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つきなが
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【1/15新刊サンプル】LIFE IS BEAUTIFUL - つきながの小説 - pixiv
【1/15新刊サンプル】LIFE IS BEAUTIFUL - つきながの小説 - pixiv
16,244文字
【1/15新刊サンプル】LIFE IS BEAUTIFUL
1/15カイオエDay&Nightの新刊サンプルです。
本文144ページ/文庫/全年齢/約55000字
とらのあな予約
https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/item/040030956962/
魔法舎のお話ではなく、オーエンが研究者でふたりとも人間というパロディです。
過去のエピソードと現在のエピソードが章ごとに展開します。
花の咲かない無彩色な世界で人体にのみ色鮮やかな花が咲く謎を解き明かすというお話で、リケも登場します。
表紙はタイトルロゴのみですが、黒のベタ塗りをラメ入りの紙に刷ります。傷のデザインと裏表紙に入る花柄が本文の内容とリンクしています。

サンプルは校正前の物ですので、誤字脱字があっても入稿データでは直っているはずです。
よろしくお願いします。
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128176
2021年12月26日 03:20

EPISODE 05 ――今日の終わりは明日の始まりだと信じていた。

 キャンバスの上に咲いた満開の花々が、黒々と塗り潰されていた。  油絵は彼の数少ない道楽だった。聞けばもともとこの部屋に残されていた道具を勝手に使ったのだという。証拠に、絵の具は本数が足りなかったし、溶き油は適当に調合しては錆びかけた缶に流し入れていた。仕事になると寝食を忘れるくらい没頭し、驚くほどの集中力と観察眼を見せる彼は、こと私生活になると途端にずぼらになる。つまり、こだわりがないのだ。もしもこの部屋にあったのが水彩絵の具ならそれで構わなかっただろうし、ピアノが置いてあったのならそれを弾いてみただろう。  何を描いているわけではないと彼は言った。ただ、気紛れに色を置いているだけだと。  それでも白いキャンバスの上に敷き詰められた色の点描は、どこか花畑を彷彿とさせた。赤、黄、緑。ピンクにブルー。日増し重なっていく油絵の具。色を失ったこの世界で、それは目に焼きつくほど鮮やかだった。  その花畑を、彼はゆっくりと黒く塗り潰していた。 「……何してるの」  戸口から声をかける。白いシャツを纏った背中はそれを拒絶し、答えはない。わずかに開かれた窓から、冷たく乾いた空気が流れ込む。空はグレー一色。いつものことだ。 「それ、完成を楽しみにしてたんだけどな」  おどけるように小さく笑えば、最後の一塗りを終えた彼は、筆とパレットを床へと投げ捨てた。転がった筆は、黒く点々と床に跡を残す。 「これで完成だよ」  ようやく返った声は硬質だった。 「これで?」 「これでだ。おまえにあげる」  彼の前に置かれたキャンバスは、真っ黒に塗り潰されている。  さて、いったい何を表しているのだろう。彼特有の謎賭けだろうか。一応、彼の友だちを自称している身としては、この無言の問いに満点で答えなければならない。じっと考え込んだまま、見つめた背中は白いシャツ。そういえば彼が白衣を脱ぐのは珍しい――そう思った瞬間、突然振り返った彼はシャツのボタンに指をかけた。目を丸くした視線の先、白いシャツに黒い油絵の具が染み付いていく。その下から日焼けしていない肌が現れる。  何を、と。ようやく搾り出せた言葉はそれだけだった。



