旧ムルシャイ。愛憎。
眠りにつく前に首を絞めて、そのまま笑ってくれたら永遠に素晴らしい夢を見続けることが出来るような気がする。永遠に。 毎朝毎朝目覚めることに、私は心底疲れてしまった、と告白すれば彼は怒るだろうか。馬鹿じゃないの、とか言うんでしょうか。では笑って手を伸ばして彼の袖を引いたらどんな顔をするのだろう、泣いて縋れば彼は私をどうにかしてくれるのだろうか。 毎朝毎夜、毎日毎日、世界の、否、むしろ私自身の終わりを夢見ている。
それも飛びっ切りに甘い甘い終わり方を。
「もう一歩。そう、…そう」
「何、独り言? 寂しい脳内だね」
「いいえ、冬が」
「うん?」
「冬がここまで来てるんです」
手で境目を指差し、にこりと笑って振り向くと彼は怪訝そうな顔をした。
馬鹿なんじゃないの? とため息ついて、相変わらずの麗しい目元が涼しく流れる。
それをなんとなく寂しく思って、ああやっぱり冬が近いんだなと改めて思った。
吐く息の温かさで手を温めて空を見上げる。
やけに透き通って高い青空。
青、といってもびい玉に透かしたような薄い青空で、でもどちらかというとそれはまるで金魚鉢の中身のようで、空に目を凝らして赤い赤い金魚を探してみたけれどそれは結局無駄な作業だった。
ムルは他からは見えないように木の幹の陰に隠れるように座って私を手招く。
「シャイロック」
彼は、今までに一体何度、こうして私を呼んだのだろう。
「何です?」
「こっちに」
「はいはい」
「手を」
「手?」
「そう、両手を出して」
なんだろうと思って雑木林の中、両手を揃えて差し出すと彼は懐から小さな巾着袋を取り出して、その口を長い指でふわりと緩める。
そうして私の手のひらの上で、それをひっくり返した。
ざらざらと音が鳴る。
「あげるよ」
「はい?」
「綺麗だろう?」
「これ……」
「星、だよ」
「どうしたんですか?」
「夜空から取って来たのさ」
両手に零れそうなほど沢山の桃色白色、黄色に水色。それらは色とりどりの小さな粒で、とても可愛らしくて目を見張る。
そう、それはどう見ても。
「シュガーですね」
「星だよ」
「シュガーじゃないですか」
「星だといってるだろう」
彼の言葉に呆れて言葉もない。
相変わらず自己満足に彩られた笑顔でこの上なく気分が良さそうだった。
しかし私は逆に身動きが出来なくなる。
何せ両手に溢れんばかりのシュガーに両手が塞がってしまってはどうしようもない。
零れそうだから動くこともままならなくてその場に立ち尽くしているとムルはいよいよ愉快そうに笑い出した。
「いいねえ、夜までそうしていなよ」
「ムル、一体どうしたんです」
「夜になったら、空に散りばめればいい」
「いつもですけれど頭は大丈夫ですか?」
「きみは、」
ムルは私の手の中の星……もといシュガーを一粒摘んで口の中に放り込んだ。
「最近空ばかり見る」
「そうですか?」
「そうだよ」
「そう、ですか……」
「くだらない事考えてるんだろう、どうせ」
「いいえ、くだらなくなんてありません。ちっとも」
「じゃあ言ってみなよ」
「今更その手口には乗りませんから」
両手にはかわいらしいシュガーが山盛り。彼はこれらを星だという。夜空から盗ってきたという。
想像する。
彼があの派手で優美な箒で空にのぼり、分厚い雲を選んでそれに腰掛けて、私の為にひとつひとつ馬鹿丁寧に摘み取る姿を。
可愛らしいことこの上ない。冗談抜きでお腹を抱えて笑う事ができそうだ。
だけど両手いっぱいの普通のシュガーを「星だ」なんて言って私に山ほど与えるという事実のほうが笑えるわけで。
そのくだらなさに負けて白状した。
「一生分の夜が欲しいんです」
「一生分の夜? くだらない。昼があるから夜に愛しの厄災が際立つのさ」
「くだらないなんて貴方に言われたくありません」
「真剣? だとしたらもう救い様がない」
「貴方と同じで? 私もそう思ってたんですけど」
「ふむ」
「意外に、解決策を持ってきたのは……貴方」
「え?」
「貴方です」
そっと近寄って、座っている彼の頭の上で手を、ぱっと。
「うわ」
ぱらぱらと星が零れた。流れ星だ。早く早く、願い事を三回唱えて。
「ちょっ……シャイロック!! 何す、」
「ねぇ、ムル」
「何?」
「貴方が空になってくれれば無事解決すると思いません?」
泣きそうな笑顔だったのかもしれない。
彼が私を抱き寄せたから、そう思った。
滅多にしない。
こんなこと、普通の精神状態なら絶対にしないけれど彼に抱きついて、二度と離れないってくらいにしがみ付いて泣き言を言ってみる。
