TYPE-MOONの「魔法」(7):蒼崎青子は何を求めてどこへ行くのか
筆者-Townmemory 初稿-2022年4月2日
今回は蒼崎青子が何者なのかです。第五魔法の内容も修正します。
本稿はTYPE-MOON作品の世界観に設定されている「魔法」に関する仮説です。七回目です。この回から唐突に読み始める方への配慮はしておりませんので、第一回から順繰りにお読み下さい。
これまでの記事は、こちら。
TYPE-MOONの「魔法」(1):無の否定の正体
TYPE-MOONの「魔法」(2):初期三魔法は循環する
TYPE-MOONの「魔法」(3):第四魔法はなぜ消失するのか
TYPE-MOONの「魔法」(4):第五の継承者はなぜ青子なのか
TYPE-MOONの「魔法」(5):第六法という人類滅亡プログラム
TYPE-MOONの「魔法」(6):「第六法」と「第六魔法」という双子
●人類の課題は二つ
前回と前々回で、
「TYPE-MOON世界観においては、人類はいずれ絶対に滅ぶ」
という話をしました。
アトラス院が計算でこの結論をはじきだしていて、今のところ回避方法はない。
そういう世界において、人間が直面する課題は、つきつめれば二つ。
ひとつは、
「それでもなんとかして、滅びを避けることはできないか」
もうひとつは、
「滅びを避けることはできないと決まっている世界で、どう生きるか」
●なぜ人類は滅ぶのか
奈須きのこさんが「人類は滅ぶ」という世界観を持つにいたったことについては、「90年代半ば」という時代が関係していそうだ。
たぶんこの時代、奈須きのこさんは二十代前半くらいの多感な年頃。TYPE-MOON世界観の基礎ができあがったのはおそらくこの時期。
(小説版『魔法使いの夜』が執筆されたのが1996年とされている)
90年代半ばは極めて世紀末的時代。このころにはすでに環境問題が全人類的マターとなっていたが、同時に「ただまあ、打つ手はないです」という結論もはっきり見えてきた。
96年にはタヒチでフランスが核実験。国際的に核軍縮が議論されてる中での強行であり、「人類はけっきょく核兵器を手放すことは不可能なんだな」という現実がほぼ決定的になりました。
国内では95年に阪神大震災と地下鉄サリン事件がありました。奈須きのこさんくらい幻の世界に対する感受性が高ければ(たぶん国内随一)、あの光景を日本全土に広げたものや、全世界に広げたものを想像しないほうが不思議というもの。
あの時代に感受性が高い青年時代を過ごせば、
「ああ、人間ってのはどんづまりに来ているんだな。ここから滅んでいくんだな」
という観念には、容易にたどりつく。
だから彼は、「避け得ない人類の滅び」というものを中心にすえた世界観を幻視する。
そういったことを端的に表しているのが、たとえばゲーティアの「現行の人類には、先がない」という認知であったりする。
TYPE-MOON世界には、人類滅亡の要因が、たっぷり用意されています。
朱い月と二十七祖もそうだし、人類全員を噛み殺す力を備えた抑止力の獣プライミッツ・マーダーもそうです。冬木の聖杯からあふれ出した泥が世界を飲み込むかもしれないし、人類悪のどれが力を解放しても人類は滅ぶ(たぶん)。
だけど、「かわいそうな人類は何の罪もないのに滅ぼされてしまう」のかというと、全然そんな感じはしません。
むしろ、「人類は人類みずからの所業によって滅ぶのだが、その滅びの象徴としてこれらの滅亡要因が置かれている」くらいに考えるほうがすっきりする。
「ゴジラは奇形的に進歩してしまった人類の文明の象徴であり、ゴジラが人間を襲うというのは人類の文明が人類を滅ぼしにかかっているのである」
みたいな話としたほうが受け取りやすい。
ようするに人間は、環境破壊とか核戦争とかバイオハザードとか資源の枯渇とかで滅ぶのである(マナの枯渇した未来、という設定の作品がいくつかあるのは資源枯渇の喩えだと思う)。
人間は、みずから築いた文明の帰結として滅ぶ。
……のだけど、そういう人間の行く末を見たさまざまな超越者たちが、
「ゆっくり滅んでいくのは苦しかろうから、せめて私が一瞬で全滅させてやろう」
みたいなことをいいだして、その手前でスパッと滅んだりする。
●笠井潔の「大量死理論」
……あのちょっと余談。
とくに『月姫』あたりで顕著ですが、奈須きのこさんの作品には、「自分ひとりで死ぬより誰かに殺されて死にたい」とか「あの人を愛しているから殺してしまいたい」という観念がちょくちょく出てきます。
ふと思ったのですがこれって、笠井潔さんの「大量死理論」からダイレクトに影響を受けているんじゃないか。
「なぜミステリ小説がこんなにも読まれ、書かれるのか」について、笠井潔さんはものすごく独自的な理論を提唱されています。
私が理解した範囲でごく簡潔に説明すると、
「世界大戦を経て、人類は、無意味な大量死というものをいやというほど経験した」
「人間の精神は、意味のない大量の死に耐えられるようにはできていない」
「無意味な大量死を経験した人間は、《意味のある死》を求めてミステリ小説を読み、または書くのではないか」
「ミステリ小説の被害者は、殺されるべき理由があって殺される。しかも最大級に劇的にだ」
「これは意味ある華々しい死であり、特権的に扱われる死だ。それが無意味な大量死に傷ついた人間の心を慰撫するのである」
だから例えば『月姫』は、殺人鬼が主人公であり、主人公がヒロインを殺害するところから物語がはじまり、生き返ったヒロインと主人公が恋愛関係になる。恋愛的な関係になったのにその後また二人で殺し合ったりする。「殺す殺されるという関係が読者や作者を慰撫する」というセンスがありそうだ。
そして、それと同じ文脈において。
「人類が、人類だけの理由で大量に死んで滅んでいくなんて耐えられない」
「せめて、人類以外の超越者の手にかかって滅んでいきたい」
というようなことを、奈須きのこさんは願ったかもしれない。
(つまり人類はまるごと、至高の殺人者による、華麗で芸術的な殺人事件の被害者になる……。この上ない特権的な死に方を与えられる)
だから、「人類はほっといても勝手に滅んでいくが、そのまえに超越者が人類をほろぼしてくれる」という世界を、彼は幻視したのではないか。
余談終わり。話を戻す。
蒼崎青子はゼルレッチとは知り合い同士。能力的にもちょっと似ている。彼女は「人類は近い将来に滅びます」ということを知ることができる立場にありそうだ。
どうやら人類には未来がないよね、という身も蓋もない現実を認知した魔法使い蒼崎青子は、何を考え、どうするのか。