BEAUTIFUL DAYS 01

 リケが二日かけてようやく辿り着いたその屋敷は、古い木造の洋館だった。  残念ながらリケは建築学科ではないし、歴史にも明るくないので詳しい年代はわからない。だが少なくとも築二百年は経過しているだろう。当時は美しかったはずの石造りの塀は崩れかけて砂に埋まり、門の残骸は赤茶に錆びて敷地内に転がっていた。  別に今さらもう驚く光景ではなかった。砂に半分以上覆われたアスファルトの道をなんとか歩いてきたが、どの家も似たような状況だったからだ。街の中心部や特区には人の生活と最低限の市場が確立されているが、そこを離れれば途端に人の気配はまばらになる。  リケたち地下に住む人間は、地上一帯を旧市街と呼んでいる。  旧市街について義務教育レベルの知識はあったが、知っているのと経験するのではわけが違う。まず寒い。地熱による温度調整がされている地下とは違い、一年のほとんどを灰色の分厚い雲で覆われている地上は、夏だというのにコートが必要な寒さだった。  また道には電光掲示板やナビシステムがないどころか、一昔前のアナログな道路標識ですら色褪せて読めない。頼みの綱である地図も二十年前の革命期以前のものなので、あるべきはずの道路が封鎖されているたびに、遠回りを余儀なくされた。新政府は旧市街の開発を目指しているが、まだまだ人手も時間も足りないのが現状だ。  そうして今、目の前の屋敷は重々しい歴史の空気をまとってリケを出迎えていた。  半ば怖じ気づきながら、それでも決死の覚悟で玄関の扉を叩く。もしも事前情報通りここに住んでいなかったらどうしよう。この広い旧市街で何のあてもなく、ただの学生である自分が人を探し出せるとは思えない。  やがて、わずかな人の気配とともに、その扉が内側からゆっくりと開いた。  立っていたのは不機嫌な顔をした赤髪の男だった。 「……何か」  煙草を吸いながら、品定めするようにじろりと見下ろされ身がすくむ。色濃い隈とやつれた様子が、華やかな造りの顔立ちとは裏腹に荒んだ雰囲気を醸し出していた。一瞬若く見えたが、目元の皺といいわずかに混じる白髪といい、やはり四十歳はとうに越えているのだろう。突然の事態に思わず口ごもれば、「ああ」と男は素っ気なく言った。 「新聞の勧誘なら間に合ってるさ。家出少年を泊めてやるほど俺は善意の人間ではないし、まして、自殺願望者ならこんなありもしない施しに縋るより、空腹のままでいたほうがより目的達成に近付くだろう。泥棒なら昼最中の玄関ではなく真夜中の裏口が理想的だが、あいにくこの家には盗む価値のあるものはない。――よって、お引き取りいただこうか」  呆気にとられたリケの前で扉が閉まっていく。慌てて両手をかけてそれを止めた。 「ちょ、ちょっと待ってください!」  こんなことで唯一の手がかりを失うわけにはいかない。容赦なく閉じていく扉に引きずられながら必死に叫ぶ。 「あの、あなた、カインさんですよね!?」  そこでようやく男の手が止まった。 「元厚生局のエリートで、革命期の混乱で行方不明になったっていう」 「……きみは、誰からの差し金だ?」  ひやりとするような声だった。反射的に手を離し半歩下がれば、男は変わらぬ無表情のままズボンのポケットに手を入れた。 「おかしいな、今頃俺に利用価値なんてないと思うんだが」  そこに何が入っているかなんて考えたくもない。そんなのドラマや映画の世界だけで充分だ。 「…………オ、オーエン、博士」  息も絶え絶えに告げたその言葉に、男はわずかに反応を示した。初めて、その琥珀の瞳がまっすぐにリケをとらえる。姿勢を正し、身分証代わりのブレスレットを示した。 「中央第一地区第三大学の三回生、リケと言います。生物学部所属、専攻は寄生虫学。この分野の権威であるオーエン博士を探して、夏休みを利用し旧市街への通行許可をもらいました……ようやくここまで突き止めたんです。二十年前に失踪した博士が、あなたと接触していたことを」  決意を胸に、ぐっと腹に力を込める。 「博士の行方をご存じですか? いえ、もしかしたらここにいらっしゃるのではないのですか?」  男は動じなかった。煙草の煙をゆっくりと吐き出す。 「ストレートな質問だ。腹の探り合いはできないようだな」 「別に政治家になりたいわけではありませんので」 「……なるほど」  そうして、改めて目の前の扉がゆっくりと開かれた。 「ではどうぞご自由に。もともと俺の家じゃないんでね、勝手にするといい。妙な真似をすれば――この意味は、賢い大学生さまならもうわかるだろう?」  一瞬ぽかんと呆けた後、慌てて二度、三度、首を縦にふる。  もう彼はこちらを見ていなかった。リケに背を向け、室内へと歩き出す。その後ろ姿で、ようやく彼が左足をわずかに引きずっていることに気付いた。

(中略)

