teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

【重要】teacup. byGMOのサービス終了について
 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

 投稿者
  題名
  内容 入力補助 youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


報告

 投稿者:山田 実  投稿日:2008年11月27日(木)20時57分35秒
返信・引用
   これまでペテルブルクで知りえたディミトリ・ディミトリエヴィチの情報を投稿してきましたが,去る17日に先方での仕事を終わりにして帰国しました。ほんの断片的な情報しか提供できませんでしたが,これからはそれもなりません。ご容赦下さい。それで今回知りえたことを記すことにします。
1)マリインスキーオペラ・バレエ劇場の第2劇場の建設工事が進んでいましたが,設計上に甘いところがあって,その設計での建築は中止。あらためて設計し直して2年以内に完成させるよう,文化大臣の命令が出ました。地盤を無視した設計でごり押ししてきた結果,振り出しに戻りました。
2)おなじマリインスキー劇場のコンサートホールの正面の高いところに,ロシアの作曲家たちの胸像が並んでいます。確かめたところ,左からチャイコフスキー・ムゥソルグスキー・プロコフィエフ・ボロディン・ショスタコーヴィチ・R=コルサコフ・ストラビンスキーとなっていることが判りました。ラフマニノフやスクリャ-ビン,それにグラズノフは入っていません。
 以上,ディミトリ・ディミトリエヴィチについての情報ではないのですが,報告しておきます。
 山田
 
 

山田さん、ありがとうございました!

 投稿者:S.K.  投稿日:2008年 8月11日(月)23時30分21秒
返信・引用
  記念室訪問記、大変興味深く読ませていただきました。
実際に訪問された方ならではの貴重な情報ですね!
いつか、自分も行ってみたいと思いました。
 

山田さん、ありがとうございました

 投稿者:ふる@管理人  投稿日:2008年 8月 5日(火)14時15分13秒
返信・引用
  貴重な訪問体験記、ありがとうございまいた。
「記念室」といってもかなりボランタリーな管理というか、コネ社会
というか、実質予約制というのは、行った方でないと絶対にわからな
い実態ですね。
 

訂正(記念室・・・)

 投稿者:山田 実  投稿日:2008年 8月 1日(金)08時46分23秒
返信・引用
   産経新聞の記者のお名前を間違えました。内藤良介さんでなく,内藤泰朗さんでした。支局にもう一人・・良介さんという方がおられるので,混同しました。ご本人たちには失礼なことをしてしまいました。  

(その2)の訂正

 投稿者:山田 実  投稿日:2008年 7月30日(水)15時03分8秒
返信・引用
   (その2)のなかで,誤りがありました。それは,
7)のところです。①家賃滞納で放り出された。②レオンティエヴァのところに居候でした。
 以上2点,池上=パンクラートヴァ・みどりさんの指摘です。
 

記念室訪問まで

 投稿者:山田 実  投稿日:2008年 7月30日(水)00時05分53秒
返信・引用
  (いかにして訪問できたか?)
 昨年来,記念室の戸口まで再三再四出掛けたが,けっきょく公式には開いていなかった。管理を移管された市当局が,積極的に公開しようとしなかったことによることも判った。
 その一方で,産経新聞モスクワ支局の内藤良介記者が訪問記を載せて,「ロストロポーヴィチ財団に連絡すること」とあったので,その連絡先を知ろうとして問い合わせ続けたが梨のつぶて(訪問2日前に,ずっと黒海地方に行っていたのでお知らせできなかったとの連絡あり)。また在サンクト・ペテルブルグ日本総領事館の文化担当副領事(離任中)にも問い合わせたところ,電話番号を首席領事が知らせてくれたが,すでに下記するように連絡はできていた。また財団を支援している日本の商事会社(医薬品分野)の佐多商会を紹介してくれた人がいて,佐多商会からもその連絡方法を知らせて頂いた。
 このような連絡不調のなかで,一昨年記念室開設式典のときに,オーディオ・セットを寄贈したヤマハの職員の通訳をした池上=パンクラートワ・みどりさんが,本文中にあるラリーサ・チルコワさんと連絡を取ってくれ,結果として池上さん経由でやっと訪問することができた,といった次第です。
 ロシア第一の文化都市と自負していながら,いっこうに公開の手立てをしようとないペテルブルクの市当局の怠慢(経済的に潤沢になっているのに)は,やはり問題がありそうです。また記事を書いていながら産経新聞は,支局をあげてサービスをする考えが不足していたといわれても仕方がないでしょう。総領事館の対応は,まずは妥当と思う。

