。また子息の後継者
(京大工学部卒、故人)には私は
後年仕事で管理役職を与えられて
世話になることになった。
以前私が平成初期の職務での調べ
物で訪れた最高裁図書館に、昭和
7年発行の日本紳士録(最高裁判所
図書館蔵)があり、何気なく目を
通していると、その日本初の純
国産車を設計製造した人の事を
「本邦自動車産業の雄」と記載
してあるのを発見した。
豊臣秀吉の著名な腹心が先祖で、
その直系子孫だった。本家は大名
だが、弟筋の分家であり、江戸期
の先祖は中国地区の某藩の家老職
だった。
私は西日本に転居後も、上京の
たびに、そのお二人の親子が眠る
霊園に参り、奥津城に花をたむけ
て祈るようにしている。
とにかく、日本人は存外早くから
自動車(含む二輪)が大好きだっ
たようだ。
また、西欧列強に科学力でも追い
つくべく、自動車と航空機の開発
には力を入れた時期だった。
海国なので船舶は先行していたが、
自動車と航空機は船舶よりも後発
だった。
カワサキの川崎航空機(川崎重工
グループ)は目黒製作所を戦後に
吸収したが、目黒製作所の前身
は鈴木鉄工所という勝海舟の養子
(徳川慶喜の実子)が趣味で作っ
た二輪製作所にいた技術者がのち
に目黒製作所を作った。今の東京
五反田の日産自動車の敷地が旧
メグロの跡地だ。山手通り沿いに
ある。東急線不動前駅のそば。
私の生まれ育った所から程近い。
あのあたりは品川区になるのだが、
目黒区と隣接しており、目黒目黒
と呼ばれていた。
そもそも山手線の目黒駅は品川区
にある。
駅名七不思議というのはよくあっ
て、京急の北品川もJR品川駅より
も南にあるのに北品川だ。
これは「品川洲」という洲がどこを
指していたかという江戸期の地理
を知らないとなかなか分からない
し、メグロの目黒呼称も、地場の
風習を知らないと意味が不明と
なる事だろう。
かくして、1960年代に入ると、舗
装路の道路が増え、ロードレース
はまさに舗装道路で開催されるよう
になった。
しかし、危険も多く、専用の閉鎖
コースでの開催が順次世界標準と
なって行った。
日本では、戦後アメリカの影響で
フラットダートトラックのオーバ
ルコースでの二輪レースが隆盛を
みた。
これは後に公営ギャンブルレース
として吸収され、日本独自の競技
「オートレース」という名称が
付与されて現在に至る。
黎明期においては、競馬場等の
ダートでレースが開催されたが、
統括団体の整備が進み、また競馬
場ではなく専用コースが順次建設
されて、完全に競馬場レースの
ダートからは独立分離した。
一方、世界の二輪レースは分岐が
始まり、舗装道路を走るロード
レースと、従前のようなダート
コースに起伏を加えたクロス
カントリー要素を加味したオフ
ロードモトクロスレースが登場した。
ロードレースはラリー形式のよう
に古来のタイムトライアル形式を
保つ一般公道レースが現在も最古
のレースとしてイギリスのマン島
で毎年開催されている。多台数
同時走行での競り合いではなく、
タイムアタック形式だ。
さらに、二輪車両での山岳トラッ
キングを競技として成立させ、
トライアルという新種目が登場
した。
ごく最近では、アメリカ輸入で、
ロードレースとモトクロスを
ミックスしたモタードという
レースも人気を博するように
なってきており、それ専用の
競技車両をメーカーが製造し、
一般公道市販車にもモタード
車をラインナップするように
なってきている。
欧州では、免許制度は排気量
ではなく出力による区分が
なされているケースが多いの
だが、出力はほぼ排気量に
連動していることもあり、
125cc未満の二輪車が日本の
50cc未満の原動機付自転車
(世界で日本唯一の区分)
と同等のポジションにある。
その125のヨーロッパ車は、
1950年代の往年の未舗装路
ラリー競技で登場したスク
ランブラーと1950-60年代
のオールドロードレース時代
の市販車ストリートレーサー
版のカフェレーサーの二種の
タイプの公道市販車が矢継ぎ
早に開発製造されてリリース
されてきている。
この流れは日本には存在しない。
かつては日本でも1960年代
後半から70年代初期には
スクランブラーも存在した。
また、79年頃にもホンダは
あきらかなスクランブラーで
ある「シルクロード」という
ユニークな機種を製造発売して
いた。
カフェレーサーについては、