EPISODE 01 ――その出会いが幸か不幸か考えるのは人間だけだ。

「……さて、それでは問題だ。アポイントなしで飛び込んできた犯罪者の片棒を担ぐのと、その犯罪者を保安局に突き出すのでは、どっちのほうが小金を稼げると思う?」  これが生物学者・オーエンとの出会いであり、開口一番に投げられた言葉である。  ホルマリンの臭いが漂う部屋の入り口に立ち尽くしながら、カインは少しだけ早まったかなと自分の行動を振り返った。研究者というのは基本的に偏屈な人間が多いが、これはとびっきりの部類だった。しかも若い。若いとは聞いていたが想像以上に若い。しかしカインにはもう彼以外、この一件を託せる相手は思いつかなかった。  オーエン。幼少期に国に保護された元孤児。飛び級により十代で博士号を取得したが、表舞台にはほとんど姿を見せず、再三の国の要請を蹴って旧市街へと逃れたという異端の研究者。  保安局の特殊捜査員に追われながら、地下から地上へと脱出する時、カインが持ち出せたものは最低限のデータとサンプルだけだった。だがこの捜査員たちが思いのほかしつこく、日増し治安が悪くなる旧市街を駆け抜けながら、嵩張るサンプルを手放さずにすんだのは奇跡に等しかった。カインには旧市街に知り合いは少ないし、土地勘もない。これ以上、持ち運ぶのは無理だと判断したのだ。  中心部から東へと外れた郊外、ひっそりと佇む民間の研究所。それは、昔の学校を改装した古い鉄筋コンクリートの建物だった。 「カイン・ナイトレイ、二十二歳、住民番号9840102-A」  ぎしぎしと音が鳴る古びた椅子を回転させたオーエンは、ファイルに埋もれていたコンピュータへと手を伸ばした。それなりの広さがあるはずの部屋は、本棚と実験スペースと古びた機械に囲まれて、ほとんど身動きができない有り様だった。ぼんやりと点灯したのは、一昔も二昔も前の旧式コンピュータ。その荒い画面上に、国が管理しているはずのパーソナルデータが現れる。 「厚生局感染病調査室室長。……ふぅん、エリートだねぇ。調査費の横領、民間研究機関との癒着、次官に銃を突きつけて機密文書を強奪。ついでに市民へと発砲し、警備員二人を殴り倒してゲートを突破。現在旧市街を逃走中、か」  そこまで一気に読み上げ、オーエンは口の片端を軽く吊り上げた。 「こんな辺境の地のおんぼろ研究所で、調べられるわけがないと高を括っていたわけ?」 「……いや。ただ知らぬ間に本当に知らない罪状が増えてるな、と」  見れば更新日時は一昨日、捜査員たちとドンパチやっている頃だ。さすがにチェックはできなかった。 「つまり、知ってる罪状もあるわけだ」 「二つくらいは心当たりがなくもないです」  何しろここにこうしているのだから、機密文書の強奪とゲートの突破は概ね真実だ。『次官に銃を突きつけて』というくだりはまったくの濡衣だが、まぁそんなことになるだろうと思っていたから今さら後悔はないが――、カインは苦笑を浮かべてオーエンを見た。 「犯罪者の言葉を信じるんですか?」 「別にこの国じゃ珍しいことでもないでしょう」  心底つまらなそうに言ったオーエンは、ぱちんとコンピュータの画面を落とした。 「それにクライアントの依頼を引き受けるかどうかには、そんなことは関係ない」  この研究所では、所属する研究員各々が好きにクライアントと契約するシステムらしい。  さて、最初の質問に戻ろうか――彼の冷めた視線を受けたカインはゆっくりと頷き、肩に担いでいた真四角のケースを机の上に置いた。あまりの重さに木製の机の足が軋む。銀色のカバーの上にかかっていた灰色の砂を軽く払い、チャックを開けると、特殊加工が施された金属の箱が姿を現す。かつてバイオ兵器も運搬したというケース。何層にもロックされた最後のパスワードを入力すれば、真空パックに密閉された状態でそれは姿を現した。 「……花……? いや、腕かな」  背後のファイルの山に手を突っ込んだオーエンは、細い銀フレームの眼鏡を取り出し、立ち上がった。途端、鋭さと好奇心をない交ぜにした眼光へと変化する。研究者特有の顔だ。 「カイン・ナイトレイ、これはいったい何?」 「今、博士が言ったとおりだ。これは腕であり、花だ」  そこに横たわっていたのは、肘から先で切断された人間の腕だった。  血管とは明らかに違うものが、まるで生き物のように隆起している。そうしてそれが一点に集まった場所、手のひらの中央から真っ赤なアネモネに似た花が突き出していた。 「……感染症か」 「詳細は不明です。ですがここ半年から一年、似たような症例が特に地下の新エリアで多数確認されています。身体の一部に花の種が根付き、蕾を経て開花。やがて死に至ります。致死率はほぼ百パーセント。化学療法の類いはまったく効果がない。たとえ根付いた場所を切除しても、別の部位からまた花が咲き、病気の進行が早まるだけでした」 「ほぼ百パーセント、というのはどういうこと?」 「女性で数例、生き延びたケースがあるようですが、国が病気の存在そのものを隠蔽しようとしているため、俺たちでさえ正確な情報を掴めていません。今回、個人的にお伺いすることになったのはそのためです」 「なるほど。それで病理医でもないぼくのところに、お尋ね者になって来たわけだ」  皮肉を口にしながらも、その顔はまったく笑っていない。花から目を離すことなく呟く。 「……目の前に現物がなければ、にわかには信じられない話だね」 「データのコピーはこれです」 「それで? おまえの見解は?」 「は?」  急に話をふられて間抜けな声が出た。 「は、じゃないだろう。仮にも感染病調査室の室長さんなら、持論のひとつやふたつは持ってるんでしょう?」 「いや、それが、俺は工学系の出身なので……」 「そんなやつがどうして厚生局なんかにいるんだよ」  呆れた声には苦笑を浮かべるしかない。 「先ほどの博士の言葉を借りれば、別にこの国じゃ珍しいことでもない話で……ああ、でもこれは空気感染の確率は極めて低い。それは確かな情報です」  そこでゆっくりと、眼鏡越しに細められた目がこちらを向いた。 「どうやった」  端的な質問ですべてが伝わった。カインもまた曖昧な微笑を浮かべる。こんな短期間で、成果が現れる実験は数少ない。 「人体実験か」  大した感慨もなくあっさりと言ったオーエンは、再び先ほどの椅子に腰掛けた。軽く顎をしゃくられ、カインもまた壁際にあった長椅子へと座る。ガムテープで応急処置された椅子は、やはり座ると同時に甲高い音が鳴った。  そうして視線を上げた先。色褪せた部屋の中央で、赤い花だけが異質さを放つ。 「それで? 病名は?」 「それが二転三転していて……今は『人体疑似花異形成症或いは新型寄生種病』だったかな」 「なんだよ、その長たらしいネーミングは」 「お偉いさんたちの都合です。でも通称はひとつ――ウェヌス」  オーエンの眉がピクリと跳ねた。 「Venus、ヴィーナスか」 「その花は見る者を魅了するほどうつくしいという」 「まったく皮肉だね……それじゃあ、これが最後の質問だ」  言葉を切ったオーエンは、ゆっくりとこちらを向いた。経歴の多くが謎に包まれている若き研究者は、ひどく怜悧な顔立ちをしている。 「どうしてこんな馬鹿な真似をした」  少しだけ答えに迷った。逆に言えば、迷ったのはわずかだった。 「この世界がひどく虚しくて、さびしいと思ったから」  建前なしの本音だった。  しばし考え込んだオーエンは、引き出しから分厚い書類の束を取り出した。ファイルの上でサインをすると、カインへとそれを放り投げる。 「……いいだろう、契約だ。報酬や権利の類いはそこらへんに書いてあるから、目を通しておけよ」 「ありがとう」  慌てて書類を受け取り、頭を下げる。そうしてその一枚目を斜め読み、背中につと嫌な汗が流れた。 「……あの、この報酬額、ゼロがふたつばかりおかしくないですか?」  既にデータを立ち上げはじめている白衣の背中に、おそるおそる声をかける。 「なんだ、もっと追加してほしいの?」 「いやあのそうじゃなくて! えー、ここに辿り着くまでにだいぶ無理をしてしまったので、その、手持ちがですね……?」 「この貧乏研究所で、そんな戯言がまかり通るはずがないでしょう?」  くるりと椅子を回転させながら、正確にはぎこぎこと嫌な音をたてながら、オーエンが眉根を寄せてこちらを振り向く。今にも「じゃあこの話はなかったことで」とでも言い出しそうな雰囲気だ。ようやくここまでこぎつけたのに、それはなんとしてでも避けたい。 「あ、じゃあ後払いってのはどうですか? 研究成果の権利はお譲りしますので」 「おまえ、その無駄に整った顔と身体を売るって発想はないの?」 「そんな発想、あったらこわいよな!?」  あ、いけない。思わず敬語が飛んでしまった。なんだか彼と話しているとひどく調子が狂う。 「ふぅん」と、悪戯っぽく笑みを浮かべた研究者は、手近な裏紙に何かを記した。受け取ってみるとどこかの地図らしい。 「ここに行って身体使ってこいよ。それで勘弁してやる」  否とは言えない絶対的な命令だった。  地図を片手にしばし固まったカインは、ぐっと腹を決めた。自分も男だ、やってやろうじゃないか。この際、黒歴史がひとつふたつ増えたところで大差ないだろう。  決意を込めて三歩進み、ふとそこで立ち止まった。それに気付いたオーエンが、怪訝に声をかけてくる。 「まだ何かあるわけ?」 「いや、その……」  カインは振り返りながら、困ったように苦笑を浮かべた。 「……地図が汚すぎて読めないので、もう一度書いてもらえませんか?」