 今後,もしどなたか訪問したいときには,下記のヴィシネフスカヤ=ロストロポーヴィチ財団に,その旨連絡してお願いすると良い。
 Elena FROLOVA または Larisa CHILKOVA さんあてとして,
 Tel : +7-812-579-6025 および
 e-mail : fvr@spbvr.ru または hlnss@spbvr.ru
です。
 これで,訪問記を一応終わります。
tELィうぃと相前後して
 

お詫び

 投稿者:山田 実  投稿日:2008年 7月28日(月)12時52分13秒
返信・引用
  (その1)で,・・・ニコラエフスク通りとなっていた。・・・が正しい。
(その2)で,・・・チャイコフスキー通り・・・が正しい。
事後の添削が不十分で,恥ずかしい限りです。 (山田独白)
 

記念室訪問記(その2)

 投稿者:山田 実  投稿日:2008年 7月28日(月)12時45分10秒
返信・引用
   今回は,前報に引き続いてムゥソルグスキー記念室について,報告します。案内して下さったのは,前回同様ラリーサ・チルコワさんです。
 記念室は,現在のチャイコフsキー通りよりもう一本ネバ川に寄ったシェパレールナヤ通り6号棟15号室。15号室は通りに面した3階である。通りに面した外壁には,ソビエト時代に造られた作曲家の頭部の彫塑が掲げられていて,その下には作曲家が1872年から75年にここに住んだと書かれている。
 なお,この6号棟の中庭を通り抜けると,突き当たりにはヴィシネフスカヤ(以後Vと省略)とロストロポーヴィチ(R)が居住した(している)アパートがある。
1)このシェパレールナヤ通り周辺には,当時多くの芸術家が住んだ。スターソフもその一人。なお6号棟は1817年に建てられ,以後外部塗装以外はいっさいそのままとのこと。したがって3階まで登る階段は,ところどころ欠けたままであって,もちろんエレベータ(ロシアではリフトという)はない。
2)この15号室には最近までコムナルカ(共同アパートでもいうのか。各室にそれぞれ世帯が入り,台所・トイレットなどは共用)だったが,RがVに相談もせずに全体を買い取り,順次退去して貰った。後日東京公演のときに電話でVに打ち明けた。Vは同意した。以後,Vとラリーサさんが内部の資料集めや調度品の収集をしたという。
3)ドアから入って右側が記念室の3室からなり,中央の大広間を挟んで,比較的小さな部屋が左右にある。大広間には,ベッカー社製の木目のある角張ったグランド・ピアノがあり,当時のもの。Vとラリーサさんが探し出して手に入れた。ピアノの脇には四角張って楽譜が縦に入り,下2段にも楽譜が置ける。楽譜入れの中には,歌曲(ロシアではロマンスという)の楽譜が入っていた(と連れ合いが確かめた)。これも当時のものらしい。壁にはレーピンが描いた作曲家晩年の肖像画と,その下には「ホヴァンシチナ」の4人の登場人物のコスチューム画が掛けられていた。反対側の壁にも,作曲家がピアノを弾き何人かが聞き入っている大きめの絵の写真と,その下にはやはり「ホヴァンシチナ」のコスチューム画。そのほか展示ケースには,ボリス・ゴドゥノフのR=コルサコフ版やダルゴムィシュスキーのオペラ「ルゥサルカ」などの楽譜が納められている。
 この部屋の壁紙は,当時の布折り機械を持っていた工場でVとラリーサさんが作らせたもの。その後その工場は閉鎖され機械も行方知れずとなった。
4)大広間に続いた部屋に,詩人のG.クトゥーゾフ(ナポレオン侵攻時の総司令官,クトゥーゾフの遠縁に当たる)が入居して詞作していた。その詩「細長いうなぎの部屋」の連作に作曲家は曲を付けた。また「ベス・ソーンツェ(太陽もなく,あるいは日の光無く)」なども。なお「展覧会の絵」もここで作曲した。ガルトマンの死の前の晩,作曲家は詩人と散歩ののちにアパートの下,シェパレールナヤ通りで別れている。
5)ドイツ人,ブールゴルトの紹介で,R(リムスキ-の略)=コルサコフと作曲家はふたりの姉妹,ナジェージュダとアレクサンドラと知り合った。R=コルサコフは姉のナジェージュダと仲が良く,のちに結婚してアパートのとなりの部屋に住んだが,1年して転出した。作曲家はアレクサンドラと仲が良かった。アレクサンドラは作曲家の歌曲を初めて歌った人である。彼等はみな,フランス語も達者であったという。なおこの6号棟の1階には,同じ仲間の作曲家,キュイが住んでいた。
6)ここ住んだ72年~75年は,作曲家がもっとも活動的であった時期で,オペラ「ホヴァンシチナ」,死者の歌,展覧会の絵など,歌曲を含めて数多くの作品を作曲した。
7)理由の説明はなかったが,75年のある日家主は作曲家の持ち物(調度品は家主のもの)を全部ドアの外に放り出して,作曲家を追い出した。作曲家はやむなくワシリー島(ネバ川の向こう)のレオンチークのところに転がり込んだという。
 以上が記念室と記念室にまつわる作曲家の話です。
 

