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竈門炭治郎は長男であり、それゆえに昔から、幼い弟妹たちの見本でいなければならなかった。誰よりも清廉潔白に、まっすぐに。家族の見本として、恥ずかしくない「正しい人間」であることは、炭治郎の誇りであった。 いとおしい兄弟たちは殺されてしまったが、幼い頃から刷り込まれたその誇りは、もはや竈門炭治郎という人間の根っことなっていた。炭治郎は「正しい人間」として「正しい行動」をとらなければならなかったし、それが当然だと思っていた。
ゆえに、我妻善逸から寄せられる好意に気付かぬふりをしたのは、炭治郎にしてみれば当然のことだった。 善逸はひどく分かりやすい男だった。いつだって炭治郎の方をちらちらと気にし、視線が合えば頬を染めてパッと目を伏せる。話しかければとろけそうな顔ではにかむし、その体からはいつだって、炭治郎に対する恋心の匂いがした。
「ッあのさ!お、おれ、炭治郎のこと…ッ好き、なんだ…けど…」
ある日とうとう耐えかねたのか、善逸は震える声で、自らの想いを打ち明けてきた。炭治郎の羽織を祈るようにぎゅっと掴み返事を待つ善逸に、炭治郎はただただ、(ああ、かわいそうに)とそう思った。(俺が正してやらなければ)と。 だって、男同士で好きだの愛してるだの、そんな感情を抱くのは間違っている。愛とは男女で育むべきものなのだ。善逸は親も兄弟もないようであるから、きっとそんな当たり前のことを教えてもらえなかったのだろう。ならば俺が教えてやらなければと、炭治郎はそう思った。
「ありがとう!俺も善逸のことが大好きだ!」 「ッ炭治郎…!それって、」
にっこりと笑った炭治郎に、善逸が瞳を輝かせる。ふわりと香ってくる、期待と希望の匂い。 頬を染めてこちらを見つめる善逸はたいそう愛らしく、その顔を曇らせるのは炭治郎とて辛かった。けれど、善逸は間違っている。間違っているものは、正さなければならない。炭治郎は、笑顔のまま続けた。
「ああ!命を預けられる、とても大切な仲間だと思っている!」
笑顔できっぱりと言い切った炭治郎に、善逸がヒュッと息を呑み込む。顔を白くした善逸が、それでもどうにか想いを伝えようと「ッちが、」「おれは、」と言葉を続けようとするので、炭治郎はその告白を遮るように、「善逸と伊之助に出会えて、友人になれて本当に良かった。俺は幸せ者だ」と笑ってみせた。 絶句した善逸の指から、炭治郎の羽織の裾がするりと抜ける。俯いた善逸は、しばらく黙り込んだあとに、小さなか細い声で「…そっか、ありがとな、炭治郎」「俺もお前が大切だよ。友達になれて、よかった」と、そう力なく笑った。
くるりと背を向けてふらふら去っていく善逸からは涙と悲しみの匂いがしたが、炭治郎は駆け寄って慰めたいのをこらえ、その背中を見送った。 …これで良かったのだ。 自分は道を外さず「正しい人間」のままでいることが出来たし、友である善逸を「正しい方向」に導くことが出来た。多少傷つけてしまったかもしれないが、いつかは善逸も、これが「正しい選択」だったと気付いてくれるだろう。自分は間違いなく「正しい行い」をしたのだ。
*
(大丈夫、大丈夫。俺は今日も間違えなかったぞ!)