 建物から一歩外へ出ると、途端、乾燥した冷たい北風が身を刺した。  黒いコートの襟元をかき合わせ、灰色の砂に覆われたアスファルトを歩き始める。空は相変わらず灰色に覆われている。足元のブーツはここ数日で磨り減り、やはり砂で汚れていた。  皮肉――オーエンの言葉が思い出される。花が咲かない世界で人に花が咲く。それは確かに皮肉に違いない。ふと研究所を仰ぐが、そこにあるのもまた無機質な鉄筋コンクリートだけで、何の味気もなかった。  そうして研究所から徒歩二十分、地図の通り辿り着いたのは一軒の古びた洋館だった。  てっきりどこかへ売られるものだと思っていたカインは拍子抜けし、屋敷の一室に入ったところで、ここがオーエンの住処だと気付いた。どこぞの研究室を彷彿とさせるような部屋は彼以外には考えられない。  さて、ここで身体を使えとはいったいどういうことなんだろう。  それが屋敷の掃除と修繕を意味するのだと知ったのは、カインが悶々と考え込むこと一晩。早朝にくだんの研究者が色濃い隈を作って帰宅し、玄関ホールで倒れ込んだ後のことだった。

(中略)

EPISODE 04 ――海と空の境界に線を引くほど無粋なことはない。

 顕微鏡がダメになった――まるで幽鬼のように二階から降りてきたオーエンは、悲痛な声でそう言った。 「まるで恋人を失ったかのような顔だな」  ちょうど昼ご飯のおにぎりを握っていたカインは、苦笑を浮かべてくるりと海苔を巻いた。仕事に没頭していると、どうも食事を面倒がる傾向のあるオーエンに食べさせるには、早い・簡単・気が付いたら食べちゃっていた、というメニューが望ましい。それに気付いて以来、カインのおにぎりを握るスピードは日々上昇中だ。  カインの揶揄にうんざりした顔をしたオーエンは、ダイニングテーブルの椅子に座り、缶詰の桃をひょいと摘んだ。 「言っとくけど、ぼくは恋人なんていたことないからね」 「え!? おまえ、その顔で経験ゼロなのか!?」 「その顔って何だよ! どうせおまえはその顔で取っ替え引っ替えしてたんでしょう」 「取っ替え引っ替えなんてひどいな。博愛主義って言ってくれよ」  くすくすと口元だけで笑みを浮かべれば、さらにオーエンは憮然とした顔をした。 「つまりやってたことは同じだろうが」 「まぁ、確かにやったけどね」 「っておまえ、何の話だ」 「何ってそりゃ」 「言うな!」  今度こそ耐えきれなくなったカインは、声に出して笑い出す。  ――どうにもオーエンといると調子が狂う。それは、初めて会った日から思ったことだ。  今までこんなふうに笑ったことなんて一度もない。こんなに長い時間、他人と一緒に生活をしたこともないし、それを煩わしいと思わないのも不思議だった。 「……ってオーエンこそ何してんだ?」  ふと気付けば、オーエンが袋におにぎりを詰め込んでいる。 「何ってナニでしょう?」 「ごめん俺が悪かった、その冗談はもういいから」 「……新しい顕微鏡を取りに行くんだよ。この前みたいなのは御免だからね」  この前、というのはこの前の事故のことだろう。 「他の荷物もあるから、暇ならおまえも来い」 「それは構わないけど、でもな……」  肩をすくめながらおにぎりを手渡す。 「お弁当持ってお出かけって、ピクニック?」 「なんならおやつも持ってく?」 「それはいいね」  さざめくような忍び笑いが広がった。