自分は人知も自然法則も超越した「魔法」という力を持っている。そんな自分は何かをしなきゃいけないんじゃないのか。
●進む文明と、一生変わらない有珠
「4gamer」のインタビューで、奈須きのこさんはすごく興味深いことをいっている。
例によって抜き出します。
・『魔法使いの夜』のテーマは「都市と森」「進む文明」。
・久遠寺有珠は一生変わらない。
・久遠寺有珠は中世の文明の代表。
・蒼崎青子は新しいものをどんどん取り入れていく。
・蒼崎青子は消費文明の代表。
・山にいるころには凄い存在だった静希草十郎は、(街に出て)文明に触れたことで弱くなる。
さらにシュリンクする。
久遠寺有珠=森・中世・無変化
蒼崎青子=都市・消費社会・変化
静希草十郎=森から都市への移行・強い存在から弱い存在への移行
●文明が人間を弱くする
……私が理解した範囲でいうと、『魔法使いの夜』は、「久遠寺有珠が代表しているもの」と「蒼崎青子が代表しているもの」の対立の物語なんだ、と。
その対立を一言で言うと、「非文明の世界」と「消費社会文明」の対立である。
前述したとおり、奈須きのこさんは、現代の消費社会文明に批判的な視線を向けていると推定できます。そういう彼は、「人類はいずれ必ず滅ぶ」という設定をどまんなかにすえた世界観をつくりあげました。
「山育ちの静希草十郎は文明に触れて弱くなる」は重要なポイントだと考えます。
TYPE-MOON世界観には「山の中で育った人間は超人レベルに強い」という極端な設定があります。
七夜志貴、葛木宗一郎、静希草十郎が代表例です。
そんな静希草十郎が「文明に触れると弱くなる」というのですから、ここでいう「山」というのは、
「文明から隔絶した領域」
の意味だということになります。
たぶんこういうことだと思います。人類がまだ文明を持っていなかったころ、人間を守ってくれるものは人間自身しかなかった。
だから人間が生き延びるには、人間自身が強くなるしかなかった。
そのころ生き延びていた人間は、今の人間よりも、存在自体として、ずっと強力であった。
だけども文明が発生してきます。人間は火で自分を守り、金属で自分を守り、木の柵や城壁で自分を守るようになった。農工業や商業で飢えから自分を守るようになり、医術で病から身を守るようになった。
人間自身が強くならなくても、生き延びられるようになった。
強くなくても生き延びられる状況を手に入れて、人間は際限なく弱くなっていった。文明圏という大きな単位では、人間は際限なく強くなっていったが、反比例して個体としての人間は際限なく弱体化していった。
そのようにして「際限なく肥大化した文明圏」が、個々としての人類を襲うから、「人類は早晩、滅びる」わけでしょう。
「山育ちの静希草十郎が文明に触れ、生き物として堕落し、弱体化していく」
というのは、そうした人類のありかたの縮図として、彼が物語内に配置されているから……と読むことができます。
ここに「人類は早晩、必ず滅ぶ」という世界がある。
その中に、「中世(=非消費文明)の代表」と、「現代(=消費文明)の代表」が置かれている。
そして、そのどちら側にも振れることができる(非文明世界育ちで、都市生活をしている)少年がいる。
『魔法使いの夜』は、そういうセッティングになっています。
「文明の帰結として人類は滅ぶ」という究極のテーマに直面したとき、非文明側の代表・久遠寺有珠と、消費文明側の代表・蒼崎青子と、そのどちら側にも与することができる静希草十郎は、何を考え、どうするのか。
●人類は静止すべきなのか
久遠寺有珠はいわゆる文明の利器を苦手としている、という表現がされています。青子が家にテレビを持ち込んだらすごく嫌がったという話がありました。
『MELTY BLOOD:TYPE LUMINA』には、「青子が有珠に連絡を取ろうとしたが、有珠がIT機器を嫌っているためメールができない」というシーンがあります。
有珠の使い魔プロイキッシャーは、文明圏では著しく性能がそがれる、という設定もありました。
おそらく久遠寺有珠というキャラクターのコンセプトは「アンチ文明」だ。
『Character material』には、こういう凄いことが書いてあります。
奈須きのこさんが「一生変わらない」存在だとした久遠寺有珠。
そんな久遠寺有珠が、「文明の帰結による避け得ない滅亡」という究極のテーマに対して出す答えは、
「文明の後退、もしくは静止」
だと思うのです。
「文明の暴走によって人類は滅ぶ。ならば、人類は文明を手放すべきである」
「人類は、中世くらいの文明レベルに戻り、そこで成長を止めるべきだ」
「そうすることで、滅びを遠ざけることができるはずだ」
久遠寺有珠は、そのような方向の答えを良しとしそうだ。
プロイキッシャーはすべて童話がモチーフになっています。童話は子供のためのもの。久遠寺有珠は、
「人類は、幼児に戻るべきだ」
「幼児に戻って、そこから歳を取らないようにすべきだ」
そういう思想の代表として、この物語に存在していそうだと考えます。
静希草十郎で喩えれば、「草十郎は都市を捨てて山に帰るべきだ」。
この方向性で人類を救おうとしている人物が、TYPE-MOON世界には他にもいます。
『MELTY BLOOD 路地裏ナイトメア』(桐島たける他)に登場するシアリム・エルトナム・レイアトラシアは、「滅びを回避する方法が見つかるまで、世界中の時間を停止しましょう」という計画を立てていました。
『MELTY BLOOD Actress Again』の黒幕・オシリスの砂は、「人類全員をいったん静止し、データに変換し、メモリに保存しましょう」という形での問題解決を実行しようとしました。
わりあい多くの有力者たちが、この方向の解決(後退か静止)を考えているっぽい。
さて、久遠寺有珠のとなりには蒼崎青子という友人がいます。
本稿(この一連の投稿)での説にしたがうなら、蒼崎青子は「原因と結果のあいだを結んでいる関係を操作できる」という魔法使いです。
この魔法を使えば、
「消費文明という原因と、人類滅亡という結果を結んでいる糸を、びよんびよんに伸ばして、どこか知らないはるか未来に放り捨ててくる」
ということが、できてしまいそうだ。
そこまでのことはできないとしても、
「中世という原因と、現代という結果を逆転させて、人類の文明をまるごと中世の状態に戻す」
くらいのことは、できちゃってもおかしくない。
こっちの方法は久遠寺有珠の思想(推定)とぴったり一致する。
(ゲーティアのやろうとしたこととも極めて近似する)
「やろうと思えばそういうことができそうな蒼崎青子」が、この物語には、あらかじめ用意されている。
はたして、蒼崎青子はそれをするのか?