彼は普通の人間と寸分変わらぬ温かさで、強く強く私を抱きしめて私の泣き言を聞く。
変な構図だな、と頭の片隅は変に冷静だったけれど、私の理性はとうに私の心の内から勘当されていて口からはぽろりぽろりとさっきのシュガーのように言葉が零れて。
「でも、昼は駄目です。金魚がうるさいので。夜限定で、ムル、貴方、私の夜空に」
「つまり死にたい、って?」
「まさか。ただ、眠りにつきたいだけですよ」
「いっしょだよ」
「ふふ」
「まるで子どもだね。我儘だ」
「だって貴方がもう大人になってしまったから」
「そりゃいつまででも子どものままではいられないからね」
「今度は私の番です。ねぇ、ムル?」
「何だい」
「私だけの夜空になってください」
「回りくどいのは嫌いだよ」
「殺してください」
「嫌だよ」
「即答ですか」
「回りくどいのは嫌いなんだ」
世界で一番重いようなため息を吐いて彼は私を押し戻そうとして、だけど私は離れたくなくてしがみ付いたまま懇願する。
あぁ理性は本当に役立たず。
誰か、今すぐ終わらせてくれればいいのに。
「シャイロック」
「貴方が良いんです。貴方じゃないと嫌なんです」
「知らない。俺は絶対にお断りだね」
「どうして」
「言わせる気かい?」
「だって貴方がこの世でたったひとり愛している私の頼みなんですよ?」
「何その自惚れ。自意識過剰にもほどがある」
「じゃあ何です、まさか私のひとり遊びなんですか?」
「シャイロック、あのねぇ……」
「……最低……」
「……おい……」
「……………」
「……泣いてるの?」
あぁ誰か、
誰か今すぐ私を終わらせて。
夜が今すぐ来ればいい。
私の心臓を刳りぬけばいい。
もう嫌です。どうしてこんなに緩い涙腺。
今まで泣いたことなど無かったのに。
辛い事など何ひとつ、
彼に逢う前は、なかったのに。
「……全くもう! きみはどうしてそんなにどうしようもないんだろうね」
「…………」
「泣き落としなんて効かないよ。ほら、離れて。泣き顔もそそるのだけれど」
「――っ!!」
無理やり引き剥がされて、泣いているのを見られたくなくてとっさに顔を覆ったらその手を彼に掴まれてまた引き剥がされる。
ぼろぼろと零れて頬を伝った涙が私の手のひらを濡らして私の手を握った彼の手を伝った。
目がすーすーして視界がこれでもかと言うほど滲んで彼がぐにゃぐにゃになって、瞬きをする毎に涙はいくつも零れてそれでも彼は許してくれなくて、その上あまりに強く私の手を握るものだから私の血が、毒のような心の血が彼に触れてしまわないかと心配で心配で。
「ほら、俺の目を見てシャイロック」
「……っ」
「泣き虫なお嬢さん。今だけは赦してやるから泣け。思いっ切り」
「う……ぇぇ」
「……どうせ泣くなら可愛く泣きなよ……」
目覚めが怖い。冬はどうしても寒くて駄目だ。
寒い朝は無意識に体温を探してしまって、そうして覚醒してから孤独に襲われて、それは急激に冷やされる思考回路。夢は結局醒めてしまうという残酷な現実。
貴方がいない。目覚めた世界に貴方がいない。
ならば目覚めなど必要ない。
そう考えたら途端に永遠の眠りが欲しくなってしまった。
少し悩んで、「それならば、彼に眠らせてもらえばいい」という結論にたどり着く。
最期の最後まで彼を感じることができるのなら夢の中でも彼を感じていられるはずだ。
だって生死の境目なんてほとんどないに等しい。
そう、秋と冬の区別が曖昧であるように、眠りと目覚めの境界線だって曖昧だ。
彼が与えてくれる夢ならば、それが苦痛であれ憎しみであれなんだって良かった。
自分に一番近しいのが彼だと、彼にいちばん近い存在なのが自分だと立証できるだけの事実さえあれば他にはもう何も。
それだけで、私が幸せで居られる条件がそろうのだ。
「そりゃきみの性分だから仕方ないか」
「ふ……っ」
「弱くなっちゃってまあ。冬到来、……なるほどねえ」
「……っ、ム、ル、」
「何?」
「こっそり……入れてあげますから、」
「どこに」
「私の寝室」
「……本気かい?」
「今夜、いっしょに寝てください」
「……殺してあげないよ?」
「朝、までで、いいですからっ」
「はいはいはいはい。わかったわかった」
「はい」
困ったような顔をして、ムルは可笑しそうに笑って、もう一度私を抱き寄せて背中と頭を撫でてきた。
その動作になんだかまた涙腺が緩んで涙はしばらく止まらなかった。
あぁ、ひとつの願いの為に、私は一体いくつの星を使ったのだろう。
彼の肩を散々涙で塗らして足元に散らばるは色とりどりの星々。
一夜限りでもいい。
それは彼が私の夜空になってくれるという願いを叶えた流れ星。