永遠に完成しない夢の国なんて馬鹿らしい。
つけっぱなしのテレビをザッピングしていて流れたCMにひとりごちたぼくの言葉をこいつは律儀に覚えていたらしい。ただ、きらきらぴかぴかして眩しい大きい木がちょっと見てみたくなっただけだったのに。クリスマスと年末はすごく混むらしいし、もうそんなの子どもっぽいからやっぱりいいかなって。
神さまの生まれた日なんてどうでもいい、ぼくには関係ない。抜かりなく予約した大きなケーキだけ食べたい。もう一回寝よ、と繋ぎっぱなしの充電コードで時刻を確認したその時だった。突然の振動にびっくりしたまま、寝起きの掠れた声で応える。
「なに? ……こんな朝っぱらから。まだねむいよ」
『おはよう、オーエン。デート、行くぞ!』
「はあ!? 約束してたっけ……忘れてた」
『してない! サプライズ』
「サプライズ……ぼくにだって予定ってものが……」
『また寝て起きたらケーキ取りに行くんだろ? 知ってる。いっしょに食わないか? 俺も小さいの、もう買ってあるよ。チョコレートの。おまえ好きだろ? それまでには帰すからさ、遊びに行こう』
読まれていた。サプライズってこいつ好きそうだもんな。いきなりぼくん家に赤い服と帽子で現れたりしそう。しっとりふわふわのスポンジ、もったりしたピスタチオクリームと白いどろどろの生クリーム、甘ずっぱいいちごの二段サンドのハーモニーを満喫している最中に背の高いサンタクロースに突撃されるよりはまだましかな。
「……それは好き。いいよ。おまえにつき合ってあげる。今どこ?」
『おまえん家の前。道路挟んだとこ。レンタカー』
「……そこ路駐禁止だよ。ちょっとだけぼくんとこに駐めていいよ。余ってるはずだから」
通話終了をタップする。もう来てんのかよ。断られるとか思ってないわけ? 能天気な男だ。免許取りたてのくせにぼくを助手席に乗せる気か。殺さないでよ。ぼくにはケーキを食べるという重要な予定があるから。
見事な冬晴れの日だった。気温が低いぶん、空の青さは冴え冴えとしていて、その下にある夢の国の演出を手伝っている。偽物のお姫さまが偽物の王子さまと楽しく暮らしていることになっている白亜の城がくっきりと見える。
「寒くないか?」
「このくらい平気だよ」
生まれ育った北の国に比べればぜんぜん寒くない。暖房をがんがんに効かせたチープなファミリーカーでは半袖だった騎士さまもキャメルのダッフルコートを羽織っている。生まれたての子鹿の運転かと思いきや意外にも運転が上手かった。前の車の尻に突っ込まず無事に着いた。運動神経の良さと夜の上手さと運転の上手さは相関があるらしい。ぼく調べだからこいつのデータしかないけど。何度も切り替えさずに一発でバックで駐めた騎士さまの真剣な瞳とヘッドレストに回された腕の筋肉にこころが変に動いたのは秘密にしておく。訊いた騎士さまのほうが派手なくしゃみをかました。昨晩こたつで眠ってしまったらしい。馬鹿め。馬鹿だからきっと風邪は引かない。
開園まで三十分もあるのにゲートの前には列ができていた。
「なんで世の中の人間はこんなに早く並ぶわけ?」
「ん? 朝イチで行かないとキャラクターと飯が食えない」
「そんなこと? 適当に済ませればいいのに」
「だから開園になったら走る」
「ええ……めんどくさい。おまえ席取っておいて。ぼくはゆっくり行くからさ。場所、メッセージしておいて」
「だめ。置いていきたくない。転ぶなよ」
マップを見ながら、他の男に連れて行かれたらどうする、と横顔で笑って言われれば悪い気はしなかった。転ばないと思う。初めてだから知らなかった。いつものハイヒールで着てしまった。足が痛むだろうか。硝子の靴を履いたおとぎ話のお姫さまみたいに。
「まぁ、転んだらまた起きればいいだけだ。手は引いてやる。カメラ持ってきたか?」
「うん」
「いい子だ。ねずみと写真撮れるな」
「探して写真撮るの?」
「探せるか。ちゃんとそのための場所があるんだって。どんだけ広いと思ってるんだ」
「……ふぅん。詳しいんだね?」
トーンの下がったぼくの声に気づいた騎士さまが無罪を主張しだす。
「一回きりだって! 高校生のときに好きだった女の子にねだられたんだよ。今回の情報源はネットと大学の同期」
「別にいいよ」
こいつが誰ともつき合ったことがないとか、ぼくが初めてとかそんな甘い夢は見ていない。モテるに決まってる。今はぼくだけの男だから別にいい。周りのカップルの女が隣の男そっちのけで騎士さまをちらちら見ている。いい気分だ。いいでしょう? 欲しくても絶対にあげないよ。ぼくのだ。
「脚冷えないのか? 相変わらず細いな」
こいつはそのことに全く気がついていない。
「女の脚は見られて細くなるの」
「そうなのか」
「おまえはすぐ騙される……嘘だよ。最初から細いから見せられるんだ。見せられる脚をしたやつだけが見せられる」
意地悪く笑う。まだパークに入ってもいないけど最高に気分がいい。風に乗ってフィガロの声のアナウンスが聴こえた気がしたが、たぶん気の所為だ。
「へぇ……お、そろそろだ。楽しもうな」