●未来を引き寄せる蒼崎青子
「避け得ない人類の終末」というテーマに対して、蒼崎青子がどういう答えを出すのか、ということが、『魔法使いの夜』の続編で語られていくのだろうと思います。
そこで語られた蒼崎青子の姿が、『メルティブラッド』や『Fate/EXTRA』に登場した蒼崎青子につながっていく。
たいした根拠もなく推測をいいますが、蒼崎青子は、久遠寺有珠が提唱しそうな衰退や静止を選ばない気がする。
むしろその逆で、成長した未来の自分をたぐり寄せて橙子を倒したように、「人類の進歩を加速させる」方向に魔法を使いそうな気さえする。
「人類がもっと進歩すれば、定められた人類の滅びをしりぞける力だって持ちうるはずだ」
そういうことを蒼崎青子には信じていてもらいたいのです。
「人類を加速させて、滅びに正面からぶち当たって、そのままぶち破ろうぜ」
くらいのことを考えていてほしい、というのが、私の個人的な願望です。だって、青子は消費文明の代表で、新しいものをどんどん取り入れていく人なのだそうですからね。
たとえば、人類全体をデータ化して保存してしまおう(それ自体が人類の滅びを意味する)とするオシリスの砂の計画を、蒼崎青子は阻止した。
(なおこの計画は滅びと救済が表裏一体になっているので「第六法/第六魔法」の条件を満たす)
青子は人類の滅亡をだまって見ているようなことはしないし、人類の歩みを静止させるような救済方法にも賛成してはいなそうだ。
以上のことを踏まえて、もう一度検討してみたい。
蒼崎青子はどういう能力を持っていて、それを何に使っているのか。
●因果がまだ結びついてないなら
『メルティブラッド』をはじめとする、各種TYPE-MOON作品の外伝で、蒼崎青子は水戸黄門みたいにあちこちにふらっと現れては、悪だくみをしているやつをビームと鉄拳で粉砕しています。
『MELTY BLOOD:TYPE LUMINA』のエンディングにおいて、ハワイでバカンス中の蒼崎青子は、開放感でこんなことを口走っています。
終末案件という、なんともクリエイティブな単語は、「このままコトが運べば人類は確実に滅亡しちゃうよねという要因」、例えばオシリスの砂による人類総データ化計画みたいなものを示していると考えてよさそうです。
蒼崎青子は終末案件を見つけると、「これはだめよ、ブッ壊してあげる」かなんか言ってビームぶっぱなして粉砕して帰ってくる。
ここでゼルレッチの名前が出てくるのは、彼が終末案件を見つけてきたりするからでしょう。
ゼルレッチは並行世界の観測ができるので、枝分かれする世界の行く末をちょっと見てくることができる。
そうして「このルートを放置しておくと人類の滅亡が確定する」ということがわかると、
「やれやれ、ワシはもうトシじゃからおまえさんいってくれんかのう、よぼよぼ」
みたいな適当なことを言って実務作業を若手に丸投げする。
若い娘とおじいちゃんの二人組で、おおむね、そんなことをやっているんだろうと思うわけですが……。
『Fate/EXTRA』での発言をみると、どうも、きな臭い(終末案件になりそうな)未来を「自分で発見」して、監視しにいってるっぽい。
このセリフを虚心に読むと、ゼルレッチの力をかりなくても、「このルートの未来はきな臭い」と自分で感知して、見に行くということができるっぽい。
(ただ、「このルートは確実に終末行きだ」と確信できるほどの精度ではなさそうだ)
どうも、蒼崎青子はある程度の未来視的なことができると考えたほうが適切そうだ。
当シリーズの第四回で、第五魔法の正体を、
「原因と結果を結んでいる糸を操作する」
ものとしました。
第五魔法は原因と結果を結んでいる糸をいじくれる。長さをゼロまで縮めたり、無限大まで伸ばしたり、原因と結果の位置をくるっとまるっと入れ替えて、結果が先に来てから原因がやってくるようにできる。
これ自体は私はOKだと思っています。
ただ、シリーズ第四回の範囲では、
「静希草十郎は致命傷を受けたが死なない、という「別の結果」を蒼崎青子は用意できなかった」
ので、その当時の推論として私は、
「ひとつの原因から発生しうる別の可能性を選ぶということはできない」
としていました。
ちょっとその点についてだけ、再検討が必要そうです。
「いったん原因と結果が一意に結ばれてしまったら、それを切り離すことはできない」
これはOKとしましょう。
(致命傷を受けたら人間は必ず死ぬので、致命傷を受けたという原因と、死ぬという結果を切り離すことはできない)
いったん原因と結果が一意に結ばれてしまったら……?