夜、布団に入った炭治郎はその日の自分の行いを反芻して、満足げに頷いた。そうだ、なにひとつ間違っていない。今日も自分は、天国の父母や兄弟たち、そして禰豆子に恥じぬ、良い長男であった。しかし…。
炭治郎は、からっぽのままの隣の布団を、ちらと見た。もうすっかり夜も更けたというのに、善逸がいないのだ。夕餉の時も食が進んでおらず、伊之助におかずを横取りされても文句ひとつ言わずに、されるがままになっていた。その後ふらりと姿を消して、それからどこにも見当たらないのだ。
「…………」
炭治郎はむくりと体を起こし、伊之助を起こさないようにゆっくりと立ち上がった。善逸のことが、気になって仕方がなかった。…泣き虫な善逸のことだから、今頃どこかでうずくまって泣いているのかもしれない。そう思うと心がざわついて、いても立ってもいられなかった。 …探しに行こう。 布団を抜け出し、寝巻きの上にいつもの羽織を引っかけると、炭治郎はそっと部屋を出た。 炭治郎は「正しい人間」なので善逸とは恋仲にはなれないが、けれども善逸のことがとても大切だった。善逸が笑えば心が暖かくなったし、善逸が泣いていれば何としてもその涙を止めてやりたかった。
*
しんと静まり返った廊下を、音を立てないようにゆっくりと歩く。かすかに善逸の匂いがするので、方向はすぐに分かった。庭の方角だ。善逸はきっと、そこにいる。 炭治郎は草履に足をつっかけ、善逸の匂いを辿って庭に出た。広く美しい庭は花の甘い匂いに溢れていて、善逸の居場所が分かりづらい。しばらくふらふらとさ迷った末に、遠くの生け垣の向こうに黄色い頭を見つけ、炭治郎はホッと息を吐いた。 …良かった、見つけた。 安堵に顔をほころばせながら、炭治郎は善逸へ近付こうと足を速めた。 かわいそうに。こんな夜更けにたった一人で、どれほどの時間ここにいたのだろう。きっと泣いている。俺が、慰めてやらなければ、
「ああもう、そんなに擦るな。目が赤くなるだろう」 「ッだっ、て…だってぇ…!うう、ひっく、」 「よしよし、つらかったな。大丈夫だ、俺がいんだろ?なあ?」 「う、うあああん!おれ、おれ、、本気で…すきっ、だっ、のに…ッ!」 「分かってる。お前は頑張ったよ。ほら、全部吐き出してすっきりしちまえ」
炭治郎の予想通り泣きじゃくっていた善逸は、けれどもしかし一人ではなかった。善逸の隣には、元音柱である宇髄天元がぴたりと寄り添うように立っていて、やわらかな声で、善逸を慰めていた。宇髄の大きなてのひらが、しゃくりあげる善逸の背中をさすり、ほろほろと零れる涙をぬぐうのを、炭治郎は信じられない思いで見つめた。…どうして。なぜ、この人がここにいるんだ。
「ぐすっ、うう、たんじろ…たんじろぉ、」 「勇気出したんだろ?偉かったなあ善逸、よく頑張った」
一本しかない腕で善逸の小さな頭を守るように自分の胸板に抱き込むと、宇髄は「こんなに傷付いて、かわいそうになあ」と慈しむように金の髪を撫でた。炭治郎はついぞ聞いたことがない、どろどろに甘く煮詰めた糖蜜のような、そんな声であった。
「ッう、ずいさん…」 「どうした?落ち着いたか?」
しばらくしてようやく顔を上げた善逸に、宇髄が優しげに目を細める。ようやく泣き止んだらしい善逸は、所在なさげに目を伏せて「ごめん…おれ、ずるいよね…こんな時だけ甘えて…」と呟いた。
「もう俺、平気なんで…すみませんでした、こんな夜中に迷惑かけて…」 「ばあか。惚れた奴が傷付いて泣いてんだ、それが迷惑なもんかよ。お前が泣いてるって教えに飛んで来てくれたあの雀には、よおく感謝しねえとなあ」 「でも…ッ俺、宇髄さんのこと、」 「後生だから傍にいさせてくれ、善逸。お前がこんな夜更けに一人で泣いてると思うだけで、心の臓が止まりそうになる」
炭治郎はその場に呆然と立ち尽くし、息を殺してその光景を見つめた。 わずかな月明かりの下、宇髄にやや強引に抱き寄せられ、しどけなく体を預ける善逸。寄り添う2人は、まるでそうあるのが当然であるように見え、それが炭治郎を酷く落ち着かない気持ちにさせた。 …どうしてあの場所に宇髄さんがいるのだろう。善逸を泣かせたのは自分なのだから、善逸の肩を抱き慰めるのは自分であるべきなのに。善逸も善逸だ。そんなに簡単に抱き寄せられて。甘えさせてくれるなら誰でも良いのだろうか。 子供のように喚き散らしたい衝動に突き動かされ一歩前に踏み出そうとした炭治郎は、しかし次の瞬間、逃げるようにその場から走り去っていた。 脇目も振らずに寝室へ駆け込み、頭から布団をかぶる。…忘れてしまいたい光景だった。宇髄の手が善逸の顔を上向きに向かせ、そうしてゆっくりと顔を近付けるのが見えたのだ。
*
翌朝。ほとんど眠れずに夜を過ごした炭治郎は、寝不足でぼうっとする頭で布団から身を起こした。善逸が戻ってきたら話をしようと待ち構えていたのだが、結局善逸は戻ってこなかった。…あのまま、宇髄と過ごしたのかもしれない。
「ッくそ…」
自分が何故こんなにモヤモヤしているのかも分からないまま、炭治郎は部屋を出た。顔を洗いたかったし、それに善逸を探さなければならない。昨夜からずっと、胸のあたりが騒いで仕方がなかった。早く、早く善逸と話をしなくては。まずは誠意のない態度で泣かせてしまったことを謝る。そうしたらきっと元通りだ。これまで通り、三人で助け合って鬼を狩って、無惨を倒して禰豆子を人間に戻して。そうしていつか、俺は善逸じゃない人と夫婦になって……善逸じゃない、人とーーー?