ゲートを通った瞬間、騎士さまが駆け出そうとする。向かい風に煽られて長い髪がばたばた暴れている。きっちり互い違いに絡まった指がぼくのめんどくさがりを許してくれない。同じ目的なのだろう、若いカップルや親子連れが敷石を蹴ってゆく。重いコートなんか苦にしないで。小石ほどの心配事すらないように軽やかに。
――あんなふうに、こいつと走れたら。
現実離れした装飾、晴れやかな音楽。けだものの皮を被った人間が踊る。ここには暗いものなどなにもない。不幸な子どもはひとりもいない。
夢だ。そんなことは。
だけど今日一日だけ夢をみよう。
「問題は待ち時間があまりにも長いことだ」
無事に朝食にありついたあと、神妙な顔付きで何を言い出すかと思えば。自分から誘っておいて堪え性のない奴だ。この国に来ると待ち時間に喧嘩するというジンクスは眉唾にしてやる。アトラクション前のほの明るい暗がりに紛れてキスをひとつくれてやるだけで、たちまち上機嫌になるのだから単純でかわいい。ヒールのおかげでいつもよりすぐ届く。そのことを察した騎士さまがもっと、とねだってくるのを焦らす。人が見てるだろうが。今はだめ。
浮かれたけだものの耳を付けた物足りなげな顔を引っ込めた男はばんばん話題を降ってくる。ぼくにも白いねずみの耳が付いてるけど。ぼくが適当に相槌を打っていてもいつものことだからまったく気に留めない。本当にうざったくてかわいい奴。年下も悪くない。ぼくを退屈させないところは嫌いじゃない。砂糖を煮詰めたどろどろでがちがちに固められたポップコーンは甘くておいしいし。騎士さまの首に着けたリードにつながったバケツから勝手に食べる。ひとつつまんで差し出してやると、なんの疑いもなく口を開けるのがおかしいからやっぱり食べさせてやらない。勝手に自分で食えよ。手がべたべたになってもお揃いだから構わない。
さっきのアトラクションで水しぶきがちょっと飛んだだけの服は魔法みたいにあっという間にペアルックに変わってしまった。オーバーサイズな浮かれたプリントの総柄パーカーに、ぼくだけ白いもこもこのボアジャケットとそのままのスカート。コーディネートなんて言葉はなくなった。せっかくおしゃれしたのにもったいないけど、これも悪くないとか思ってしまうくらいにはぼくも浮かれている。騎士さまを待たせてばっちりキメた化粧は落ちていないし、丁寧に編み込んだねこっ毛もいい子にしている。ぼくが実は楽しんでいることはたぶんバレている。ハイヒールが歩きやすいスニーカーに変わっても魔法はまだ解けない。楽しい。ショップの混雑がものすごかったけれど。毎日バレンタインデーの催事場みたいに混んでいるんだろうか。ちゃちなボールペンとかキーホルダーとか細々した物を手に取ってみても、なんとなくすぐに棚に返してしまった。欲しいかなと思うけど、たぶん手に入った途端に興味がなくなってしまう気がする。大概の物はそうだ。コンフェクショナリーで買ったチェス盤みたいなアイスボックスクッキーとクランチチョコレートの缶は食べたあと記念に飾っておこうかな。
「ぬいぐるみは? 記念買わないか?」
騎士さまの申し出は、自分で買うからいい、と断った。ぬいぐるみを抱いて寝るような歳でもないし。
「俺に買わせてくれ」
あまりにも情けなげに騎士さまがごねるから、とうとうぼくが根負けした。
騎士さまが持っていたときには普通だと思ったアルビノみたいに色素のないぬいぐるみは、ぼくが持つと妙に大きく感じた。買ってもらったぼくよりも騎士さまのほうがうれしそうだから、こころがさらに変になる。もうこれ以上ぼくを振り回さないでほしい。
朝からいるのに、あっという間に日が落ちた。あ、ぼくのケーキが、と一瞬歯噛みしそうになったけれど楽しいからいいや。お得意さまだから一日くらい遅れても大目に見てもらえる。騎士さまん家の冷蔵庫にチョコレートケーキあるって言ってたし。ほとんどぼくの胃に収まる。砂糖の雪に降られたチョコレートチュロスもおいしかった。暗くなるとイルミネーションが輝き出す。夢の王国にはさみしいひとりきりの夜のなどない。シンデレラのお城が本物みたいに幻想的に浮かび上がる。作り物の山が赤く輝く。ぼくは写真を撮るのも忘れて、夢でも見ているようにいつまでもいつまでも見ていた。
ネットで見た赤と黄色の花で土台が飾られた巨大クリスマスツリーは今年はなかった。混雑を避けるためらしい。残念だけど仕方がないか。目的は果たせなかったけどぼくは満足したからいいや。騎士さまは「下調べが足りなくてすまない」と、しおらしく謝っていたけど本当にぜんぜん気にしてない。代わりにぼくの手元には真っ白なぬいぐるみと小さな硝子のツリーが残った。ぬいぐるみの目をぼくたちみたいに塗ろうかな。借り物のにおいがするのに、安心したような雰囲気が漂う車内でぬいぐるみを弄びながらそうひらめく。どちらを赤色にしようかな。
ぼくのカメラにはあまり写真は残らなかった。たぶん騎士さまの家に着いたら怒涛の勢いでぼくの横顔とか浮かれまくったツーショットが送られてくる。自分の写真よりはおまえのワンショットがほしいけど目に焼き付けておいた。
こっそりクリスマスカードを投函したんだ。ポストまであるなんて知らなかった。「来年は見ようね」って小さく書いた。ぼくからのサプライズだよ。