じゃあ、「まだ原因と結果が一本の糸で結びつけられていない状態」のときは、どうだろう。
原因から結果に向かってするすると伸びていく糸を、任意の別の結果にむりやり結わえつけるようなマネは、どうも無理っぽいフィーリングだ。
だけど、結果に向かって結びつこうとしている糸を、根元のところでチョンと切ることは可能かもしれない。
それをやっているのが、「終末案件の剪定」……つまり、きな臭いところに出張っていって、きな臭さの原因をビームと鉄拳で粉砕するという行為なんじゃないか。
●蒼崎青子に見えているもの
推定ですが、蒼崎青子の視界には、
「現在という点から、扇状に伸びていく無数の糸」
が、見えているんじゃないかと考えます。
この糸は、現在という「原因」から、何らかの「結果」に結びつこうとする因果の糸ですが、まだ、どこにも結びついてはいない。
そして、この糸がどこに結びつこうとしているのか……「終末に結びついているか」「いないか」は、この時点では蒼崎青子には「わからない」。
せいぜい、「なんか、きな臭い」というのを直感的に感じ取れる程度。
ゼルレッチは無数の並行世界を俯瞰できるので、糸がどういった結果に結びつく予定なのかがあらかじめわかるが、青子にはそれがわからない、と私は考えるのです。
これは、
「蒼崎青子にはビジュアルノベル(アドベンチャーゲーム)の選択肢が見える」
と表現したほうがわかりやすいかもしれない。
Aの選択肢を選んだ場合と、Bの選択肢を選んだ場合では、別の「結果」が得られるが、どういう結果が得られるかは選ぶ段階ではわからない。
(選択肢に書かれている文言から、なんか怪しい、が感じ取れる程度)
蒼崎青子は、選んだ先で何が起こるかをあらかじめカンニングすることはできない。
ならば彼女はどうするか。
「すべての選択肢を総当たりする」
蒼崎青子は最初の選択肢を選ぶ。その先を読む(見に行く)。選んだ「結果」、そこに人類滅亡の要因があれば、鉄拳ビームで粉砕する(因果の糸をチョンと切る)。
そして現在に戻ってくる。
(この「現在への復帰」が、擬似的な時間旅行になっている)
蒼崎青子は第二の選択肢を選ぶ。その先を見に行き、終末案件だとわかれば因果の糸をチョンと切り、選択肢じたいをつぶす。また現在に戻ってくる。
そうして可能性をどんどん剪定していき、終末案件が見当たらなくなれば、コマを一個、先に進める。そこにはまた、無限にひとしい選択肢があるので、すべてを総当たりする。
蒼崎青子はそれをえんえん、地獄巡りのようにくりかえしている。
それを続けて、最終的に、人類のルートを一本の糸にしぼりこみたいと思っている。
そのしぼりこんだ糸が結びつく「結果」が「人類の生存」であればいいと願っている。
……というのが、私の中の蒼崎青子像です。
この説における青子は、世界というアドベンチャーゲームを、たった一人で半永久的にプレイし続ける人なわけで、つまりそのような意味において彼女は、
「主人公」
だといえます。
(『魔法使いの夜』に選択肢がいっさいないのも、これが関係していそうだ)
私の中の蒼崎青子像は、ゲーティアみたいに人類の積み重ねを逆進させたりはしない。むしろ推進する。前に進む。人間が前に進む力を信じている。
だから、未来へ進む選択肢のどれかに、人類生存ルートがあると信じて、無限に近い選択肢をクリックし続ける。
もし仮に、人類生存ルートがなかったとしても、彼女はそれをよしとする。
行き着く先が滅亡であっても、そこに向かって駆け抜けていく人のあり方それ自体に価値がある。
●因果の「運営」
本稿ではこれまで、第五魔法を「因果の操作」と呼んできました。でも、第五魔法が上記のような活動を可能とするなら、これは、
「因果の《運営》」
と呼んだほうが適切かもしれません。
けど、TYPE-MOON世界観の(というか奈須きのこさんの言語感覚における)「運営」って、意味がめちゃめちゃ取りづらくてしんどいですから、私は今後も「因果の操作」と呼ぶことにします。
第五回の末尾で、
「第一と第四、第二と第五、第三と第六が対応していそうだ」
という話をしました。
第五魔法の中身が、因果の「運営」であるのなら、第二魔法「並行世界の運営」との対応がより強固になります。以下のようになります。
■第二魔法:無限に枝分かれする並行世界を俯瞰し、当たりくじを探す
■第五魔法:無限に枝分かれする選択肢を総当たりし、当たりくじを探す
●共通点:可能性の剪定・未来を一意に収束・時間旅行・使用者の現存
このように見た場合、こと「人類滅亡ルートの克服」という点において、第五魔法は第二魔法のダウングレード版です。また、使いようによっては、人類の現状という「原因」と、人類滅亡という「結果」を、完全に結びつけてしまいかねません。
例の「とっくに意義を失っていた」は、そのような意味でとらえることも可能かもしれません。
●久遠寺有珠は何を知るのか
久遠寺有珠の母は魔女でした。魔女は性交による繁殖をしませんから、結婚もしないし、伴侶も持ちません(たぶん)。
定期的に自分自身をこの世に再発生させる形でリフレッシュするので(推定)、半永久的にこの世に存在しつづけることができます。
それは言い換えるなら、「半永久的に幼児のままでいることができる」。
しかし有珠の母は、伴侶を選び、結婚し、子供を産みました。母になることを選びました。
それは言い換えれば、「幼児でありつづけることをやめる」「大人になる」「成長する」ということだと思うのです。
有珠の母は故人です。つまり、無限にこの世にありつづける能力は、有珠という次世代を生んだことで喪失したのだと考えます。
(繁殖するのなら、個体として存続する必要がない)
有珠の母は、ピーターパンであることをやめて、成長することを選んだ。
決して避けることができない死という結末があるとわかっていても、そこにたどり着くまで成長しつづけるのが人間というものである。
ここでいう「人間」を、「人類」と置き換えても、同じことが言えるのではあるまいか。
蒼崎青子はそのように考えていそうです。行く先が滅びの結末だとわかっていても、未来に向けて駆けつづけるのが人類の素晴らしさではないか。
もし久遠寺有珠が滅びへの対抗策として「人類が成長をやめて静止すること」を主張するのなら、おそらく蒼崎青子と対立することになります。
が、青子との対立の果てに、有珠は母のことを思い出すのかもしれません。どうして母は私を産むことにしたのだろう。死の運命とひきかえにしてまで、なぜ?