 昼間外に出ると、世界の荒廃状態はより顕著に現れる。  鋪装された道路は半分が灰色の砂に覆われ、地割れを起こしていた。途中までは車を走らせたが、案の定、燃料が切れてしまったので徒歩に変更だ。帰りは燃料も抱えて戻ってくるかと思うと少しだけ気が重い。互いに踵がすり減ったブーツで瓦礫を乗り越えると、その先にまた、新たな旧市街が現れる。その繰り返しだ。  歩きながら地図を広げ、目的地の大まかな方向を確認していると、不意に目の前に煙草の箱が差し出された。驚いて顔をあげると、煙草を口の端に銜えたオーエンが、顎をしゃくって取るよう促してくる。ありがたく一本抜き取った。 「おまえが吸うなんて知らなかったよ」  口に銜え、ライターで火をつける。同じように火をつけたオーエンは、空に煙を吐き出しながら淡々と言った。 「普段は吸わないさ。研究室内は禁煙だ」  そのままどちらともなく押し黙った。大人一人分の間隔を空けたまま、歩道も車道も中央車線もない道を進んでいく。空は相変わらずの曇天、雨が降れば外出はできない。有害物質を多く含むからだ。そうしてこの空が晴れることはない。  ここにいるとそのことをまざまざと思い出してしまう。オーエンもまたゆっくりと空を見上げた。  中心部には珍しく人の姿が多くあった。通りで品物を広げる露天商だけではなく、裏路地や廃墟ビルの非常階段にも姿が見える。決して楽しい雰囲気ではない、どこか殺気立って切羽詰まった空気だ。 「クーデター、本当に近いかもしれないな」  これまで人目がつかない場所に潜っていた反政府組織が、至るところで活発化している。それは間違いなかった。  突然、裏路地から近付いてきたふたり組を、カインは煙草を銜えたまま流し見た。一方のオーエンといえば、ひどく冷めた様子で煙草をふかし続けている。――さて、牽制か、それとも勧誘か。どっちにしたって愉快な話じゃないだろう。さらに一歩近付いたふたりを、カインは視線だけで威圧する。指の間に煙草を挟んだまま、微笑を浮かべた。 「一般人のデートを邪魔するなんていけないな。それともお宅んとこは、それが流儀なのか?」  コートのポケットに手を入れると、あからさまに甲高い音が鳴る。一瞬怯んだ男たちの様子をカインは見逃さない。ゆうるりと笑みを深めた。「怪我をしないうちに去るといい」  慌てて走り去った男たちを見送った後、残されたチラシをすくいあげる。その文面に思わず苦笑が漏れた。 「オーエン」  ひらひらとそれを見せる。我関せずと明後日の方向を見ていたオーエンは、カインの声に振り向き、皮肉とも諦めともつかない顔で笑う。  ――宗教団体、花神教。美と豊穣の神・ウェヌスに救いを請う。  カインはぐしゃりとチラシを捨て、その上に吸い殻を放った。