Re: 記念室訪問記(その1)

 投稿者:ふる@管理人  投稿日:2008年 7月26日(土)18時13分58秒
返信・引用
  > No.100[元記事へ]

山田さん、5月の予告通り(以上)のご報告、S.K.さん同様、わくわくしながら拝読しています。続報をお待ちします。
 

記念室訪問記(その1)

 投稿者:山田 実  投稿日:2008年 7月25日(金)19時26分23秒
返信・引用
   去る5月に予告したとおり,マラト通り(作曲家が入居した頃はニコラエフスク通りとなていった)9号棟7号室を訪れました。訪れることができた経過は,省略します。
 鍵を開けて案内してくれたのは,以前リムスキー=コルサコフ博物館の館長をしていたラリーサ・チルコワさんでした。
1)7号室は本来7室であったが,ソビエト時代に二つに分けられた。1914年に入居したときには,作曲家(本人は8才)家族はすべて使っていたが,17年の革命後は通りに面した3室を使い,いまの記念室はその3室である。入り口のドアを開けて入ると廊下で,その右側に3室が並んでいる。中央の大きめの居室,居室から右が書斎,左がいまは演奏ができるホールとなっている(当時は?)。22年に父上が死亡。33年(本人は27才)にこのアパートを手放して,マラト通りから西に2本入ったドミトリスク小路3号棟に転居した。すでにニーナ・ヴァルサールと結婚していたので,母親たちとは別居したことになる。
2)この9号棟7号室で作曲された主なものは,すべてのバレエ音楽,オペラの「鼻」と「ムツェンスク郡のマクベス夫人」,それと交響曲1番から3番までと,多くの小品である。映画音楽も同様。
3)中央の居室には,「マクベス夫人」までの作品の演奏広告が壁に飾られていた。展示ケースの中には,交響曲第1番の最初の楽譜と手書きの楽譜(何のかは不明)。無声映画のピアノ伴奏をしたことを示す映画館の広告,伴奏曲のリストなど。
4)書斎には,子息マクシムがモスクワ郊外のダーチャから持ち込んだ作曲家が使っていた机がふたつある。そのひとつの卓上中央には,ムゥソルグスキーの写真(レーピンが描いた晩年の肖像画からのものではない)が置かれている。その周辺に幾人かの肖像写真。もうひとつの小さい机には家族の写真など。ラリーサさんが言うのには,作曲家は作品ができあがったあと,ムゥソルグスキーの写真の目を見て作品を判断し,いくつもの作品はそのままゴミ箱に直行したとのこと。
5)ホールには記念室完成後にエレーナ未亡人が買い戻したベッヒシュタインのピアノがある。作曲家は,スターリンのプラウダでの批判ののち賭博に手を染め,借金の形(かた)にこのピアノを手放した。買い手はその後転売していなかった。ホールの壁には,ヴィシネフスカヤ・ロストロポーヴィチ夫妻との関係が濃かったことを示すいくつもの広告があり,作曲家がただ一回指揮をした広告もある。展示ケースには,ロストロポーヴィチに献呈されたチェロ協奏曲2曲の楽譜と手書きの楽譜。またブリトゥンのサイン入りの楽譜もあった。ホールの壁には,73年(死の2年前)に描かれた作曲家の肖像画とその肖像画を描いている写真。
 以上です。ラリーサさんの説明が小1時間ありましたが,今回は記念室の様子を中心に報告しました。

追記:後日(その2)として,ムゥソルグスキー記念室の訪問記を報告します。マラト通り9号棟訪問の折,最後に報告者が関係している研究所には,ムゥソルグスキーがひと頃農林省の役人として働いていた部屋があると,ラリーサさんに語ったところ,「その作曲家の記念室もあるよ」となって,1週間後に訪問したのです。
 

レンタル掲示板
/38