このくだりには驚かされました。59年には全邦画収入の3分の1を東映が稼ぐわけですよね。そこまでの時代劇ブームがあったことも知らなかったし、東映がそこまで力を持ったことにもびっくりしました。
春:東宝に劣るぜい弱な配給ルートを、地方の独立系映画館を押さえることで克服していったり、企業として努力した結果です。
1本の制作費で3部作を撮影して経費を削減したけれど、同時に出演者もスタッフも過酷な労働環境の中で疲弊していったというくだりは、一企業の社員として他人事に思えませんでした。
春:食べて行くのに必死だったんですよ。合併前の太泉映画スタジオ時代の話ですが、当時の進行主任、後に社長になる岡田茂が、助監督の沢島忠にボーナスとして切り餅を渡したというひどいエピソードさえあります。現場でやっていることは泥まみれなんです。
撮影用の石臼を使ってスタッフが餅をついた、と書かれてました。笑っていいんだか悪いんだか…。
春:こんな状況でも映画をつくりたかったんでしょうね。逃げ出すスタッフはそれほどいなかったそうです。好きなんですよね。映画制作の現場を体験すると病みつきになります。スタッフとキャストが一丸となって映画をつくっている状況が一番いい。これは体験的にも分かります。
対東映の切り札だった「用心棒」
時代劇ブームに乗って大逆転、破竹の勢いだった東映に、東宝は黒澤明監督の「用心棒」(61年)をぶつけて来ました。ここは本書のハイライトの一つですね。描写も細かいし、臨場感たっぷりです。
春:これが東宝と東映の最大の対決だったからです。企画段階から、「用心棒」の対決を描くことを決めていました。
東映は54年からヒット作を連発。60年当時、興行収入の首位もシェアも東映に奪われた東宝にとって、まさに背水の陣だった。
春:東宝は、大作主義で勝負をかけます。
54年に、2億円以上もの制作費をかけた「七人の侍」や、特撮を駆使した「ゴジラ」が生まれた背景には、こうした「対東映」という東宝の姿勢があったんですね。それが一度は奏功する。
春:そうです。都市部の豪華な映画館で大作を上映して、ひとまず成功します。ところが、対東映を意識し過ぎたのか、うまくいかなくなるんです。黒澤明監督がロシア文学を映画化した「どん底」(57年)や、日本神話を映像化した「日本誕生」(59年)など、難しかったり、ちょっと毛色の変わったりした映画が多かったことも災いしたんでしょう。興行的に成功とはいえなかった。
だったら東映と同じ娯楽でいこう、東映の伝統的な時代劇をぶっ壊してやろう。こんな風に東宝が「対東映」対策として打ち出したのが、「用心棒」であり「椿三十郎」(62年)だったわけです。
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