 目的地での用事はあっという間に終わった。憂鬱なのは、これから元来た道を戻らなければいけないことだ。  燃料が入った重い鞄を肩に担ぐと、同じく荷物を抱えたオーエンが「少し寄り道しようよ」と、言い出した。その言葉にカインは心底驚く。何しろ相手は仕事の鬼だ。無駄が嫌いな理屈屋だ。必要なものが手に入ったら、速攻で帰って仕事をしたがるのがオーエンのはずなのに、これは本当に世界が崩壊するんじゃないだろうか。 「なに阿呆なこと言ってる。これはデートなんだろ? 付き合えよな」  一瞬、何のことだかわからず思考が停止した。そうしてそれがさっき、カイン自身が男たちを追っ払った時に使ったジョークだと思い出す。悪戯っぽくこちらを見るオーエンに、カインもまた小さく笑った。 「いいよ。まだピクニックのお弁当も食べてないしな」  大通りを逸れ、ビル群を背中に向け、工場の跡地を進んだ先に広がったのは、海だった。  曇天を映したような灰色の海がどこまでも続いている。 「ここにするか」  さっさと瓦礫に腰をおろしたオーエンは、勝手におにぎりを取り出しかぶりつく。その隣に座ったカインも、おにぎりをひとつ手に取った。ひどくおかしな感じだった。  海を見ながらおにぎりを食べるって、なんだかすごく平和な気がした。地下にある人工芝生の上で、スクリーンの空を見上げながらお弁当を食べるのと同じくらい普通だ。ただちょっとだけ海が灰色に染まっていて、その真ん中に崩れた橋が落ちていて、吹き抜ける風は寒くて、地上でもウェヌスは確実に広まっていて、そしてコートのポケットには拳銃が入っている。――ただそれだけで、あとはひどく普通だった。 「……あの橋」  不意にオーエンがぽつりと呟く。 「なんでも昔は、レインボーって名前だったらしいよ」 「え、虹色だったの? そんなカラフルだったのあの橋か?」 「さぁ、だったのかもしれないね」 「でも橋の残骸があるってことは、向こうにも陸地があったってことだよね。この辺りだと埋め立て地か」  橋の半分から向こうは、白く霧に覆われてよく見えない。もしかしたらまだ陸地があるのかもしれないが、確認する術はなかった。 「よくあの向こうには、花畑があったんじゃないかって想像するんだ」  オーエンらしからぬ言葉だった。けれどカインは、笑ったり揶揄したりはしなかった。  想像してみる。まだ空は透き通るように青くて、その空を映す海も青い。大きな橋をたくさんの車や人が行き来して、その向こうに色鮮やかな花々が揺れているのだ。 「……うん、いいね」  それはとても愉快な想像だった。  頷くと、オーエンはほっとしたように頬を緩めた。差し出された煙草の箱から、ありがたく一本を指に挟む。それを抜き取る瞬間、オーエンはゆっくりと口を開いた。 「おまえ、どうして国に逆らったんだ」  ああ、これが訊きたかったのかと、カインはようやくオーエンの不可解な言動に納得した。  どうしてこんな馬鹿な真似をした――それは初めて会った日にも問われたことだ。その返事で、カインはオーエンの協力を得られたと言ってもいい。おそらく同じことを思い出していたのだろう。オーエンは「理解できないんだ」と言葉を付け足した。 「長いこといっしょにいて思ったけど、おまえ、国に反旗を翻すタイプじゃないでしょう。どちらかといえばなんでも卒なくこなし、面倒なことは避けて上手く立ち回る。さっきみたいな諍いは場慣れしているようだけど、率先して争いを好むタイプじゃない」 「それは褒められているのかな、けなされているのかな」 「正当な分析だよ。でもおまえは国に逆らってぼくのところに来た。どうして?」

 ――やめて! 私の花をどうするつもり? 取らないで、私のよ! 私のよ! いやだ、いやだああああ!

