古くて新しいテーマである。
化学者・医学者は、ミナマタで起きたことを、単なる化学・医学現象としてしかみないのかもしれない。○○村で認定患者が何人出たというデータは、観察可能なデータとして処理される。
しかし、子女の就職差別・結婚差別をおそれて「健康診断」そのものを拒否した村は、データに入らない。その結果、被害は過小評価となる。疫学とはそのようなものであって、分析結果には社会的バイアスがかかっている。
データのバイアスにさえ留意すれば中立的研究になるだろうか。
モノが対象なら、まだいいが、ヒトや社会が対象である以上、自然科学研究が中立であることはありえない。
一例として、チェルノブイリ事故の長期的影響を隠蔽してはならないし、正確な知識をもっておくことは重要である。しかし、その結果が被曝者差別につながれば、言語道断である。研究者は往々にして社会に対して発信する使命感をもっているし、そのこと自体を否定はしないが、社会とのコミュニケーションには別の専門家を介した方がよいのかもしれない。本来メディアがその役割を担うべきだが、今の危機的状況で海外メディアの報道の方が安心できるのはなぜだろうか。自然科学や工学の専門家が政策提言的なことを安易に口にするのをしばしば見かけるが、危険なことをサラッと言ってのけることも多い。
では、人文社会科学は?
「そんなに簡単にモノが言えれば苦労しない」と思うところまでは簡単である。その先がなかなか言えない。筆者の修行が足りないだけだろう。
ブログの本題に戻ろう。
林野利用の歴史をつぶさに調べて行けば、時代や地域によっては、差別された人々の存在が明らかになるかもしれない。公表によって、現代を生きる方々に不利益を及ぼす可能性もある。歴史学者にとっては常識となっているこの問題について、無自覚にならないよう、自戒したい。
0