日本大百科全書(ニッポニカ)「朝鮮人強制連行問題」の解説
朝鮮人強制連行問題
ちょうせんじんきょうせいれんこうもんだい
日本が朝鮮を植民地としていた1910年(明治43)から1945年(昭和20)のうちで、日中戦争と太平洋戦争中に、主として炭鉱などの労働に従事させるために、本人の意志と関係なく朝鮮人が動員されて、日本本土に連れて来られたこと、およびそれによって生じた諸問題をいう。植民地であった朝鮮からは、さまざまな形で労働力が流れ込んでいた。自分の意志で来た人もいる一方で、徴用などを背景に、自分の意志と関係なく連れて来られた人々もおり、これを「強制連行」とよぶことが多い。
[武井 一]
朝鮮からの移住について目次を見る
朝鮮が植民地化されてから、日本本土に流入する朝鮮人移民の数は増加の一途をたどった。そのため、1934年(昭和9)の閣議決定「朝鮮人移住対策の件」により朝鮮人移民は制限されていた。一方で、1937年に始まった日中戦争に総力戦で対応するため、とくに炭鉱などで朝鮮人労働者を必要とする事態も起きており、以下のような対策が採られた。
1938年、「国家総動員法」制定。朝鮮にも適用される。
1939年、「国民徴用令」施行。国家総動員法に基づくもので、朝鮮にも施行された。しかし、炭鉱は徴用の対象となる産業ではないため、朝鮮では「自由募集」により炭鉱の労働者が集められた。
1939年、「昭和14年度労務動員実施計画」策定。内閣直属の企画院による。
1942年、「昭和17年度国民動員実施計画」策定。労務動員実施計画から名称を変更したもので、朝鮮での募集は「自由斡旋(あっせん)」から「官斡旋」に変更された。
1944年、炭鉱などが「徴用対象」となる。これにより、それまで「官斡旋」の対象だった労働者も徴用されることとなった。
労務動員実施計画等には、日本人だけでなく、朝鮮人をはじめとする植民地の人の配置計画も含まれる。このうち、朝鮮から日本本土への動員計画は、自由募集であった1939年から1941年までは毎年8万人程度、官斡旋になった1942年以降は毎年12万人程度であった。この両者を合計すると70万人近い人が動員されたことになる。
[武井 一]
動員の背景目次を見る
動員先は、おもに北海道や九州にあった炭鉱や土木工事現場であった。日中戦争と1941年(昭和16)からの太平洋戦争により石炭増産が急務となったためであるが、日本人の多くは労働条件の悪い炭鉱労働を忌避したため、日本人だけでは採掘に必要な労働力をまかないきれなかった。その状況は、1930年代初期から問題となっており、炭鉱側は、朝鮮人労働者を炭鉱労働者として導入すべきと主張していた。また、日本本土にいる日本人青年の数は徴兵のため減り、日本本土の労働力不足はさらに深刻化した。それを補うため、1942年、「朝鮮人労務者活用に関する方策」が閣議決定され、日本本土で積極的に朝鮮人労働者を導入することになった。
[武井 一]
募集の制度と実際目次を見る
朝鮮人労働者は農村の青年を中心に集められた。朝鮮人に対する徴兵制は1944年(昭和19)まで行われず、また、朝鮮の農村では労働力の余剰人員が多かったが、1939年を除いて、応募状況は芳しくなかった。当時の朝鮮では、北部の工業化推進や、農業生産維持のための労働力の確保も必要であったからである。1939年から1941年までの朝鮮における募集は「自由募集」で、日本本土の企業から派遣された「募集人」によって行われた。1942年以降は、「自由募集」にかわって「官斡旋」となった。1941年「昭和16年度労務動員実施計画による朝鮮人労務者の内地移入要領」によって、地方行政機構が労務動員に協力することになったのである。しかし、実際は警察や翼賛団体、労働者を必要とする企業などが派遣した労務補助員が協力した。朝鮮人強制連行真相調査団編『朝鮮人強制連行調査の記録 中国編』など、各地で採取された証言記録によれば、自主的にこのような募集に応じた例も多いものの、警察官や町村役場にあたる面事務所の役人に連行されて手を縛られたまま銃剣を突きつけられて船に乗せられた、あるいは、突然留置場に入れられたのちに船に乗せられたというように、明らかに物理的暴力や心理的圧迫による事例も見受けられる。朝鮮総督府もこのような事態を無視できず、『朝鮮総督府官報』1944年4月13日号によれば、総督府が日本の県知事にあたる、朝鮮の道知事に対して、「志望ノ有無ヲ無視シテ漫然、下部行政機関ニ供出数ヲ割当テ、下部行政機関モ亦(また)概シテ強制供出ヲ敢(あえ)テ」する状況があり、このような「欠陥ハ断ジテ是正セネバナリマセン」と訓示をする状態になっていた。日本本土での、朝鮮人労働者の受け入れ態勢は、炭鉱が徴用の対象となったことから、1944年からは、炭鉱労働者が「国民徴用扶助規則」の適用を受けられるようになったが、それまでの朝鮮人労働者は同規則の適用外であった。
一方、朝鮮人労働者を雇用する日本企業の多くでは、日本人と異なる労務管理が行われ、日本語のできる朝鮮人が労務管理者となることも多かった。また、朝鮮人労働者の逃亡を防ぐために「監獄部屋」もつくられた。このような事態に、朝鮮総督府側は日本側に対して、労務管理の改善を要求していた。太平洋戦争終結後、連合国最高司令官総司令部(GHQ)と日本政府は朝鮮人労働者を優先的に帰国させた。その結果、未払い賃金を受け取れないとか、国民徴用扶助規則などの援護制度で、徴用時に受給できるはずであった手当などの補償を得られない等の問題が残った。
[武井 一]
まとめ目次を見る
徴用は第一次世界大戦以降、列強各国でとられていた戦争の「総力戦体制」のなかで行われており、朝鮮も日本の一部であったため、総力戦体制に組み込まれた。しかし、日本人の徴用者が日本本土内での徴用であったのに対して、朝鮮人労働者の多くは、朝鮮から切り離されて日本本土に連れてこられた。また、朝鮮での日本語の普及率、ラジオ、新聞などの普及率が低かったため、自分の立場を十分に理解できなかった人も多かったという指摘もある。強制連行問題の「強制」が何をさすかについては議論があるが、いずれにせよ、「強制」ととらえられる事態は生じていたといえるであろう。
[武井 一]
『朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』(1965・未来社)』▽『木村幹著「総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察――人的動員を中心にして――」(日韓歴史共同研究報告書(第1期)第3分科篇下巻所収)』▽『外村大著『朝鮮人強制連行』(岩波新書)』