 唐突に女性の半狂乱な声が脳裏に蘇る。  煙草に火をつけ煙を吐く。そうしてしばらく紫煙を燻らせていたカインは、灰色に凪いだ海を見た。それから灰色の空を見上げ、オーエンのほうを向く。彼の瞳は透けるような緋色をしている。 「最初に持ってきたサンプルの手。あれ、知り合いの女性のものだったんだ」  オーエンは驚かなかった。 「別に恋人ってわけじゃない。うちの家ってちょっと階級が上でね、お手伝いで雇っていた女の子だった。内気で控え目で、でも誰よりもよく働いていた。だからある時、お礼のつもりで人工の花をプレゼントしたんだよ。そうしたら、いつもは陰鬱そうな彼女がすごく喜んでね。そりゃあこっちがびっくりするくらいで、そしていつか花畑を駆け回るのが夢なんだと教えてくれたんだ。――そのプレゼントした花がね、真っ赤なアネモネ」  ありがとうございますカインさま――彼女がウェヌスを発症したのは、それから一ヶ月後のことだった。 「手のひらから蕾がせり出し、花が開く寸前に、苦渋の決断で腕を落とした。全身麻酔をしていたはずなのに、その瞬間だけ彼女は目を覚まして、私の花を取らないでと叫んだ。大の男三人がかりで、なんとかベッドに押さえつけたんだ……その後どうなったかはオーエンも知っての通りだよ。それから一週間後に、彼女は死んだ。彼女は身寄りもなかったし、病のことを隠すのは簡単だった。俺も国を混乱させないためには、それが最適だと思っていたんだ」  腕だけがサンプルとして残されることになった。もっとも、保身ばかり考える学者たちが、積極的にこの奇病を分析するとは思っていなかった。  遺体を青いシートに密閉しようとした時、彼女のポケットから滑り落ちたもの。それはカインがプレゼントした花だった。押し花にし、綺麗に包装された、一枚のしおりだった。 「ああ、なんだか虚しいなって思っちゃったんだよ」  カインは苦笑して煙草の灰を落とした。その時の感覚をうまく言葉にできない。全身が虚脱するような、無性に笑い出したくなるような、そんな感覚だった。花を手にして頬を紅潮させていた彼女。花畑を駆け回るのが夢だと言った彼女。それがひどく呆気無く世界から消え失せる。何事もなかったように存在を抹消され、明日も明後日も同じように世界は灰色に染まっていく――。 「気が付いたら腕を抱えて逃走して、ついでにデータと有り金全部引っ掴んで、おまえのところに駆け込んでたってわけ」  はっきり言って馬鹿だったとは思っている。子どもが駄々をこねたような衝動的な行動だ。理由にもなっていない。 「……そうでもないさ」  ずっと黙って聞いていたオーエンは静かに言った。 「もしかしたらその女はおまえのこと……、いや、なんでもない。忘れろ」  今さら何を言ってもすべて憶測でしかない。あの時のカインにあれ以上何もすることはできなかったし、カインもまた、そんな彼女の腕を切り刻んだことを後悔していないだろう。それとはまた別の問題なのだ。  カインは短くなった吸い殻を地面に落とし、踵で踏んだ。オーエンがもう一度箱を差し出してくるが、これには首を振る。 「俺からも聞きたいんだけどさ、おまえ、どうして俺の依頼を引き受けたわけ?」  カインの言葉を証明するものは乏しかったし、危ない橋だったことは間違いない。 「六割は懐事情、三割は研究者としての好奇心。あと一割は、おまえの言葉だよ」 「言葉?」 「ぼくも同じことを思ってたってこと。ガキの頃からずっと――世界は虚しい」  海から冷たい突風が吹いてくる。首をすくませたオーエンは「寒いな」と悪態をつき、自嘲の笑みを広げた。 「まぁ知ってると思うけど、ぼくは孤児でさ。物心ついた頃には、そこらへんの廃墟で似たような境遇の子どもたちと生きていた。ぼくが今の暮らしができるようになったのは偶然だ。国が時々、体裁のためだけに実施している旧市街孤児救済策、元厚生局のお役人なら知ってるでしょう? あれで地下の施設に放り込まれた。たまたまその日はぼくが食糧調達係で、外に出ていたぼくが役人に保護されたんだ。別にぼくじゃなくても、いつも隣で寝ていた子でも、ショックで言葉がしゃべれなくなっていた子でも誰でもよかったんだ。たまたまぼくだけが助かって、他の子たちは――死んだ。どうやら寝床にしていたビルが崩落したらしい。生死の分かれ目なんてそんなもんだよ」  だから勉強したんだ――上着のポケットに手を突っ込んだオーエンは、寒さを振り切るように立ち上がり、数歩前に進んだ。銀色の髪が風になびいている。 「知識が増えれば生き延びる可能性が上がることを知った。あのビルが崩壊の危険があることを知っていれば、あんなことにはならなかった。どれが汚染水なのか、何が危険なのか、法をかいくぐる術とはどこにあるのか。――知識欲の果てがこの仕事だ。純粋な学術的興味じゃない。自分が生きるためだ」  不意に振り返ったオーエンは、軽い口調で告げた。 「……だからカイン、契約は破棄してもらってもいいよ」  それはいつものオーエンだった。いつものオーエンのはずだった。 「ここまで病気が広まれば、さすがに国も黙っているわけにはいかないだろう。次期に、大規模なチームが編成されるはずだ。そうなれば、こんなちっぽけな研究所でぼくひとりが研究するより、成果が出るのもずっと速い」  生物学者、オーエン。仕事の鬼で、いつも真っ直ぐに姿勢を正して、人より何倍も努力を重ね、整った顔立ちとは裏腹に、人使いも口も悪い研究者――。  なのに今、カインの目に映ったオーエンが、何故か小さな子どもに見えた。グレーに染まった寒空の下。ひとりで生きていくのだと奥歯を噛み締め、他人を拒絶し続ける、痩せ細った子どもがそこにいた。  ――気付けばその子どもは、カインの腕の中にいた。 「……おまえ、何してんだよ」  驚きと戸惑いの声が腕の中に聞こえる。カインもまた、自分で自分の行動に驚いていた。そうして驚きながらも、これでいいのだと納得している自分がいた。 「おい、早く離せよ」 「大丈夫、大丈夫だから」 「何がだ」 「大丈夫」 「だから何がだ!」 「大丈夫なんだよ、オーエン」  ぽんぽんと背中を叩くと、怒りで強張っていた身体から溜め息とともに力が抜けていく。沁みるような冷気の中、じわりと互いの体温を共有していく。オーエンの体温はカインよりもだいぶ低い。心臓が脈打つ音は、確かに生きていることを伝えるのだ。再びぽんぽんと背中を叩きながら、カインは空を見上げて笑った。 「……俺にはさ、おまえ以上に信頼している学者はいないから、契約は解除しないよ。悪いけど、もう少しあの屋敷に置いといてもらえるかな」  そうして頬に軽く信頼のキスを落とすと、心底呆れたような顔がこちらを向いた。 「……おまえ」 「やっぱり阿呆だって?」 「いや」  軽く背中に腕が回されると同時に、カインの頬をやわらかい感触がかすめる。驚いて瞬けば、オーエンはいつもの憮然とした顔で言った。 「仕方ないからぼくも阿呆になってやる。感謝しろよな」  そのまま至近距離で見詰め合うこと一拍。ふたりは同時に噴き出した。 「何やってんだ俺たち!」 「うん、ちょっとさすがに自分でも馬鹿だと思った!」  互いに腹を抱えて笑い出した。  ――かつてこの地域は、工場地としてもビジネス街としても、そして観光地としても栄えていたのだという。大都市の一部、青い空の下に青い海。大きな橋を車や人が行き来し、そして遠く霞の向こうにはきっと花畑が広がっている――。 「まぁ、デートらしいデートだったよな」  眦を拭って顔を上げれば、オーエンもまた、前髪をかきあげ口の端を吊り上げる。 「男女じゃなくて、いい年した男同士だけど」 「海も見たし、お弁当も食べたし」 「灰色の海に、具なしのおにぎり」 「ついでに素敵なお土産つき」 「そうだ、これから重労働だよ! 誰だ、こんなとこ寄り道したのは」 「え、言い出したのおまえだよな!?」 「さぁ、そんなことは忘れちゃった」 「えぇ……」  今、灰色の廃墟に弾けるような笑い声がふたつきりだ。けれど初めてこの世界が、少しだけ色付いた気がした。