……とまあ、もし私が奈須きのこさんだったら、『魔法使いの夜』をこんなふうに書くけどな、というのが、ここで私が言いたかったことです。
当シリーズはひとまずこれでおしまいです。また何か思いついたら続きを書くかもしれません。お疲れさまでした。
(いったん、了)
筆者-Townmemory 初稿-2022年4月2日
今回は蒼崎青子が何者なのかです。第五魔法の内容も修正します。
本稿はTYPE-MOON作品の世界観に設定されている「魔法」に関する仮説です。七回目です。この回から唐突に読み始める方への配慮はしておりませんので、第一回から順繰りにお読み下さい。
これまでの記事は、こちら。
TYPE-MOONの「魔法」(1):無の否定の正体
TYPE-MOONの「魔法」(2):初期三魔法は循環する
TYPE-MOONの「魔法」(3):第四魔法はなぜ消失するのか
TYPE-MOONの「魔法」(4):第五の継承者はなぜ青子なのか
TYPE-MOONの「魔法」(5):第六法という人類滅亡プログラム
TYPE-MOONの「魔法」(6):「第六法」と「第六魔法」という双子
●人類の課題は二つ
前回と前々回で、
「TYPE-MOON世界観においては、人類はいずれ絶対に滅ぶ」
という話をしました。
アトラス院が計算でこの結論をはじきだしていて、今のところ回避方法はない。
そういう世界において、人間が直面する課題は、つきつめれば二つ。
ひとつは、
「それでもなんとかして、滅びを避けることはできないか」
もうひとつは、
「滅びを避けることはできないと決まっている世界で、どう生きるか」
●なぜ人類は滅ぶのか
奈須きのこさんが「人類は滅ぶ」という世界観を持つにいたったことについては、「90年代半ば」という時代が関係していそうだ。
たぶんこの時代、奈須きのこさんは二十代前半くらいの多感な年頃。TYPE-MOON世界観の基礎ができあがったのはおそらくこの時期。
(小説版『魔法使いの夜』が執筆されたのが1996年とされている)
90年代半ばは極めて世紀末的時代。このころにはすでに環境問題が全人類的マターとなっていたが、同時に「ただまあ、打つ手はないです」という結論もはっきり見えてきた。
96年にはタヒチでフランスが核実験。国際的に核軍縮が議論されてる中での強行であり、「人類はけっきょく核兵器を手放すことは不可能なんだな」という現実がほぼ決定的になりました。
国内では95年に阪神大震災と地下鉄サリン事件がありました。奈須きのこさんくらい幻の世界に対する感受性が高ければ(たぶん国内随一)、あの光景を日本全土に広げたものや、全世界に広げたものを想像しないほうが不思議というもの。
あの時代に感受性が高い青年時代を過ごせば、
「ああ、人間ってのはどんづまりに来ているんだな。ここから滅んでいくんだな」
という観念には、容易にたどりつく。
だから彼は、「避け得ない人類の滅び」というものを中心にすえた世界観を幻視する。
そういったことを端的に表しているのが、たとえばゲーティアの「現行の人類には、先がない」という認知であったりする。
TYPE-MOON世界には、人類滅亡の要因が、たっぷり用意されています。
朱い月と二十七祖もそうだし、人類全員を噛み殺す力を備えた抑止力の獣プライミッツ・マーダーもそうです。冬木の聖杯からあふれ出した泥が世界を飲み込むかもしれないし、人類悪のどれが力を解放しても人類は滅ぶ(たぶん)。
だけど、「かわいそうな人類は何の罪もないのに滅ぼされてしまう」のかというと、全然そんな感じはしません。
むしろ、「人類は人類みずからの所業によって滅ぶのだが、その滅びの象徴としてこれらの滅亡要因が置かれている」くらいに考えるほうがすっきりする。
「ゴジラは奇形的に進歩してしまった人類の文明の象徴であり、ゴジラが人間を襲うというのは人類の文明が人類を滅ぼしにかかっているのである」
みたいな話としたほうが受け取りやすい。
ようするに人間は、環境破壊とか核戦争とかバイオハザードとか資源の枯渇とかで滅ぶのである(マナの枯渇した未来、という設定の作品がいくつかあるのは資源枯渇の喩えだと思う)。
人間は、みずから築いた文明の帰結として滅ぶ。
……のだけど、そういう人間の行く末を見たさまざまな超越者たちが、
「ゆっくり滅んでいくのは苦しかろうから、せめて私が一瞬で全滅させてやろう」
みたいなことをいいだして、その手前でスパッと滅んだりする。
●笠井潔の「大量死理論」
……あのちょっと余談。
とくに『月姫』あたりで顕著ですが、奈須きのこさんの作品には、「自分ひとりで死ぬより誰かに殺されて死にたい」とか「あの人を愛しているから殺してしまいたい」という観念がちょくちょく出てきます。
ふと思ったのですがこれって、笠井潔さんの「大量死理論」からダイレクトに影響を受けているんじゃないか。
「なぜミステリ小説がこんなにも読まれ、書かれるのか」について、笠井潔さんはものすごく独自的な理論を提唱されています。
私が理解した範囲でごく簡潔に説明すると、
「世界大戦を経て、人類は、無意味な大量死というものをいやというほど経験した」
「人間の精神は、意味のない大量の死に耐えられるようにはできていない」
「無意味な大量死を経験した人間は、《意味のある死》を求めてミステリ小説を読み、または書くのではないか」
「ミステリ小説の被害者は、殺されるべき理由があって殺される。しかも最大級に劇的にだ」
「これは意味ある華々しい死であり、特権的に扱われる死だ。それが無意味な大量死に傷ついた人間の心を慰撫するのである」
だから例えば『月姫』は、殺人鬼が主人公であり、主人公がヒロインを殺害するところから物語がはじまり、生き返ったヒロインと主人公が恋愛関係になる。恋愛的な関係になったのにその後また二人で殺し合ったりする。「殺す殺されるという関係が読者や作者を慰撫する」というセンスがありそうだ。
そして、それと同じ文脈において。
「人類が、人類だけの理由で大量に死んで滅んでいくなんて耐えられない」
「せめて、人類以外の超越者の手にかかって滅んでいきたい」
というようなことを、奈須きのこさんは願ったかもしれない。
(つまり人類はまるごと、至高の殺人者による、華麗で芸術的な殺人事件の被害者になる……。この上ない特権的な死に方を与えられる)
だから、「人類はほっといても勝手に滅んでいくが、そのまえに超越者が人類をほろぼしてくれる」という世界を、彼は幻視したのではないか。
余談終わり。話を戻す。
蒼崎青子はゼルレッチとは知り合い同士。能力的にもちょっと似ている。彼女は「人類は近い将来に滅びます」ということを知ることができる立場にありそうだ。
どうやら人類には未来がないよね、という身も蓋もない現実を認知した魔法使い蒼崎青子は、何を考え、どうするのか。
自分は人知も自然法則も超越した「魔法」という力を持っている。そんな自分は何かをしなきゃいけないんじゃないのか。
●進む文明と、一生変わらない有珠
「4gamer」のインタビューで、奈須きのこさんはすごく興味深いことをいっている。
例えば草十郎は,山から下りてきた直後,第1章の時点だと,これまでのTYPE-MOON作品に出てきたどの主人公よりも凄い。それが文明に慣れて個人として確立していくことで,どんどん弱くなっていく。「まほよ」のテーマって,基本的に「都市と森」とか「進む文明」なんですよ。自然しか知らないままに生きてきた人間が,幸福に近づくことで生き物としては堕落していってしまう。そうやって徐々に変化していく草十郎と,一生変わることのない有珠,そしてどんどん新しいものを取り入れていく青子という3人が,あの洋館では交わっている。TYPE-MOONの原点を辿る「魔法使いの夜」インタビュー。奈須きのこ&こやまひろかず&つくりものじ氏の3名に聞く,ノベルゲームの未来と可能性(傍線は引用者による)
