なるほど。しかし、映画産業を描くうえで、「仁義なき戦い」を制作した東映と、「日本沈没」を制作した東宝との対立軸を中心にしたのはなぜでしょうか。

東宝と東映を描けば昭和史になる

:東宝と東映のつばぜり合いを描くと、ちょっとした昭和史になると思ったんです。この2社は絶えず、互いを意識し、首位争いを続けます。浮沈も激しい。経営的な面だけでなく、作風まで時代と共に大きく移ろう。そこに歴史のダイナミズムやエンタテインメント性を感じました。

 例えば、安定していた松竹はなかなか面白く描けません。興行的にはコンスタントにヒット作を出して、常に二番手。60年代に前衛的な「松竹ヌーヴェルバーグ」の台頭に一役買った大島渚のような異分子が現れるにせよ、作品も「寅さん」シリーズや「釣りバカ日誌」シリーズが代表する、あの牧歌的な雰囲気を守り続けます。大映は当初からトップを目指していません。やはりトップ争いを描かなければ、映画史のダイナミズムは描けないと思いました。

東宝は、インテリが多い自由主義の牙城。これに対して東映は、わき目も振らずヒット作づくりに打ち込む無頼のように描いていますね。

:終戦直後の東宝と東映は、その後トップ争いをするのが不思議になるくらい差がありました。一言で言えば東宝は「高級」。一等地に映画館を抱えていたし、東京・世田谷区にある砧撮影所も戦火を免れました。

 そして何より親会社の力の入れ方が違います。阪急グループの総帥だった小林一三が、東京進出に当たって、有楽町界隈を一大興行街にするべく、映画会社への投資も惜しまなかった。「百館主義」をうたって、都市部の一等地に豪華な映画館をたくさん建設しました。新宿歌舞伎町に新宿プラザ劇場という映画館がありましたよね。

知っています。実は、77年に米国映画の「未知との遭遇」を新宿プラザで観たのが、自分の最初の映画体験です。

:新宿プラザには赤いカーペットが敷かれて、天井には豪華なシャンデリアが吊されていました。この高級感が東宝です。場所も歌舞伎町のど真ん中でしょう。同じ新宿でも東映は明治通りを越えた辺りにあります。常に場末。町の外れなんです。はなから条件が悪い。

東映、泥臭さで勝利を呼び込む

50年前後の東映については、「夢はあったが、金はなかった」という一節がありますね。当時の東映の貧困ぶりも強烈な印象を残します。51年に東横映画、東京映画配給、太泉映画(おおいずみえいが)という弱小3社が合併した直後の東映は、「負債総額十億円超。欠損金は8億円、回収不能金は5億を数えた」と。

:文字通り崖っぷちのスタートだったんですよ。

当時の大川博社長がまず取り組んだのが財政健全化。かけソバ一杯にも領収書を求めたり、神戸銀行からの東映京都への製作資金融資のバーターとして、神戸銀行の頭取が主演する映画「神戸銀次郎」を制作したり、涙ぐましい努力を続けますね。

:だから東映には、売れる商品をつくるしか残された道がなかったんです。客のニーズを第一に考える。作家性を排して、いかにスターをきれいに見せるか、悪役をぶった切らせるかを考えて時代劇を撮る。子どもが「映画館に行きたい」と言えば親もついて来るだろうと、54年に子ども向けの「新諸国物語 笛吹童子」をつくります。本当に館内の扉か観客がはみ出るほどの大ヒットだったそうです。そして一大時代劇ブームに乗るわけです。

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