ヤマハのYD-1などはもろに
レーサーレプリカでカフェ
レーサーであるし、ホンダ
もCBドリームシリーズは
初期にはもろにカフェレーサー
ぽいシルエットだった。
しかし、現行の日本車では
すべて消滅した。2ストレー
サーレプリカのように一台も
無くなった。
日本ではスクランブラーの立ち
位置をモタードが代替させる
図式になっている。
なお、日本車でカフェレーサー
スタイルが消滅したのは、警察
と運輸省による規制強化で、
ハンドルをアップハンドルに
しないとならないというヨーロッ
パからは大笑いされそうな規制
を強いたためだ。
モデルガンという玩具を黄色か
白に塗らないとならない、と
するような規制と同じだ。
また、カウリングについては
「前方向しか前照しないので
危険である」という意味不明の
事を警察は言って禁止していた。
そんなことを言ったら四輪車
は前しか照らさない。
矛盾と欺瞞だらけの理由になら
ない理由であらゆる規制をして
「オートバイ」の形を崩して
来たのが70年代に入ってからの
日本の行政と取り締まり当局の
指導措置だった。
それは1980年代に入ってからも
継続した。
カウル付きセパレートハンドル
が認可されたのは天と地がひっ
くり返る程の歴史的な事だった。
ただし、欧米では自由に車を
作っていた。
しかし、それも、日本車が勢力を
持つに至り、あらゆる日本車閉め
出しのための規制を米国主導で
行なうようになり、やがて、それ
は排ガス規制(小出しの目的意識
的な規制)としての手法を思い
つくにあたり、実行するように
なる。
京都議定書に調印しない米国等
が地球環境云々と自国車販売不振
は日本の免許制度のせいだと語っ
て日本に政治経済圧力をかけてきた。
おかげで、日本の二輪免許制度
は1996年に改変され、大型二輪
という新設制度ができて、誰でも
簡単に免許が取れるようになった。
結果、ハーレーが爆発的に売れ、
米国はしめしめ、狙い通り、と
なった。今は猫も杓子も大型
といえば日本人はハーレーだ。
大型?ドカでしょう、とか、
ビッグバイク?そりゃトラよ、
という日本人はごくわずかだ。
まるで二輪の代名詞がハーレー
かのような風潮ができあがって
いる。
すべては米国の思惑通りに。
内燃機関の全廃が叫ばれはじめた
今、ヨーロッパでは125クラスに
スクランブラーとカフェレーサー
の機種の製造販売ラッシュが
続いている。
最後の打ち上げ花火は原初的な
オートバイの始まりの頃の
ちょいあと、黎明期・揺籃発展期
のモデルをモチーフにしようよ、
というような気風が強く感じら
れる。
「今の原点はこれだよ」と言わん
ばかりの。
これは日本人にはできない。
日本は模倣に始まり、「日本式」
というものがほぼ無かったから
だ。
ホンダのモトコンポやお遊び
小排気量は実に日本的発想で
面白い車種だったのだが、
すべて潰えた。
そして、世界唯一のコミューター
文化を創造した50原付スクーター
さえも今後は消滅させようと
している。
125のスクランブラーなどは
日本車では日本メーカーは
作ろうとはしない。カフェ
レーサーも大排気量ではカワ
サキが作っているが、125は
ほぼ開発も製造も海外部門任せ
だ。
ヨーロッパの125(日本の原付
2種=小型二輪免許区分、高速
道路走行不可、速度規制は大型
とほぼ同じ)のクルマが今面白い。
日本でも通勤や通学の足として
も、125未満の原付2種の車両
の需要はかなりのものが今でも
ある。なにしろ、速度規制が
ほぼ大型車と同じという点が
便利だ。30km/h規制も無い。
日本の中でも、メーカーが作ら
ないのならと、DIYで125カフェ
レーサーやスクランブラーを
作っている人たちもいる。
しかし、まだまだブームという
ほどにはなっていない。
エンスーな二輪好きの人たちだけ
が自主改造で手掛けている。
海外では、中型クラスや大型クラス
もDIYでカフェレーサーやスクラン
ブラーに改造するマニアもいるが、
やはり125というライトウェイト
クラスでやるのが一つの面白さで
もあるのではなかろうか。
マフラーをこすらないように上に
持ってくるのがスクランブラーの
特徴。これはやがてモトクロッサー
の排気取り回しの設計に結びついた。
タイヤはダート用のキャラメル
ブロック系を選択する事も多い。
最高速よりも瞬発力を得るため、
ギア比はハイギアードにする。