「よお、良い朝だな」 「ッ宇髄、さん…」 「なんだ、幽霊でも見たような面して」
ぐるぐると考え込むあまり、気配に気が付けなかったらしい。部屋を出たところの廊下で、壁に寄りかかるようにして着流し姿の宇髄が立っていた。近くに善逸の姿はない。けれど宇髄には善逸の匂いがべったりと染み付いていて、炭治郎はつい顔を歪めてしまった。 …あれ、なんだろう。おかしいな。すごく嫌な気持ちだ。
「…おはようございます」
そう言って引きつった愛想笑いを浮かべるのが、精一杯だった。いつもの自分ならば笑顔で駆け寄って、近況などを尋ねたりするだろうに。それが、「いつもの正しい竈門炭治郎」だと分かっているのに。 それ以上言葉を見つけられず立ちすくむ炭治郎を、宇髄は愉快で仕方ないと言いたげな眼差しで眺めた。炭治郎の強ばった表情や目の下に貼り付いたクマに、宇髄の切れ長の瞳がにんまりと歪む。
「ありがとうな」
歌うように、軽やかな声だった。嬉しくて、幸せでたまらないと言いたげな、そんな声。意図が分からず眉をひそめた炭治郎に、宇髄は「お前には礼を言わなきゃなんねえと思ってたんだ」と上機嫌に続けた。
「…礼を言われるようなことなんて、俺は何も、」 「いや、本当に感謝してんだよ。お前が、そういう奴で良かったってな」 「……そういう奴、とは?」 「クソ真面目で、我慢強いイイコちゃん」
トゲのある言い方だった。炭治郎が戸惑っているのが分かっているはずなのに、宇髄はにこにことした笑顔を崩さなかった。そのくせ、細められた瞳の奥はこれっぽっちも笑っていなくて。
「あの…言っている意味が、よく…」
良い意味で言われていないことだけは、分かる。軽蔑して、嘲笑って、勝ち誇っている匂いがした。困惑した表情を浮かべる炭治郎をじっと見据え、宇髄は「ま、もう終わった話だ。気にすんなよ」と炭治郎の肩をぽんぽんと叩いた。
「アイツのことは俺が、派手に幸せにしてやるから。お前は望み通り、そこら辺のつまんない女と普通にくっついて、普通に子でも作れよ。アイツとじゃ、出来ないもんなあ」 「ッ!」 「善逸を泣かしてでも、清く正しいお利口ちゃんでいたかったんだろ?良かったじゃねえか。お前のおかげで、善逸もようやく諦めがついたってよ。全部、お前の狙い通りだ」
先程まで笑みを浮かべていた宇髄は、いつの間にか、もう笑ってはいなかった。愛する者を軽んじられた怒りに燃える赤銅色の瞳が、炭治郎を静かに、まっすぐ射抜く。
「ずいぶん長いこと口説いてたんだが毎回うまくかわされてよお。でも昨夜、とうとう頷いてくれた。可哀想に、ずっと好いていた奴に想いを受け取っても貰えなかったらしくてなあ。…ま、傷付いたアイツに漬け込む形になっちまったが、後悔はしてねえし、もちろんアイツにも後悔なんかさせねえ。昨日傷付けられた分も含めて、俺が幸せにしてやりゃいいだけだ。そうだろ?」 「ッそんな…!そうじゃなくて、俺は、ただ…!」
傷付けるつもりなんてなかった。ただ、同性に間違った恋を抱いている善逸を、正しい道に引き戻そうとしただけだ。だって自分は、誰よりも正しくいなければならないんだから。天国の家族に、禰豆子に恥ずかしくないように。だから…!
