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東芝姫路工場の社史を見て思い出を語る山田正典さん=姫路市余部区下余部
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東芝姫路工場の社史を見て思い出を語る山田正典さん=姫路市余部区下余部
実習中の山田正典さん(右)
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実習中の山田正典さん(右)
「むつみや」(右)などが立ち並ぶ一角。通りを挟んだ場所に女子寮があった=姫路市余部区上余部
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「むつみや」(右)などが立ち並ぶ一角。通りを挟んだ場所に女子寮があった=姫路市余部区上余部
神戸新聞NEXT
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「佐藤鉄工所」と記した創業当時の看板と旋盤=姫路市余部区下余部
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「佐藤鉄工所」と記した創業当時の看板と旋盤=姫路市余部区下余部

 一時代を築いた-。東芝姫路工場(兵庫県姫路市余部区上余部)を知る誰もが口をそろえる。蛍光灯やブラウン管、半導体など、暮らしに欠かせない製品を時代に先駆けて送り出す拠点だった。現場を支えたのは、地元や集団就職の若者たち。工場で技術を学び、職場結婚をして地域に根を張った人が多い。東芝姫路の操業が停止して10年が過ぎた今も、従業員や取引先として工場と歩んだ住民の胸には、往時の姿が色あせずに残る。その1人、元製造長の男性は、幻の液晶工場構想を昨日のことのように語り始めた。(段 貴則)

元製造長・山田さん 期待の液晶工場、幻に

 「新工場の青写真を見たときは、これで余部も安泰や-と思いましたよ」

 東芝姫路のすぐそばに住む元製造長、山田正典さん(77)によると、当時、元号は平成に変わっていた。図面には、敷地いっぱいに巨大な建屋が描かれ、内部は全面クリーンルーム。新たな経営の柱に、と期待された液晶の最新鋭工場を建設する計画だったという。

 山田さんは、製造長として液晶を担当。東芝姫路の分工場から独立した姫路半導体工場(太子町)の一角に試作ラインを置いて開発が進んでいた。「私もガラスメーカーと組んで60インチの試作にあたった」

 構想は青写真通りに進まなかった。阪神・淡路大震災の影響で「姫路だけでなく、埼玉の深谷などにも分散させ、災害リスクを減らすことになった」

     ◇

 東芝姫路の前身は、東京芝浦電気(後の東芝)の播磨進出に伴い、1943年に発足した播磨余部工場。通信に欠かせない真空管の一貫生産をする拠点で、山田さんの父も働いた。「終戦の頃は工場を囲う塀もなくて、おやじの職場によく遊びに行った」という。

 戦後のラジオブームで、真空管の中でも主力製品の受信管需要が急拡大。さらに山田さんが中学を卒業して入社した60年には、テレビのカラー放送も始まり、追い風が続いていた。

 「当時の播磨地域で、就職先の人気は広畑の富士製鉄、相生の石川島播磨重工業に次ぐ3番手だった」。播磨の御三家の一つに入った山田さんは3年間、養成工として工場内で午前は体育や学科、午後は実習、5時から部活動で陸上競技に打ち込んだ。

 配属先は、蛍光灯や電球の金属部品の金型を機械などで仕上げる工程を任された。受信管とともに、工場の主力製品も次々誕生した。蛍光灯やテレビのブラウン管、半導体…。「金属部品の加工部門だったおかげで、その時代の先端を行く製品に携わり続けられた」

     ◇

 97年、山田さんら約200人が姫路から深谷の液晶工場へ移った。姫路を離れにくい従業員の親に会い「わしも行くから」と説得したこともあったという。「従業員はみんな地元で暮らす住民でもあり、東芝姫路が余部にあるというだけで鼻も高かった」。一度は、巨大な液晶工場の夢を描きながら、2010年、東芝姫路での液晶画面の生産に幕を下ろした。

女性が7割、現場支える 工場そばの女子寮 出会い求め、集まる男性も

 「従業員の7割が女性やったんちゃう?。ほんまに東芝姫路は女性の職場やった」。山田正典さんの妻福美さん(77)も、その1人。1960年の同期入社で「職場結婚が大流行(だいりゅうこう)しとった」と照れを隠すが、社内や現・日本製鉄瀬戸内製鉄所広畑地区の男性従業員と結婚し、姫路で暮らしている元同僚が多いという。

 同製鉄所とは毎年、クリスマスにダンスパーティーがあった。「私らの先輩たちは日が近づくと、職場でダンスを練習していた。みんなモテててた」と笑う。

 福美さんは結婚まで工場そばの女子寮で暮らした。すでになくなったが、2階建ての建屋が並び、3千人が住んでいたという。「1部屋4人だけど結構広くてね。九州や四国など集団就職の人が多かった」と話す。出勤や帰宅はみんな並んで歩き、工場の門から寮まで大行列が続いた。

 寮の前には商店が並び、にぎやかだった。女性用着物などを扱う「むつみや」も約60年前、近隣から移転してきた。現店主長川繁生さん(69)は「洋品店と美容院が4軒ずつあったかな。喫茶店も薬局も、編み物教室も、何でもそろっていた」。出会いを求める男性も多く集まってきたという。

「東芝さんは会社の恩人」 地元中小企業、取引で技術培う

 「会社にとって東芝さんは恩人」。そう語る中小企業経営者も地元にいる。切削加工技術を武器に宇宙分野にも進出している佐藤精機の佐藤慎介社長(64)。東芝姫路との取引で培った技術を生かし、仕事の幅を広げてきた。

 佐藤社長の父貞義さんは東芝姫路の前身に勤務後、金属加工会社などで経験を積んで独立。1955年、鉄工所を創業した。

 当時、貞義さんの同僚で独立する人は多かったという。「コンピューター制御の旋盤なんてない時代。腕や勘、手先の器用さが評価された」(佐藤社長)。かつての上司から貞義さんに声がかかり、東芝姫路との取引が始まった。

 機械加工の下請けだけでも数十社が名を連ね「岩盤のように堅牢(けんろう)な企業城下町」となっていた。上下の結びつきが強い半面、取引先がほぼ東芝姫路という状態から仕事の幅を広げようと、佐藤社長はグローリーや東芝グループなど播磨各地の企業に足しげく通った。新分野に進出し、事業規模を拡大させてきた。

 佐藤社長は混乱が続く東芝の現状に「さみしいが、東芝姫路のものづくりのDNAは、今も地元に生きている」と力を込める。

【連載一覧】
(上)関東の名門が描いた大構想
(下)太子で培った半導体技術

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