4Gamer:TYPE-MOONの原点を辿る「魔法使いの夜」インタビュー。奈須きのこ&こやまひろかず&つくりものじ氏の3名に聞く,ノベルゲームの未来と可能性(傍線は引用者による)
第五魔法そのものについても,まだまだ秘密が隠されてそうですよね。
奈須氏:
きっと皆さん,そこが気になってると思うんですけど……すいません,それが分かるのはもうちょっと後なんです。冒頭でもお話しした「進む文明」というテーマにも絡んでくるので……。
4Gamer:
森を出て文明に触れることで堕落していく草十郎と,それを見守る青子,という図式でしょうか。
奈須氏:
作中でも婉曲的に語っていますが,有珠は中世の文明の代表で,青子は消費文明の代表です。青子がどうして“最新の”魔法使いなのか,その答えも第五の中にあります。
例によって抜き出します。
・『魔法使いの夜』のテーマは「都市と森」「進む文明」。
・久遠寺有珠は一生変わらない。
・久遠寺有珠は中世の文明の代表。
・蒼崎青子は新しいものをどんどん取り入れていく。
・蒼崎青子は消費文明の代表。
・山にいるころには凄い存在だった静希草十郎は、(街に出て)文明に触れたことで弱くなる。
さらにシュリンクする。
久遠寺有珠=森・中世・無変化
蒼崎青子=都市・消費社会・変化
静希草十郎=森から都市への移行・強い存在から弱い存在への移行
●文明が人間を弱くする
……私が理解した範囲でいうと、『魔法使いの夜』は、「久遠寺有珠が代表しているもの」と「蒼崎青子が代表しているもの」の対立の物語なんだ、と。
その対立を一言で言うと、「非文明の世界」と「消費社会文明」の対立である。
前述したとおり、奈須きのこさんは、現代の消費社会文明に批判的な視線を向けていると推定できます。そういう彼は、「人類はいずれ必ず滅ぶ」という設定をどまんなかにすえた世界観をつくりあげました。
「山育ちの静希草十郎は文明に触れて弱くなる」は重要なポイントだと考えます。
TYPE-MOON世界観には「山の中で育った人間は超人レベルに強い」という極端な設定があります。
七夜志貴、葛木宗一郎、静希草十郎が代表例です。
そんな静希草十郎が「文明に触れると弱くなる」というのですから、ここでいう「山」というのは、
「文明から隔絶した領域」
の意味だということになります。
たぶんこういうことだと思います。人類がまだ文明を持っていなかったころ、人間を守ってくれるものは人間自身しかなかった。
だから人間が生き延びるには、人間自身が強くなるしかなかった。
そのころ生き延びていた人間は、今の人間よりも、存在自体として、ずっと強力であった。
だけども文明が発生してきます。人間は火で自分を守り、金属で自分を守り、木の柵や城壁で自分を守るようになった。農工業や商業で飢えから自分を守るようになり、医術で病から身を守るようになった。
人間自身が強くならなくても、生き延びられるようになった。
強くなくても生き延びられる状況を手に入れて、人間は際限なく弱くなっていった。文明圏という大きな単位では、人間は際限なく強くなっていったが、反比例して個体としての人間は際限なく弱体化していった。
そのようにして「際限なく肥大化した文明圏」が、個々としての人類を襲うから、「人類は早晩、滅びる」わけでしょう。
「山育ちの静希草十郎が文明に触れ、生き物として堕落し、弱体化していく」
というのは、そうした人類のありかたの縮図として、彼が物語内に配置されているから……と読むことができます。
ここに「人類は早晩、必ず滅ぶ」という世界がある。
その中に、「中世(=非消費文明)の代表」と、「現代(=消費文明)の代表」が置かれている。
そして、そのどちら側にも振れることができる(非文明世界育ちで、都市生活をしている)少年がいる。
『魔法使いの夜』は、そういうセッティングになっています。
「文明の帰結として人類は滅ぶ」という究極のテーマに直面したとき、非文明側の代表・久遠寺有珠と、消費文明側の代表・蒼崎青子と、そのどちら側にも与することができる静希草十郎は、何を考え、どうするのか。
●人類は静止すべきなのか
久遠寺有珠はいわゆる文明の利器を苦手としている、という表現がされています。青子が家にテレビを持ち込んだらすごく嫌がったという話がありました。
『MELTY BLOOD:TYPE LUMINA』には、「青子が有珠に連絡を取ろうとしたが、有珠がIT機器を嫌っているためメールができない」というシーンがあります。
有珠の使い魔プロイキッシャーは、文明圏では著しく性能がそがれる、という設定もありました。
おそらく久遠寺有珠というキャラクターのコンセプトは「アンチ文明」だ。
『Character material』には、こういう凄いことが書いてあります。
青子は歳を取るが、アリスは歳を取ることができない。『Character material』(「アリス」は原文ママ)
奈須きのこさんが「一生変わらない」存在だとした久遠寺有珠。
そんな久遠寺有珠が、「文明の帰結による避け得ない滅亡」という究極のテーマに対して出す答えは、
「文明の後退、もしくは静止」
だと思うのです。
「文明の暴走によって人類は滅ぶ。ならば、人類は文明を手放すべきである」
「人類は、中世くらいの文明レベルに戻り、そこで成長を止めるべきだ」
「そうすることで、滅びを遠ざけることができるはずだ」
久遠寺有珠は、そのような方向の答えを良しとしそうだ。
プロイキッシャーはすべて童話がモチーフになっています。童話は子供のためのもの。久遠寺有珠は、
「人類は、幼児に戻るべきだ」
「幼児に戻って、そこから歳を取らないようにすべきだ」
そういう思想の代表として、この物語に存在していそうだと考えます。
静希草十郎で喩えれば、「草十郎は都市を捨てて山に帰るべきだ」。
この方向性で人類を救おうとしている人物が、TYPE-MOON世界には他にもいます。
『MELTY BLOOD 路地裏ナイトメア』(桐島たける他)に登場するシアリム・エルトナム・レイアトラシアは、「滅びを回避する方法が見つかるまで、世界中の時間を停止しましょう」という計画を立てていました。
『MELTY BLOOD Actress Again』の黒幕・オシリスの砂は、「人類全員をいったん静止し、データに変換し、メモリに保存しましょう」という形での問題解決を実行しようとしました。
わりあい多くの有力者たちが、この方向の解決(後退か静止)を考えているっぽい。
さて、久遠寺有珠のとなりには蒼崎青子という友人がいます。
本稿(この一連の投稿)での説にしたがうなら、蒼崎青子は「原因と結果のあいだを結んでいる関係を操作できる」という魔法使いです。
この魔法を使えば、
「消費文明という原因と、人類滅亡という結果を結んでいる糸を、びよんびよんに伸ばして、どこか知らないはるか未来に放り捨ててくる」
ということが、できてしまいそうだ。
そこまでのことはできないとしても、
「中世という原因と、現代という結果を逆転させて、人類の文明をまるごと中世の状態に戻す」
くらいのことは、できちゃってもおかしくない。
こっちの方法は久遠寺有珠の思想(推定)とぴったり一致する。
(ゲーティアのやろうとしたこととも極めて近似する)
「やろうと思えばそういうことができそうな蒼崎青子」が、この物語には、あらかじめ用意されている。
はたして、蒼崎青子はそれをするのか?