言い訳は、させて貰えなかった。 声を荒げる炭治郎を制するように片手を挙げ黙らせると、宇髄は話は終わりだとばかりに炭治郎に背中を向けた。
「昨日は色々あったから、疲れたんだろうな。善逸は熱が出たから、しばらくうちの屋敷で休養させることになった。もうお館様にも許可は貰ってる。んで、お前と伊之助はこれから任務だそうだ。北北東の方角に鬼が出たらしい。朝飯食ったらすぐに出発だ」
ひらりと手を振り「そういう訳だから、荷物まとめとけよ。確かに伝えたからな」とスタスタ歩き出す宇髄。炭治郎は咄嗟に、その広い背中に追い縋っていた。着流しをしっかと掴まれ、宇髄が面倒くさげに振り返る。「なんだよ」と冷ややかに睨み付けられながら、炭治郎は必死に食い下がった。
「ッ待ってください!そんな急に…!善逸はどこですか!?話をさせてください!せめて、顔だけでも…ッ」
大体、おかしな話ではないか。宇髄には綺麗なお嫁さんがすでに三人もいるのだ。それなのに、善逸と恋仲?そんなの、絶対に正しくない。そもそも男同士の恋愛だなんて!これでは、自分が身を引いた意味が…………身を引い、た?
自らの頭をよぎった思考に、炭治郎はひゅっと息を飲んだ。…身を引いた。自分はそんな風に思っていたのだろうか。だって、これではまるで、自分も善逸のことが、
『炭治郎!』
嬉しそうに自分の名を呼び、笑う善逸の姿が、脳裏に浮かぶ。人一倍泣き虫で臆病で、それなのに禰豆子を身を挺して守ってくれた善逸。何にも代えられない、大切な友人だ。 だから気のせいだと、思い込んでいた。善逸に対し、時折「可愛い」「守ってやりたい」と、男の友人に抱くにはおかしい感情を持っていたこと。善逸から想いを告げられた時、「断らなくては」と理性が判断する傍ら、心のうちでは喝采を叫んでいたこと。
「あー…悪ィけど、話をするっつーのは無理だな。善逸の奴、今ぐっすり寝てんだよ。言ったろ?昨夜は色々あったから疲れてるって」
含みのある言い方に、炭治郎の肩がびくりと跳ねる。恐る恐る顔を上げた先にいた宇髄は、もう既に炭治郎を見てはいなかった。優しい穏やかな眼差しで「ちっと無理させちまったからな、寝かせてやりてえんだ」と独り言のように呟く宇髄。昨夜に想いを馳せているのか、端正な口許が幸福そうに緩む。その身体から香る善逸の甘やかな匂いが強くなった気がして、炭治郎はふらりと後ずさった。
何もかも手遅れであることが、はっきりと分かった。清廉潔白に、真面目に正しく生きようとするあまり、自分は一番大切な選択肢を間違えたのだ。もう取り返しがつかない。宇髄から善逸の香りがするように、きっと善逸からは宇髄の香りがするのだろう。
「…あ、俺……俺、は…」
血鬼術でも何でも構わない。お願いだから、誰か時間を戻してはくれないだろうか。そうしたら、もう二度と間違えたりはしないから。 凍りついたように動けない炭治郎の頭に、宇髄の大きな手のひらがぽんと乗せられる。慰めるように炭治郎の頭を撫でながら、宇髄は「全てお見通しだ」と言わんばかりの顔で、笑った。
「お前が良い奴で良かったよ。本当にありがとうな」
映画→コミックス最終巻のコンボで「うおおおおお皆幸せになってくれえええええ(号泣」ってなりながら書いたらこんなんが出来たので、多分私の頭はおかしい(確信)