文明的なものの逆襲
テーマ:ブログ
人間が野蛮や粗野を脱して、文明的で精妙にならなければならない、というのは、人間が地上深くに降下する極限の地点をすぎて、再び霊的世界に向かって上昇していく時期に、今があたっているから、という理由がまずひとつある、と言えるでしょう。
理由にはもうひとつあり、それはカリ・ユガ期という、人間が最も霊的世界から疎外された状況が去り、再び霊的な知識(これも霊そのもの)を得るには、自身が霊にふさわしく精妙でなければ、自分という器に霊的知識が流れ込むことはない、という事情があるせいだと思います。
それで自分自身を浄化するということが、今すぐにははかばかしい成果が上がらなくても、長期的には必ず目指さなければならない目標となります。
知識を扱うのは主として魂領域なので、魂を浄化し、よこしまな考えが紛れ込まないようにする、というのがひとつの考え方ですが、魂領域を可能にするための基盤は、アストラル体となっていて、それは物質体よりも精妙ではあっても、体的存在であり、霊そのものに比べると、粗雑なものだと言えるでしょう。
そして自分自身の身体の中の粗雑なものに働きかけて、精妙な魂活動の基盤にすることなしには、魂活動ができないし、身体の中の粗雑な部分をさらに征服することがなければ、さらに高品位の魂活動を実現できない、ということだと思います。
このように人間の魂活動や、魂活動の基盤がこれから先もずっと、より精妙になっていかなければならないという時、粗雑なもの野蛮なものは単に人間から遠ざけられるものだとみなしていいんでしょうか。
実際はまだ物質的な地球や、物質的な地上生活と付き合っていかなければならないし、そこには地上に適応して、物質性を生活の中心にしている存在や、粗野な魂活動を当然のように行っている存在がいます。
それで、精妙さを目指し、地上世界のありようから距離をとりつつある人間と、粗雑で野蛮な地上世界とのギャップが、日を追うごとに大きくなり、人間にとって環境がストレスフルになる、ということではないでしょうか。
人間の中にも、ある意味で地上世界に置き去りにされ、地上に過剰適応する人たちが出てくるため、人間と人間の間の対立も生じます。
しかし野蛮な存在にも、価値を見ることができるでしょう。野蛮な存在の特徴として、早い段階で浮上してくるのは、感覚的現実を左右する強い力を持っているということです。
それは腕力のような物理的な力でもありますし、地上において敵を倒し自分たちの生存を守ることに特化した技術が磨かれていることでもあります。そして地上的生存に邁進し、その他のことに気を配らず、自由のような価値にはほとんど意味を認めない、迷いのないありようが、遠い未来に向かって到達可能な究極の精妙さを目指している人間と対決した時に、完全な優位性を発揮するのだと思うのです。
地上で生きるにあたっては、いくら精妙さを目指しているからといって、地上的な力、地上的な技術から離れるわけにはいきません。そうでないと、地上に生きながら、生前の世界にいるのと同じになってしまうでしょう。地上で何かを成し遂げたいのであれば、それが精神的な課題である場合でも、地上生活を完全に無視することはできません。書斎で沈思黙考することで課題が成し遂げられるとしても、必要な生活物資を手に入れるための商業的努力をいくらかはしなければなりません。
しかしまるで地上世界しか存在しないかのごとく、地上生活に邁進している人と比べると、片手間に地上生活への適応を考えている人は、対決した時に劣勢にならざるを得ないという気がします。
未来のために文明的要素を保持したい人は、地上生活の便宜性のみを追求する野蛮に対してどう向き合えばいいのでしょうか。
それはおそらく、野蛮な存在が、本能的、無意識的に力を発揮できるのに対して、精妙さを目指す人間が獲得できる精神的な力をますます増強することによって対抗しようとすることだろうと思います。
精妙さ志願の初心者が、おぼつかない足取りで歩き出した段階では、野蛮な存在に比べて、著しく弱い存在になってしまうでしょう。
それで実現可能かどうかは別にして、退行を試み、乱暴なことをあえて自分に禁じず、何も考えずに大胆な行動がとれるように持っていけないかと考えることがありえます。
しかし一旦、自己意識的で考えてから行動するようになった人間が、何も考えなくなって、自然と体が動くように持っていくことは、実際には不可能ではないでしょうか。
逆にやるべきは、先に進もうとすることで、意識的な自己により、賢明な判断が可能になり、精神的な集中によって、易きに流れる傾向を克服し、決めたことに迷わず邁進する強さを獲得することができれば、身体が進む方向に魂が引きずられるような野蛮な存在と、互角に対抗できる未来が見えてくるんじゃないでしょうか。
一方、野蛮な存在と文明的な存在が、協力関係を構築すれば、霊的な世界に対して親和性がある人がその分野で他の人の肩代わりをし、地上的な世界に習熟している人はその分野で他の人にできないことをやって、お互いに利益となるのだろうと思います。
ただし実際は、野蛮な人は野蛮な人で集まり、文明的な人は文明的な人で集まって、自分たちが正しく他の人たちは間違っていると考えることが多いので、互いに反目しあい、お互いの利益を削り取ろうとするばかりかもしれません。
胃腸は地上的な力を吸収するための臓器ですが、ここでインテリは胃弱な場合があるということを考えてみたいと思います。
何らかの因果応報的な原因で、地上的な力を取り入れる能力に欠陥がある人が、霊的な方面に引き寄せられるということはあるかもしれません。
これは先天的な理由で聴覚を失うか、失調している人が、深く考えることができる思想家になったという例があるそうです。この場合、ハンディキャップが益として働いていて、それが地上で活躍するためにカルマ的に準備された可能性すらあると思われます。
胃弱も、そうやって深く考えるために、利用されている可能性もあるでしょう。
一方で、四六時中考え事をしていると胃弱になるという逆の関連もあるんでしょうか。
考え事にふけってばかりで、穴があったら落ち、電柱があったらぶつかるような人は、少し極端ですが、多分、このような偏りが、運動とか食事とか生活リズムとかをおろそかにして、地上的な能力を削り取ることに寄与するということがあるような気はします。
精神的なことばかりにかまけるのは、個人の強い欲求を原因としていることもありますが、他の人があまりにも考えないために、一人が周りの分まで考えなければならなくなっているという例もあるでしょう。
ということは、個人の生活においても、精神的なことと地上的なことの間にバランスを取るべきだと言えるでしょうし、集団の中でも誰かは考え事ばかり、誰かは考えずに動くことばかり、ではなくて、みんながある程度のばらつきはありつつも、思考、感情、意志の活動の全てに関与すること、集団生活において偏りをならし、バランスをとることも必要なのかもしれません。
実際、今の日本で、特定の人ばかり国政について考え、他の人は全く考えないという、集団的な偏りがあるので、思考ばかり、政治運動ばかりの人と、労働ばかり、日常生活ばかりの人に分化してしまっていると言えるかもしれません。