●未来を引き寄せる蒼崎青子
「避け得ない人類の終末」というテーマに対して、蒼崎青子がどういう答えを出すのか、ということが、『魔法使いの夜』の続編で語られていくのだろうと思います。
そこで語られた蒼崎青子の姿が、『メルティブラッド』や『Fate/EXTRA』に登場した蒼崎青子につながっていく。
たいした根拠もなく推測をいいますが、蒼崎青子は、久遠寺有珠が提唱しそうな衰退や静止を選ばない気がする。
むしろその逆で、成長した未来の自分をたぐり寄せて橙子を倒したように、「人類の進歩を加速させる」方向に魔法を使いそうな気さえする。
「人類がもっと進歩すれば、定められた人類の滅びをしりぞける力だって持ちうるはずだ」
そういうことを蒼崎青子には信じていてもらいたいのです。
「人類を加速させて、滅びに正面からぶち当たって、そのままぶち破ろうぜ」
くらいのことを考えていてほしい、というのが、私の個人的な願望です。だって、青子は消費文明の代表で、新しいものをどんどん取り入れていく人なのだそうですからね。
たとえば、人類全体をデータ化して保存してしまおう(それ自体が人類の滅びを意味する)とするオシリスの砂の計画を、蒼崎青子は阻止した。
(なおこの計画は滅びと救済が表裏一体になっているので「第六法/第六魔法」の条件を満たす)
青子は人類の滅亡をだまって見ているようなことはしないし、人類の歩みを静止させるような救済方法にも賛成してはいなそうだ。
以上のことを踏まえて、もう一度検討してみたい。
蒼崎青子はどういう能力を持っていて、それを何に使っているのか。
●因果がまだ結びついてないなら
『メルティブラッド』をはじめとする、各種TYPE-MOON作品の外伝で、蒼崎青子は水戸黄門みたいにあちこちにふらっと現れては、悪だくみをしているやつをビームと鉄拳で粉砕しています。
『MELTY BLOOD:TYPE LUMINA』のエンディングにおいて、ハワイでバカンス中の蒼崎青子は、開放感でこんなことを口走っています。
(蒼崎青子)『MELTY BLOOD:TYPE LUMINA』(傍線は引用者による)
目立った終末案件もないし、
ゼルレッチの爺さんも見当たらないし!
終末案件という、なんともクリエイティブな単語は、「このままコトが運べば人類は確実に滅亡しちゃうよねという要因」、例えばオシリスの砂による人類総データ化計画みたいなものを示していると考えてよさそうです。
蒼崎青子は終末案件を見つけると、「これはだめよ、ブッ壊してあげる」かなんか言ってビームぶっぱなして粉砕して帰ってくる。
ここでゼルレッチの名前が出てくるのは、彼が終末案件を見つけてきたりするからでしょう。
ゼルレッチは並行世界の観測ができるので、枝分かれする世界の行く末をちょっと見てくることができる。
そうして「このルートを放置しておくと人類の滅亡が確定する」ということがわかると、
「やれやれ、ワシはもうトシじゃからおまえさんいってくれんかのう、よぼよぼ」
みたいな適当なことを言って実務作業を若手に丸投げする。
若い娘とおじいちゃんの二人組で、おおむね、そんなことをやっているんだろうと思うわけですが……。
(蒼崎青子)『Fate/EXTRA』
なんかきな臭い未来があったから、
おかしな事にならないよう見に来たのよ。
『Fate/EXTRA』での発言をみると、どうも、きな臭い(終末案件になりそうな)未来を「自分で発見」して、監視しにいってるっぽい。
このセリフを虚心に読むと、ゼルレッチの力をかりなくても、「このルートの未来はきな臭い」と自分で感知して、見に行くということができるっぽい。
(ただ、「このルートは確実に終末行きだ」と確信できるほどの精度ではなさそうだ)
どうも、蒼崎青子はある程度の未来視的なことができると考えたほうが適切そうだ。
当シリーズの第四回で、第五魔法の正体を、
「原因と結果を結んでいる糸を操作する」
ものとしました。
第五魔法は原因と結果を結んでいる糸をいじくれる。長さをゼロまで縮めたり、無限大まで伸ばしたり、原因と結果の位置をくるっとまるっと入れ替えて、結果が先に来てから原因がやってくるようにできる。
これ自体は私はOKだと思っています。
ただ、シリーズ第四回の範囲では、
「静希草十郎は致命傷を受けたが死なない、という「別の結果」を蒼崎青子は用意できなかった」
ので、その当時の推論として私は、
「ひとつの原因から発生しうる別の可能性を選ぶということはできない」
としていました。
ちょっとその点についてだけ、再検討が必要そうです。
「いったん原因と結果が一意に結ばれてしまったら、それを切り離すことはできない」
これはOKとしましょう。
(致命傷を受けたら人間は必ず死ぬので、致命傷を受けたという原因と、死ぬという結果を切り離すことはできない)
いったん原因と結果が一意に結ばれてしまったら……?
