春:制作の現場に力を持たせすぎると、弊害も出てきます。アーティスト志向が強すぎて、自己満足に陥ってしまいがちなことも歴史が示しています。「用心棒」や「椿三十郎」で、黒澤プロダクションとして制作に参画した黒澤明がそうだったように、アーティストが優れた作品をつくるためには最低限の制約が必要です。しかし、その制約が厳し過ぎると士気が低下する。
そこで必要になってくるのが、経営側のコントロールです。現場の「すごい作品をつくってやろうじゃないか」というエネルギーをうまく利用して、観客が見たがっている作品に昇華させ、「利益を生む商品」へと導くルートをつくることが、経営者の手腕ではないでしょうか。
そのためには経営側が信頼できる、黒澤監督のような才能あるスタッフが必要ですね。
春:そこが最重要です。しかし、今の日本映画界には才能あるスタッフを見つけ出す人が少ないし、才能を伸ばす場所も非常に少ない。大ヒットする超大作をつくる才能があっても、その才能を見抜いて、仕事を任せる場がないと、傑作は生まれません。チャンスを与えられないと、天才だって芽が出ないままくすぶってしまいます。
必要なのは教育ではない
才能を育てる学校のようなものが必要なのでしょうか。
春:いえ、学校ではありません。黒澤明や小津安二郎のような名監督だって、映画学校の教育を受けたわけではない。私の母校の日本大学芸術学部のOBを見ても、大学のカリキュラムを全うした人が成功しているとは限りません。学校をさぼっていたような人でも成功しています。
才能を育むのは教育システムではない。必要なのはトライアンドエラーできる環境です。今の日本映画界に欠けているのはそこです。
トライアンドエラーできる環境があれば、日本映画界は第二の「用心棒」や「仁義なき戦い」をつくることができますか。
春:もう一つ、つくり手が「どうしたら観客が喜ぶだろう」という意識を持つことが必要です。忘れてはいけないのは、その観客のなかにつくり手自身もいるという点です。
自分自身が面白いと思える作品を観客に届ける。採算性を意識しすぎると、ついついこの意識を失いがちです。妙にマーケティング調査のデータばかり気にして、有名タレントを配役するといった安直な方策で観客の期待に応えようとしてしまう。ツイッターやブログの評価を気にし過ぎて、自分自身が面白いと思えない作品をつくる。観客だってばかじゃない。そんなつくり手の意識くらい見抜けます。
「自分も、観客も楽しめる」という意識が欠如している限り、日本映画界は1950~60年代の黄金期には戻れない…。
黄金期は帰らない。それでも夢は抱ける
春:50~60年代にはどうしたって戻れません。あの時代はあまりに良過ぎたのです。この点を認識しないと、いつまでたっても「昔は良かったね」と後ろ向きになってしまいます。もうあの頃には戻れない。でも、今は今なりに幸せを考えればいいのではないでしょうか。
今できる最大限の、幸せにする努力をするしかない。大手映画会社なら、制作の現場の労働環境を改善しようと考える。制作の現場は、少しでも資金を集められる状況をつくろうと努力する。
そういった行動を取っている人は実際にいるのでしょうか。
春:例えば、一本の映画をどこまで少ない人間で撮影できるか、どこまでコストを下げられるか、といった実験をしている若手もいます。「観客が面白いと思える作品を本気でつくる」という意識を持って、少しずつでも行動する。そうすれば黄金期には戻れなくても、黄金期から学び、これからの日本映画界をより良くしていくことはできるはずです。『仁義なき日本沈没』では、そのためのヒントを書いたつもりです。「夢がない」と言ったら終わりでしょう。だから私は、これからも夢を訴え続けます。
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