:そう言っていいでしょう。当時の岡田茂社長が、若手の企画部員たちと話し合い、新しいアイデアをどんどん採用していました。また、東映は良い意味でインテリではないんです。「こんなものつくりたくない」という我欲があまりない。売れるならどんな映画でもつくる職人気質がありました。そこがインテリだった東宝との違いでもあります。だから、暴力や性描写を嫌い、ファミリー層を対象にしていた東宝が逃がしていた観客をつかむことができたのです。

 その観客層とは、ブルーカラーであり、独身の若者でした。60年代から70年代前半にかけて、観客層の中心が20代の若者に変わっていきました。そこを東映は逃さなかった。

イノベーションを繰り返すベンチャー企業のようですね。

東映のイメージは世代でまったく異なる

:ドラスチックに変化するという点では、共通しているかもしれません。例えば色々な世代に、東映にどんなイメージを抱いているか尋ねてみると面白いと思いますよ。世代によって全然違いますから。

 70歳前後の人なら中村錦之助のヒロイズムでしょうし、60歳前後なら鶴田浩二に高倉健の任侠路線。50歳前後なら実録路線やエログロ路線を思い浮かべるのではないでしょうか。一口に東映と言っても、年代によって作風が全然違う。市場に合わせて変えていった結果でしょう。

映画の作風と同様に、経営も劇的に変わりますね。

:岡田社長が早くから多角経営に取り組みました。ボーリング場に始まり、ホテル経営や不動産業など幅広く手掛けます。幸か不幸か、後に映画産業が先細っていく過程で、こうした関連会社に余剰人員を再配置することができました。よく知られているのは、75年にオープンした京都の東映太秦映画村ですね。

映画村にも、映画制作にかかわった人が働いているのですか。

:働いています。東映は50~60年代に東宝以上の量産体制を築いていましたから、70年代に観客数が落ち込んで制作本数が減ると、撮影所の稼働率は下がり、人は余りました。仕事のない大部屋役者や撮影スタッフを映画村に出向させています。映画村の入場料で収益を得て、余剰人員の受け皿にもできた。オープン後1年で延べ約200万人が訪れましたから、入場料が撮影所を、そして東映の制作部門を支えました。

 岡田社長は、撮影所が東映の土台であり、つぶしてはならないと考えていました。業態を変えても撮影所を維持した映画村はある意味、時代に合わせて経営を変えていった東映らしさの象徴かもしれません。

東宝は東映のように、企業の再構築ができなかったのでしょうか。

:再構築しましたよ。ただし、映画制作という本業からはどんどん離れていきました。

次ページ 制作側に「思い」があった「仁義なき戦い」と「日本沈没」