じゃあ、「まだ原因と結果が一本の糸で結びつけられていない状態」のときは、どうだろう。
原因から結果に向かってするすると伸びていく糸を、任意の別の結果にむりやり結わえつけるようなマネは、どうも無理っぽいフィーリングだ。
だけど、結果に向かって結びつこうとしている糸を、根元のところでチョンと切ることは可能かもしれない。
それをやっているのが、「終末案件の剪定」……つまり、きな臭いところに出張っていって、きな臭さの原因をビームと鉄拳で粉砕するという行為なんじゃないか。
●蒼崎青子に見えているもの
推定ですが、蒼崎青子の視界には、
「現在という点から、扇状に伸びていく無数の糸」
が、見えているんじゃないかと考えます。
この糸は、現在という「原因」から、何らかの「結果」に結びつこうとする因果の糸ですが、まだ、どこにも結びついてはいない。
そして、この糸がどこに結びつこうとしているのか……「終末に結びついているか」「いないか」は、この時点では蒼崎青子には「わからない」。
せいぜい、「なんか、きな臭い」というのを直感的に感じ取れる程度。
ゼルレッチは無数の並行世界を俯瞰できるので、糸がどういった結果に結びつく予定なのかがあらかじめわかるが、青子にはそれがわからない、と私は考えるのです。
これは、
「蒼崎青子にはビジュアルノベル(アドベンチャーゲーム)の選択肢が見える」
と表現したほうがわかりやすいかもしれない。
Aの選択肢を選んだ場合と、Bの選択肢を選んだ場合では、別の「結果」が得られるが、どういう結果が得られるかは選ぶ段階ではわからない。
(選択肢に書かれている文言から、なんか怪しい、が感じ取れる程度)
蒼崎青子は、選んだ先で何が起こるかをあらかじめカンニングすることはできない。
ならば彼女はどうするか。
「すべての選択肢を総当たりする」
蒼崎青子は最初の選択肢を選ぶ。その先を読む(見に行く)。選んだ「結果」、そこに人類滅亡の要因があれば、鉄拳ビームで粉砕する(因果の糸をチョンと切る)。
そして現在に戻ってくる。
(この「現在への復帰」が、擬似的な時間旅行になっている)
蒼崎青子は第二の選択肢を選ぶ。その先を見に行き、終末案件だとわかれば因果の糸をチョンと切り、選択肢じたいをつぶす。また現在に戻ってくる。
そうして可能性をどんどん剪定していき、終末案件が見当たらなくなれば、コマを一個、先に進める。そこにはまた、無限にひとしい選択肢があるので、すべてを総当たりする。
蒼崎青子はそれをえんえん、地獄巡りのようにくりかえしている。
それを続けて、最終的に、人類のルートを一本の糸にしぼりこみたいと思っている。
そのしぼりこんだ糸が結びつく「結果」が「人類の生存」であればいいと願っている。
(オシリスの砂が青子に対して)『MELTY BLOOD Actress Again』
……やはり私を破壊するか。共に霊長の守護を語りながら、我々の手段はあまりにも違う。
貴様はおぞましい、際限のない生存を。
……というのが、私の中の蒼崎青子像です。
この説における青子は、世界というアドベンチャーゲームを、たった一人で半永久的にプレイし続ける人なわけで、つまりそのような意味において彼女は、
「主人公」
だといえます。
(『魔法使いの夜』に選択肢がいっさいないのも、これが関係していそうだ)
私の中の蒼崎青子像は、ゲーティアみたいに人類の積み重ねを逆進させたりはしない。むしろ推進する。前に進む。人間が前に進む力を信じている。
だから、未来へ進む選択肢のどれかに、人類生存ルートがあると信じて、無限に近い選択肢をクリックし続ける。
もし仮に、人類生存ルートがなかったとしても、彼女はそれをよしとする。
行き着く先が滅亡であっても、そこに向かって駆け抜けていく人のあり方それ自体に価値がある。
●因果の「運営」
本稿ではこれまで、第五魔法を「因果の操作」と呼んできました。でも、第五魔法が上記のような活動を可能とするなら、これは、
「因果の《運営》」
と呼んだほうが適切かもしれません。
けど、TYPE-MOON世界観の(というか奈須きのこさんの言語感覚における)「運営」って、意味がめちゃめちゃ取りづらくてしんどいですから、私は今後も「因果の操作」と呼ぶことにします。
第五回の末尾で、
「第一と第四、第二と第五、第三と第六が対応していそうだ」
という話をしました。
第五魔法の中身が、因果の「運営」であるのなら、第二魔法「並行世界の運営」との対応がより強固になります。以下のようになります。
■第二魔法:無限に枝分かれする並行世界を俯瞰し、当たりくじを探す
■第五魔法:無限に枝分かれする選択肢を総当たりし、当たりくじを探す
●共通点:可能性の剪定・未来を一意に収束・時間旅行・使用者の現存
このように見た場合、こと「人類滅亡ルートの克服」という点において、第五魔法は第二魔法のダウングレード版です。また、使いようによっては、人類の現状という「原因」と、人類滅亡という「結果」を、完全に結びつけてしまいかねません。
例の「とっくに意義を失っていた」は、そのような意味でとらえることも可能かもしれません。
●久遠寺有珠は何を知るのか
久遠寺有珠の母は魔女でした。魔女は性交による繁殖をしませんから、結婚もしないし、伴侶も持ちません(たぶん)。
定期的に自分自身をこの世に再発生させる形でリフレッシュするので(推定)、半永久的にこの世に存在しつづけることができます。
それは言い換えるなら、「半永久的に幼児のままでいることができる」。
しかし有珠の母は、伴侶を選び、結婚し、子供を産みました。母になることを選びました。
それは言い換えれば、「幼児でありつづけることをやめる」「大人になる」「成長する」ということだと思うのです。
有珠の母は故人です。つまり、無限にこの世にありつづける能力は、有珠という次世代を生んだことで喪失したのだと考えます。
(繁殖するのなら、個体として存続する必要がない)
有珠の母は、ピーターパンであることをやめて、成長することを選んだ。
決して避けることができない死という結末があるとわかっていても、そこにたどり着くまで成長しつづけるのが人間というものである。
ここでいう「人間」を、「人類」と置き換えても、同じことが言えるのではあるまいか。
蒼崎青子はそのように考えていそうです。行く先が滅びの結末だとわかっていても、未来に向けて駆けつづけるのが人類の素晴らしさではないか。
もし久遠寺有珠が滅びへの対抗策として「人類が成長をやめて静止すること」を主張するのなら、おそらく蒼崎青子と対立することになります。
が、青子との対立の果てに、有珠は母のことを思い出すのかもしれません。どうして母は私を産むことにしたのだろう。死の運命とひきかえにしてまで、なぜ?
……とまあ、もし私が奈須きのこさんだったら、『魔法使いの夜』をこんなふうに書くけどな、というのが、ここで私が言いたかったことです。
当シリーズはひとまずこれでおしまいです。また何か思いついたら続きを書くかもしれません。お疲れさまでした。
(いったん、了)