(中略)

EPISODE 08 ――君の声。

 そうして、たったひとりきりになった屋敷の中で、オーエンはしばらくぼんやりと窓の外の曇天を見つめていた。  カインはもういない。他ならぬ自分が追い出したのだ。もう二度と帰ってこないだろう。  思えば、自分の意思でこんなに長い間、他人といっしょに生活したのは初めてだった。最初はほんの気紛れと退屈しのぎくらいの気持ちで、こき使っていればそのうち向こうが勝手に出ていくかと思ったのに、これが予想に反して長く一緒にいてしまった。  電球はすべて取り替えられ、床は綺麗に磨かれた。キッチンには常に洗ったカップが並べられ、そして棚の中には蜂蜜が常備されている。もうオーエンはこのベッドから簡単に動くことはできないけれど、目を閉じればその光景がありありと思い浮かぶ。 「……ああ、楽しかったなぁ」  思わずひとり呟いて、オーエンはくすくすと喉の奥で笑った。 「せっかくだからホットケーキ、最後に一口食べておけばよかったかな」  話を切り出すタイミングを少し間違えたかもしれない。  ずっとひとりで生きてきて、それでいいと思っていたのに、どんどん人のテリトリーに入り込んできた奴。しっかり食べなきゃ駄目だよなんて、お節介ばかり焼いて、オーエンの心配ばかりで。なんだかうっかり楽しかったと思ってしまえるくらい、大切な大切な時間だったから。だから、 「これで、よかったんだ」  日ごとカインの腕や顔に傷が増えていること。それにオーエンは気付いていた。  カインは仕事で失敗したと言っていたけれど、そんなはずがあるわけがない。そして何よりも、カインの傷の数に比例して、どんどん自分の記憶が抜け落ちる時間が増えていた。ウェヌスのことは、今、この国で一番自分がわかっていると自負している。誰が彼を怪我させたかなんて、考えなくてもわかる。  けれどカインは何も言わないだろう。もしもオーエンに殺されそうになっても何も言わないだろう。そういう奴だからだ。 「……だからこれでよかったんだ」  もう一度小さく呟いた。大学時代の教授に連絡したなんて嘘をついて追い出して。その教授が、数年前に亡くなっていたことをカインが知らなくてよかった。  ぼんやりと灰色の雲を見つめながら、自分の人生ってなんだったんだろうなと思う。  ずっとがむしゃらに生きてきた。他人を信用せず、自分の力だけで生きていた。振り返れば未練がないわけではないが、これで死ぬらしいから仕方ない。人間の命なんてあっけないものだ。  なんだか無性に馬鹿馬鹿しい気分になって、オーエンは笑った。笑いながら、寒さにぶるりと身体を震わせる。  体温が低い身体に、彼のあたたかさはいつも心地よかった。他人の体温が心地よいと思える日がくるなんて、自分の感情の変化が不思議だった。病気になってからはますます体温が下がったから、自分の手をぎゅっと握る彼の温度がうれしくて、まだ自分は生きているのだと実感できて、そして。  今、オーエンはひとりきりになった。ぽっかりと胸に穴を空けたまま、ひとりになった。  不意にぼろりと涙がこぼれ落ちる。慌てて頬を拭うが、あとからあとから涙が溢れて止まらない。その自分の手が根に侵蝕されていることに気付き、オーエンは泣きながら自嘲の笑みを浮かべた。 「ああ、ずっと我慢してたからなぁ」  もう泣き顔を見られて心配されることはない。我慢する必要はない。そう思えば、涙はどうしようもなく止まらなかった。 「……カイン、行くな、戻ってきて、カイン」  他ならぬ自分が追い出したのに、どこかでそれを願っている自分がいた。  震える手でそっと頬に触れる。信頼の証――そう言って、彼はいつもここにキスをした。 オーエンはいつも阿呆だのなんだの怒鳴っていたけれど、本当はずっとうれしかったのだ。一度くらい、うれしかったと言ってやればよかった。  視界が徐々に滲んで見えなくなっていく。きっと涙のせいだ。  ああ、できるならもう一度。 「……キス、してほしいな」  オーエンは小さく笑った。それが最後だった。  それきり、世界は何も見えなくなった。

【1/15新刊サンプル】LIFE IS BEAUTIFUL
1/15カイオエDay&Nightの新刊サンプルです。
本文144ページ/文庫/全年齢/約55000字
とらのあな予約
https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/item/040030956962/
魔法舎のお話ではなく、オーエンが研究者でふたりとも人間というパロディです。
過去のエピソードと現在のエピソードが章ごとに展開します。
花の咲かない無彩色な世界で人体にのみ色鮮やかな花が咲く謎を解き明かすというお話で、リケも登場します。
表紙はタイトルロゴのみですが、黒のベタ塗りをラメ入りの紙に刷ります。傷のデザインと裏表紙に入る花柄が本文の内容とリンクしています。

サンプルは校正前の物ですので、誤字脱字があっても入稿データでは直っているはずです。
よろしくお願いします。
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2021年12月26日 03:20
つきなが

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