あゆみ
旧三井物産を支えた企業家たち(1)渋澤榮一
三井家の家祖である三井高利が開いた越後屋に始まる事業は、優秀な人材の登用と育成により拡大。特に明治維新後、三井が財閥として近代的な会社組織に移行していく中で、多くの名企業家を輩出してきた。その中から今回は、渋澤榮一を紹介する。
今に続く多数の三井系企業の設立に関与
渋澤榮一は、狭義の「三井の人」ではない。しかし、三井系企業の前身となる多数の企業の設立発起人、役員などを務めその影響力は多大であり、三井物産と三井グループにとって最大級の功労者といえる。
渋澤榮一は、1869年に大蔵省に入省し、重職を歴任するが、財政問題をめぐる政府部内の意見の相違で退官、実業界に身を置くことになる。この時に一緒に井上薫らと共に辞めたのが、旧三井物産初代社長の益田孝である。渋澤榮一と益田孝とは、公私ともに良きパートナーで、「三井物産会社を創立した以後は、頻繁にお会いし、お目に掛からぬ日はほとんどないくらいであった」「何か事業を起こそうと考え時には、まず渋澤さんに相談した」(出所『自叙益田孝翁伝』)という仲であった。1876年、日本初の私立銀行となる三井銀行(現・三井住友銀行)の設立にあたっては、三井組と協働したほか、渋澤榮一が発起人、役員などとして設立に尽力した三井系企業は、王子製紙、日本製紙、電気化学工業、太平洋セメント、サッポロビール、三井製糖、IHIなど枚挙に暇がない(すべて現社名)。
一方、渋澤榮一は社会貢献活動に熱心で、1876年に東京府養育院事務長(後に院長)を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、1902年に聖路加国際病院初代理事長、さらにYMCA環太平洋連絡会議の日本側議長なども務めた。また、日本国際児童親善会を設立し、日本人形と米国の人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることにも尽力している。なお、世界平和の促進、特に日米間の相互理解の発展に捧げてきたことが高い評価を得て、1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。
さらに、渋澤榮一は1916年に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は社会に還元すべきだと説いた。
(注) 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く別個の企業体である。